第1章-1 「八月十七日、青梅にて」
東京が灼かれて、二日が経った。
青梅の朝は、ひどく静かだった。
山の緑はまだ濃く、谷のあいだから流れてくる風には、かすかに秋の匂いが混じり始めていた。
その風が、僕の肌を撫でる。
気温はまだ高く、太陽は早くも昇っていたが、空気は妙に澄んでいて、肌寒ささえ覚える。
だがその清冽な空気の底には、一昨日から居座り続ける何か――目に見えぬ重さが漂っていた。
僕は、丘の上にある防空壕のわきから立ち上がり、軍靴のまま、朝の土を踏みしめた。
足元には、一昨日の灰がまだ薄く積もっている。
踏みつけるたびに、小さく、ざらりと乾いた音がした。
青梅から見下ろす東京の方角――その空は今、申し訳程度に晴れていた。
けれどその青は、どこか嘘のように薄く、空々しかった。
あの日、僕は見てしまったのだ。空が、ひっくり返るのを。
真っ昼間、太陽の何倍も眩しい光が、空の上から降ってきた。
爆撃機が落とした新型の爆弾だったらしい。
閃光が視界を裂き、耳をふさいでも聞こえてくるような地鳴りが続いた。
風が、山を巻き上げて吹き抜けた。
草木が倒れ、地面が揺れ、ただ、恐ろしかった。
あれが広島や長崎身襲ってしまったなんて…。
――あれは、空が壊れたんだ。
僕は誰にも言えなかったその言葉を、心の中でまた繰り返した。
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広場に着くと、妙な音が聞こえて来た。
ごうごうと低く唸るエンジン音。
それがやがて、幾台もの救護車の姿となって現れた。
東京中心部から来たのだ。
舗装されていない山道を、ありったけの速度で登ってきた車両が、軍用広場の端に次々と止まった。
「道をあけろ! 担架、こっちだ!」
野戦病院の軍医たちが怒鳴る。
まだ若い衛生兵が、泥と煤にまみれた包帯を抱えて駆け回る。
僕は動けなかった。
担架に乗せられて降りてくる兵士たちは――もはや人の形ではなかった。
顔の皮膚は焼け縮み、目も口も、どこにあるのか分からない。
軍服は剥がれ落ち、肌はただれてどろりと崩れ、黒く焦げ、血と膿と煤でぐちゃぐちゃだった。
一人の救護将校が、ぽつりと呟いた。
「……東京の本隊だ。百五十名中、生きていたのは……五名だけだ。しかも、誰一人、喋れない。」
言葉が、風に流れて消えた。
僕の胸がきりきりと痛んだ。
これが、東京の“結果”なのか。
あの光の正体が、これなのか。
上官から補助命令が下りた。僕たち少年兵にも、簡単な手当てや水の運搬が割り当てられた。
僕は、無言で毛布を抱え、一人の男のもとへ膝をついた。
担架の上で横たわるその兵士は、かすかに身じろぎをしていた。
肌は焼け爛れ、どこが顔かもわからない。
けれど――生きていた。
僕は、水筒の水を布に含ませて、そっと唇にあてがった。
男の手が、がくりと動いた。冷たい指先が僕の腕を掴んだ。
弱い。命の尽きかけた者の力だった。
「もう……終わりだ……」
隣にいた兵士がぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。
その声は、声というよりも、息だった。
もう一人が、拳を握って、歯を食いしばった。
「こんなもん……戦争じゃねぇよ……地獄だよ……」
空は青いままだった。
だが、その青が、僕にはただ空しく、冷たく映った。
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手当ては、焼け石に水だった。
薬も包帯も足りず、痛みに喘ぐ兵士の声が、お昼前になっても絶えなかった。
昼を迎える頃、配給の時間が来た。
少年兵たちは黙って並んだ。
そこに並ぶ者たちの顔は皆、疲れ果て、乾いていた。
乾パンの箱はたくさんあるが制限され、水筒に入れられる水の量も限られていた。
上官は声を荒げた。
「今日の分はここまでだ。明日までもたせろ!」
不満の声は誰からも出なかった。
ただ、小声の囁きが列の端に漂っていた。
「……昨日より、減ってねえか」
「また、本部の上官に回されたんだろ。あいつらばっかり……」
僕は配給袋を握った。
軽かった。あまりに軽く、むしろ逆にずしりと重かったような気がした。
それでも、並ぶ者たちの列は崩れなかった。
空腹も、怒りも、もはや言葉にならぬものだった。
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午後、広場の仮設テントから、甲高い叫び声が響いた。
男の喉が裂けるような、痛みの悲鳴。
僕は、それをじっと聞いていた。
目を閉じず、耳を塞がず。
ただ、その声を――心の奥に刻み込むように。
「……俺は、生きて帰る。どんな目に遭っても、帰る」
言葉にしてみると、その誓いは思いのほか静かだった。
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夕刻。
陽はまだ空の高みにあったが、色はもう赤く傾いていた。
広場の隅の石段に、僕は座っていた。
すると、誰かが僕の隣に座った。いつも見かけるやつだ。
疲れ果てた二人の影が、地面に長く伸びている。
どちらからともなく、言葉を交わす。
「なあ、お前さ……何年生まれ?」
「四年。七月。お前は?」
「九月。……近えな」
その少年兵が少しだけ笑った。
僕も、わずかに口の端を動かした。
「名前なんていうの?僕は綾城。」
「田所だ。」
田所とは気が合い、話が進む。
「お前、練馬って言ってたな。親父さんは?」
「表具師。俺はずっと手伝ってた。……なのに、今ここだよ」
「……俺も似たようなもんだ。親父が地元の駐在でな。兵隊なんて、夢にも思わなかった」
少しだけ、風が吹いた。
蝉の声も遠くなり、広場はしんと静まり返っていた。
「戦争、勝てると思うか?」
田所が、ぽつりと訊いた。
僕は答えなかった。いや、答えられなかった。
少し間を置いて、言った。
「……勝つとか、負けるとか、もう関係ねえ。さっきお前、どんな目に遭っても生きて帰ってやるって作業痛に呟いてただろ。俺もそうだ。俺は……誰かと一緒に帰りたい。それだけだ。」
田所はしばらく黙り、そしてふっと笑った。
「……いいな、それ。お前、変わってるわ。僕、いっしょに帰ろうぜ!」
僕は、静かに頷いた。
「約束な」
「破ったら、ぶん殴る」
「死んでたら?」
「幽霊になってでも殴る」
二人の笑い声が、焦土の空に、ほんのわずかだけ響いた。
それは、生きている者だけに許された、ひとときの音だった。