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第52話 幼馴染彼女と夏休みの課題

 里桜は昔からずば抜けた集中力を持った女の子だった。


 里桜が現在も勉学において規格外の優秀っぷりを見せているのは、この集中力によるところが大きいのでは、というのが俺の見解だ。


 もちろん、記憶力なんかに関しても俺など及びもつかないレベルにあるのは間違いないんだけどな。


 なにはともあれ、これは俺達が小学3年の夏休み序盤のとある日のことだ。


 この頃の俺と里桜は、遊ぶ約束なんてものをすることはほとんどなかった。約束をしていなくても一緒に過ごすのが基本だったし、突然訪ねていってもおばさんは快く家に上げてくれたからな。


 この日も俺は、宿題を放り投げて朝のうちから里桜の家に向かった。インターホンを鳴らすと、玄関から顔を出したのはおばさんだった。


 里桜の弟である翔をおんぶして、柔らかく微笑んでくれていたっけ。


「おはよう、隼君。いらっしゃい」


「おはようございまーすっ!」


 俺は元気よく挨拶を返した。おばさんはいつも優しくて、里桜の次くらいに好きだったんだよなぁ。


 といっても、里桜のことは誰とも比較にならない程好きだったわけだけども。


「里桜、いますか?」


「うん、今は自分のお部屋にいるよ。行っておいで」


「はーいっ! ありがとっ」


 おばさんの横をすり抜けた俺の背中に「ふふっ、本当に仲良しね」なんて言葉が聞こえてきた。


 階段を上がって一番手前、そこが里桜の部屋だった。俺はノックもなしにドアを開けて部屋に入る。


 ……これじゃ今の里桜のこと言えねぇな。もしかして、里桜が好き勝手に俺の部屋に突入してくるのはこのせいだったりするのかね?


 まぁいいや。里桜ならいつでもウェルカムだからな。


「りーおーっ、遊びに来たよー!」


 机に向かっていた里桜に声をかけるも、返事はなかった。かなり大きめの声で呼んだはずなのにな。でも、俺はあまり気にもとめずに、里桜のベッドにゴロリと横になった。


 ──おいおい、当時の俺よ。遠慮がなさすぎじゃねぇか? そこ、里桜のベッドだぞ……? 


 まぁでも、これがスタンダードだったよな、うん。まだそういうことを気にする年頃じゃなかったってだけの話だ。


 里桜がペンを走らせるカリカリという音だけが部屋に響いていた。この状態だと何度呼んでも無駄なことを理解していた俺は、暇を持て余していつしか眠りに落ちていた。


「隼くんっ、隼くーんっ。おーきーてーっ!」


 気が付くと、里桜が俺をゆさゆさと揺すっていた。


「……んん? あっ、里桜……おはよ」


「うん、おはよぉっ。ってそうじゃないよ! もうっ、来てたならよんでよーっ」


 ほっぺをぷくぷくにした里桜が俺をポコポコと叩いてきた。なんとも理不尽である。痛くはなかったけどな。里桜は昔から優しい女の子でもあったんだ。


「ちゃんとよんだよ? でも返事してくれなかったじゃん」


「えっ……そうなの……?」


 一瞬でほっぺがしぼんでいく。そして、眉がしょんぼりと下がった。


「うん。里桜はたまにそういうことあるよね」


「あぅ……そっかぁ。ごめんねぇ、隼くん」


「いいよいいよ、気にしないで。それよりも遊びに行こっ?」


「……うんっ!」


 手を引くと、里桜は満面の笑みを浮かべた。それから俺達は家を飛び出し、クソ暑い中だというのに、いつもの公園で遊び回るのだった。


 この時の里桜が向き合っていたのは夏休みの宿題だったわけだが……それを俺が知ったのは、夏休みが後半に差し掛かり、自分が追い詰められてからだったりする。


 と、こんな感じで、俺の声が届かなくなってしまうほどの集中力をもった女の子だったんだ。


 ***


 そろそろ7月も終わりを迎えるかというある日の昼過ぎのことだった。


 俺と里桜はリビングの床に座り込み、肩を並べてローテーブルに向かっていた。基本的には憩いの場であるソファも、今は座るという本来の使い方はされずに、俺達の背もたれと化している。


