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竜の墓標と最後の竜騎士

作者: ねこラシ

 朝霧が深く立ち込める北の辺境、アルディア山脈の麓に、その村はあった。人口わずか百人ほどの小さな村で、住民のほとんどが羊飼いか猟師だ。険しい山々に囲まれたこの地は、王国の中心部から遠く離れており、税の徴収人さえ年に一度しか訪れない。都会の喧騒とは無縁の、静かで穏やかな場所だった。


 その村の外れ、さらに山に近い場所に、一軒の古びた小屋が建っていた。石と木で作られた質素な造りで、煙突からは細い煙が立ち上っている。小屋の周りには様々な薬草が植えられており、それらは丁寧に手入れされていた。この小屋に住むのは、村人たちから「隠者」と呼ばれる老人だった。


 老人の名はガレス。かつて王国騎士団に所属していたと噂される人物だが、本人は決してその過去を語らない。白髪は腰まで伸び、深い皺が刻まれた顔には、長い年月を生きてきた者だけが持つ静謐な表情が浮かんでいた。村人たちは彼を恐れてはいなかったが、どこか近寄りがたい雰囲気があり、必要な時以外は関わろうとしなかった。ガレスもまた、村との距離を保ち、ただ薬草を育て、時折村人の怪我や病気を治療する程度の交流しか持たなかった。


 そんなガレスの元に、ある日、一人の少年が訪れた。少年の名はエドワード。村長の三男で、十五歳になったばかりの青年だった。茶色い髪と明るい瞳を持つ彼は、村の中でも特に好奇心旺盛で、よく山に登っては珍しい草花や動物を観察していた。この日も、山で見つけた不思議な花のことを聞きに、ガレスの小屋を訪れたのだった。


 「失礼します、ガレスさん」


 エドワードは遠慮がちに扉を叩いた。しばらくして、扉が開き、ガレスの顔が覗く。


 「ああ、村長の息子か。どうした?」


 「あの、これなんですけど……」


 エドワードは布に包んだ何かを差し出した。布を開くと、そこには見たこともない青い花があった。花びらは透き通るように美しく、まるでガラス細工のようだった。しかし、それ以上に奇妙だったのは、花が微かに光を放っていることだった。

 ガレスの表情が一瞬強張った。それはほんの一瞬のことで、すぐに元の無表情に戻ったが、エドワードはその変化を見逃さなかった。


 「どこで見つけた?」


 ガレスの声には、普段にない緊張が含まれていた。


 「山の奥です。いつもは行かない場所なんですけど、今日は珍しい鳥を追いかけていたら、崖の上の方で……」


 「崖の上? 具体的にはどのあたりだ?」


 「えっと、北東の方角で、あの三つ並んだ岩山の一番右側の……」


 ガレスは黙って花を手に取り、じっと見つめた。その目には、懐かしさと、そして深い悲しみが浮かんでいた。


 「ガレスさん?」


 不安そうに声をかける。ガレスは深く息を吐き、エドワードを見た。


 「この花は、竜血花という。千年に一度しか咲かない、伝説の花だ」


 「りゅう、けつか?」


 「竜の血を吸った土地にだけ咲く花だ。つまり、その場所には竜の亡骸が眠っている」


 エドワードの目が大きく見開かれた。竜。それは伝説の中にしか存在しない、強大な魔獣だ。数百年前、世界には多くの竜が生息していたが、人間との戦争により絶滅したと言われている。最後の竜が討伐されたのは、およそ三百年前のことだった。


 「でも、竜なんて……もういないって」


 「いや、いた」


 ガレスは静かに言った。


 「少なくとも、一頭は。そして、その竜はこの山で死んだ」


 ガレスは小屋の奥に入り、古びた木箱を取り出した。箱の中には、色褪せた布に包まれた何かが入っていた。布を開くと、そこには美しい銀色の鎧の一部があった。胸当てだろうか。表面には複雑な紋様が刻まれており、月光を受けたように鈍く輝いていた。


 「これは……」


 「竜騎士の鎧だ。かつて、竜と契約を結び、共に戦った騎士たちが身に着けていた」


 「私も、その一人だった」


 エドワードは息を呑んだ。竜騎士。それは伝説の中の伝説、英雄譚の中でも最も尊ばれる存在だった。竜と心を通わせ、空を駆け、大陸全土を守護した騎士たち。彼らは人間の中でも特別な才能を持つ者だけが選ばれ、竜との絆を結ぶことで、常人を遥かに超える力を得たという。しかし、竜との戦争が始まると、多くの竜騎士は苦悩した。自分たちの相棒である竜と、同胞である人間。どちらを選ぶべきか。ある者は竜の側につき、ある者は人間の側についた。そして、戦争が終わった時、竜も竜騎士も、ほとんどが死に絶えていた。


