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第57話 幼馴染彼女とアニマルパジャマナイト1

 悠人と蛍が我が家を訪れた翌日。


 俺が食器を洗う音が、カチャカチャとキッチンに響いている。その音に紛れて、俺は小さくため息をついた。


 時刻は午後8時、今しがた夕飯を食べ終えたところだ。


 ここまでは実に平穏な一日だった。里桜と一緒に、のんびりまったりと過ごす最高の時間だった。


 問題なのはこの後。


 洗い終わった食器を拭きつつ顔を少しだけ上げる。視線の先には、悠人と蛍から贈られた二着のパジャマがあった。昨日の里桜の言葉通り、しっかりと洗濯がされ、ハンガーに掛けられ、カーテンレールに吊るされている。


 かたや黒猫、かたや白兎の着ぐるみパジャマ。俺が着ることになるのは白兎の方だ。


 単体で見れば非常に可愛らしいが、自分がそれを身にまとう姿を想像すると羞恥に悶えそうになる。


「隼くーん、洗い物終わったならこっちおいでよー」


 リビングのソファから、里桜が声をかけてくる。里桜はニコニコと笑いながら、俺に向かって手を振っていた。


 里桜は今日一日ずっとこんな調子で、いつも以上に上機嫌だった。


 里桜は、俺と二人であのパジャマを着ることを楽しみにしているのだ。


「あぁ、もうちょいだから待ってくれ」


 そう返事をして、最後の皿の水気を丁寧に拭き取り、またため息を一つつき、里桜のもとへと向かうのだった。


 *


 ──〜〜♪ 『お風呂が沸きました』


 給湯器の操作パネルから単調なメロディと機械的な声がして、里桜がひょいと立ち上がる。そして、ウキウキと黒猫パジャマを手に取った。


「さぁてっ! 私、お風呂入ってくるねっ」


「……なぁ。それ、本当に着るのか?」


 俺は最後の抵抗を試みた。里桜の期待には応えたいが、まだ完全に心は決まっていないのだ。


「もちろん着るよっ。せっかくの贈り物なんだから、着ないなんて選択肢はないもん。もしかして──隼くんはイヤなの……?」


「そういうわけじゃねぇけどさぁ……なんか暑そうかなって思って」


「大丈夫っ。触った感じ割と薄手みたいだし、暑いなら冷房を強くすれば問題ないよっ」


「そうか……それなら安心だな」


 全然安心してないけどなっ!

 ちくしょう……先延ばし作戦は無意味だったか。


「うんっ。ってことで、行ってくるねーっ」


「あぁ……いってらっしゃい」


「いってきまーすっ。隼くん、いい子で待っててね」


 里桜は俺の額に一つキスを落とすと、弾む足取りで風呂へと向かっていった。


 今日は二人一緒での入浴にならなかった安心感でホッとして、可愛らしい里桜の姿を見られることへの期待感でワクワクして、それから自分が着る時が近付いている羞恥心でザワザワした。


 その三つの気持ちが俺の中でせめぎ合った結果、最も心に強く残ったのは、やはり期待感だった。どこまでいっても、俺は里桜が大好きなのだ。


 意図的にそのワクワクで頭を埋め尽くし、静かに待つことしばらく。脱衣場からドライヤーの音が聞こえてくる。それもやがて止み、カチャリと音を立ててリビングのドアが開く。そこから黒い影が覗いた瞬間、俺の思考は完全に停止した。


 姿を現したのは、黒猫だった。それも、とびきり愛らしい黒猫だ。


 ツヤのある黒い生地の着ぐるみパジャマは、里桜の華奢な身体を包み込み、いつもより丸みを帯びて見える。フードにはピンと尖った猫耳が付いていて、里桜の頭を覆っていた。


 そして、里桜が歩くたびに、パジャマの腰あたりから伸びる黒い猫しっぽが、ふわり、ふわりと揺れるのだ。


「にゃーんっ」


 里桜が可愛らしく鳴き、本物の猫のように軽やかに、ちょこちょこと近付いてくる。そのステップに合わせて、またしっぽが機嫌よく振られる。


 うっわ、やっば……。これは想像以上にやばすぎるぞ。


「しゅーんくんっ、ほら見てーっ」


 俺の前まで来た里桜は、くるりと反転した。その状態で顔だけをこちらに向け、腰をくねらせる。


「にゃんにゃんっ。しっぽがね、とーっても可愛いのっ!」


 俺は右へ左へと動く里桜のお尻と、それに合わせて揺れるしっぽに釘付けになってしまった。


 一見すれば少しセクシーな感じになりそうなこの動きも、着ぐるみパジャマというフィルターを通せば圧倒的な可愛さで塗り替えられてしまう。


 可愛い。可愛いがすぎる。

 可愛いが渋滞するなんてとんでもない。

 これは濁流だ。もしくは奔流と言ってもいい。


 里桜の可愛さがありえないほどの質量を持って、真っ直ぐ俺だけに向かって襲いかかってきた。そんなもの、受け止めきれるわけがない。俺はただ、荒波に揉まれる流木のごとく押し流されていく。