 「私の相棒だった竜の名は、アズライト。蒼銀の鱗を持つ、気高い竜だった」


 ガレスは遠い目をして語り始めた。


 「戦争が始まった時、アズライトは戦いを拒んだ。『人間も竜も、共に生きるべきだ』と言ってな。だが、両者の憎しみは深く、もはや対話の余地はなかった」


 ガレスは窓の外、山の方を見た。


 「私はアズライトと共に、戦場から逃げた。裏切り者と呼ばれた。人間からも、竜からも。それでも、私たちは生き延びようとした。いつか、憎しみが消え、再び共存できる日が来ると信じて」


 しかし、その願いは叶わなかった。戦争は激化し、多くの命が失われた。そして、最終的に人間が勝利を収めた時、残された竜はわずかしかいなかった。それらも、やがて狩り尽くされた。


 「アズライトは、この山に隠れ住んだ。私も騎士団を離れ、共に暮らした。誰にも見つからないよう、人目を避けて」


 だが、平穏な日々は長くは続かなかった。ある日、王国の討伐隊がこの山に現れた。最後の竜を狩るために。


 「アズライトは戦わなかった。人間を傷つけたくないと、最後まで言っていた。だから、私が戦った。かつての仲間たちと」


 ガレスの声は震えていた。


 「私は負けた。重傷を負い、もう動けなかった。そして、アズライトは……私を守るために、討伐隊の前に立ちはだかった。一撃も放たず、ただ私を庇って。そして、剣に貫かれた」


 エドワードは言葉を失った。ガレスの目には、涙が浮かんでいた。かつての記憶を遡り、戦友とも言える竜との別れを目の前で見ているかのようだった。


 「アズライトは死ぬ間際、私に言った。『お前を守れて良かった。お前は生きて、いつか人と竜が再び出会う日のために、記憶を繋いでくれ』と」


 その後、討伐隊は去った。最後の竜を倒したという功績を持ち帰り、褒賞を受けるために。ガレスは傷だらけの身体で、アズライトの亡骸をこの山の奥深く、人の目に触れない場所に埋葬した。そして、この村に移り住み、ひっそりと暮らしてきた。それから三十年。誰にも過去を語らず、ただ静かに、相棒の墓を守り続けていた。


 「その場所に、あなたは行ったんだ」


 ガレスはエドワードを見た。


 「竜血花が咲いたということは、もう三百年が経ったということだ。アズライトの魔力が土に還り、新たな命として芽吹いた」


 エドワードは竜血花を見つめた。青く透明な花びらが、微かに揺れている。


 「案内してくれないか。その場所へ」

 

 「もう一度、アズライトに会いたい」


 二人は山を登った。険しい道を進み、崖を迂回し、三つの岩山の麓に辿り着いた。そこから先は、さらに険しい道が続いていた。普段なら登るのを躊躇うような場所だが、ガレスは迷いなく進んだ。まるで道を覚えているかのように。エドワードは老人の背中を追いながら、その足取りの確かさに驚いた。普段は杖をついて歩いている老人が、まるで若返ったかのように、軽やかに岩場を登っていく。


 やがて、二人は小さな高原に辿り着いた。周囲は切り立った崖に囲まれ、空だけが開けている場所だった。そして、その中央に、大きな岩の塚があった。人の手で積まれたものだと一目でわかる、整然とした石の山。その周りに、無数の竜血花が咲いていた。青い光が幻想的に揺らめき、まるで星空を地上に降ろしたような光景だった。


 ガレスは塚の前に膝をついた。


「久しぶりだな、アズライト」


 老人の声は優しかった。


「三百年も待たせてしまったな。その間、世界は随分変わった。竜はもういない。竜騎士もいない。お前たちのことを知る者も、もうほとんどいない。伝説になってしまった」


 ガレスは塚に手を置いた。そして、塚を撫でるように上下させる。その手つきは小動物を触るかのように優しさと慈愛に溢れていた。


 「だが、私は忘れない。お前との日々を。共に空を飛んだこと、共に笑ったこと、そして、お前が最後に私を守ってくれたこと」


 風が吹き、竜血花が一斉に揺れた。まるで、返事をするかのように。エドワードは、その光景を静かに見守っていた。

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