 その最中さなか


「おいおい、なんだよそれ……」


 ようやく俺の口から発せられたのは、そんな言葉だった。


「あ、あれ……。もしかして、似合って、ない……?」


 里桜の自信なさげな顔に、俺の中でなにかが弾け飛んだ。それは多分、感情の制御機能だろう。


「んなわけあるかぁっ!! 可愛いが過ぎるだろぉっ! おいっ、里桜っ!」


「ひゃっ……はいっ!」


 突然大声を上げた俺に、里桜はビクッとして直立不動の姿勢を取る。見事な『気を付け』だった。だが、俺の気持ちはそんなもんじゃおさまらない。


「そんな可愛くて、俺をどうしようってんだ!」


「え、えぇっとぉ……隼くんに喜んでほしいな、って」


「うぅ……里桜が健気だ。幸せすぎる」


 こんな幸福、この世に存在するんだなぁ。

 あっ、なんかちょっと泣けてきた。


 流れ出るほどではないが、目頭が熱い。


「うーんと……それって、私褒められてる?」


「当たり前だろ」


 涙のせいか、俺も少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだ。


 ふぅ、危なかった。さすがに近所迷惑になっちまうからな。


「えへへ、それならよかったよぉ。でも、急に叫んだらダメだよ。私、ビックリしたんだからね?」


「すまん……おさえきれんかった」


「ふふっ、いーよっ。私もね、隼くんに可愛いって言ってもらえて嬉しいっ」


「いつも言ってる気がするんだが?」


 それこそ、付き合い始める前から何度も。なかなか『好き』と言えなかった代わりに、俺は『可愛い』に想いを込めて使っていたのだ。


「それはそれですぅ。隼くんからは、どれだけ言われても嬉しいのっ」


「うん、まぁ……そういうことならこれからも言うことにするわ」


「うんっ。ってことでぇ──次は隼くんの番だねっ。ほらほらぁ、早くお風呂行っておいでー」


 そう言うと里桜は、兎パジャマをハンガーから外して、俺に押し付けた。それから俺にピトッとくっついて、上目遣いで見上げてくる。その顔は、期待に満ちてキラキラと輝いていた。


「……わ、わかった」


 ここまで心揺さぶられてしまったのだ。俺だけ里桜の可愛いところを見て、はいおしまい、とはいかない。俺はどうにか重い腰を上げた。


 そのまま風呂へと向かおうとすると、里桜に腕を掴まれ止められる。


「隼くん、忘れ物っ」


「パジャマは持ったけど?」


「そうじゃなくてね──んっ」


 里桜は俺に向かって背伸びをして、少しだけ顎を上げた。その姿がまた、とんでもない破壊力を持って俺の心に襲いかかってくる。


 甘え里桜にゃんこだ、構わずにはいられない。


 俺は迷わずに里桜と唇を重ね合わせた。


 ただし、長くは保たない。俺はすでに致命傷を受けている。クールダウンとリカバリータイムが必要だ。


「……行ってくる」


 俺はポツリと呟いて、よろよろと里桜から離れた。


「はーいっ、いってらっしゃーいっ」


 元気いっぱいな里桜に見送られて。


 それからおよそ30分後、俺は脱衣場で立ち尽くしていた。パンイチという姿で、両手で白兎の抜け殻をぶら下げて。


 時間稼ぎに長湯をしてみようかと思ったが、失敗に終わってしまった。夏にはいささかハードルが高い。逆上せる前に湯からあがった。


 髪もすでに乾かした。これ以上の先伸ばしは不可能だ。


 ドライヤーの音は、里桜にも届いている。となれば、おそらく里桜は俺が出てくるのを今か今かと待ち構えていることだろう。


「はぁ……腹、括るかぁ」


 里桜が俺に喜んでほしいと言うのと同じで、俺だって里桜に喜んでほしいと常に思っている。里桜の期待も、自分の気持ちも、どちらも裏切ることなどできやしない。


 里桜の残念そうな顔を見たら、きっと俺は寂しくなってしまう。里桜の太陽みたいな笑顔だけが、俺の寂しさを埋めてくれるのだ。


 蛍に言われた通り……俺は兎さんなのかもしれねぇな。業腹だが、よくわかってるじゃねぇか。


 俺は意を決して、白兎へと袖を通した。サラリとした軽い肌触りで、意外にも着心地は悪くない。これなら確かに、冷房があればいけそうだ。フードを被ると、長い垂れ耳が視界の端に入った。


 鏡を見るのはやめておく。また躊躇してしまいそうだから。この姿をどう見るのかの判断は、里桜に委ねればいい。


「ふぅー──よしっ」


 気合を入れてリビングに戻ると、ヒンヤリとした空気が出迎えてくれる。肝心の里桜は、グラスを両手に持って、チビチビと麦茶を飲んでいた。


 まーた可愛いことしてやがる。


 そう思ったのも束の間、里桜がゆっくりと俺を見て、ただでさえ大きな瞳を、さらに大きく見開いた。

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