「…………」


「…………」


 俺も里桜もずっと黙り込んだままで、静かに時間が過ぎていく。チクチクと時計の針が進む音と、カリカリと俺達がペンを走らせる音だけが部屋に響いていた。


 決して楽しいことをしているわけではないのだが、里桜が隣にいるだけでふわふわと幸せな気持ちになる。


 隣を盗み見ると、真剣そのものな里桜の顔があった。普段のふんわり柔らかい表情も、今はきゅっと引き締められていた。


 ……俺も頑張らねぇとな。


 里桜に感化されて、俺は再び手元に視線を落とすのだった。




 俺達は今、しこたま出された夏休みの課題を片付けている真っ最中だ。夏休みの開始とともにやり進めてはいたが、そのあまりの量がゆえにゴールはまだほど遠い。絶望すら感じるほどにな。


 ……絶対休ませる気ねぇだろ、これ。


 つい、教師陣の悪意を疑ってしまうところだ。


 それでも、こうして真面目に取り組んでいるのには理由がある。


 後顧の憂いを絶ち、その後の夏休み──恋人同士として過ごす初めての夏休みを存分に満喫しよう。そう二人で話し合って決めたんだ。


 これまで毎年スロースターターだった俺も、今年ばかりは気合いが違う。なにせ、可愛い彼女ができたばっかりだからな。その上、こんな特大のご褒美を目の前にぶら下げられたら、やる気も出るというものだ。


 二人でどこかへ遊びに行くもよし、家でのんびりするもよし、時間はいくらあっても余るということはない。不思議なことに、里桜と一緒だと時間が一瞬で溶けていくんだ。


 とはいえ、あまり根詰めすぎるつもりはないぞ。さすがに勉強漬けだと息が詰まるもんな。とにかく、無理のない1日あたりのノルマを定めて、きっちりとこなしていく、それだけのことだ。大丈夫、スケジュールは完璧に組まれているからな。8月の頭には全てを終わらせることができるだろう。


 なんて、俺が全部考えたみたいに聞こえるかもしれんが……ここは念の為に補足しておくとしよう。


 言わなくてもわかるだろうが、スケジュールを組んだのは里桜である。一学期考査の際の情報を元に現在の俺の能力を割り出し、考慮して計画に組み込んでくれた。里桜が作成したスケジュール表には、なにをどれだけ進めるのかが事細かに記されている。


 里桜は昔から計画的だもんな。本当にできた彼女で助かる。


 ……にしても、思っていたよりもサクサク進むな。これなら割とすぐに終わるんじゃねぇか?


 仲直りを果たして以降、日頃から里桜に面倒を見てもらっている俺である。その成果は試験結果にも表れていた。


 ただ、里桜のように完璧とまではいかない。途中でわからない問題にぶつかって手が止まってしまった。


 こういう時は里桜の出番だ。頼り切りで情けなくはあるが、きっと嬉々として教えてくれることだろう。


「なぁ里桜。これってさ──」


「…………」


 早速声をかけてみるが、返事はない。それどころか、俺の方を見ようともせずに、ものすごい勢いで手を動かすばかり。


「おーい、里桜ー?」


「…………」


 再チャレンジしてみるも、虚しい結果に終わってしまう。里桜は時折、小さく唸る声を上げるだけで、ペンを止めることはない。その横顔は、まるで別人のように研ぎ澄まされていた。


 あー……そういやそうだったか。


 里桜は一度集中モードに入ると、周りの音が一切聞こえなくなるんだった。こうなったら最後、里桜の区切りがつくのを待つしかない。


 普段一緒に勉強する時は、最初から里桜が教える体勢を取ってくれていたので、すっかりこのことを失念していた。


 反応がないのはちっとばかし寂しいが……これは今に始まったことじゃねぇしなぁ。


 しゃーねぇ、飛ばして次に行くか。この先もつまずくのがあるかもしれんし、後でまとめて聞く方が効率的だよな。




 それからおよそ1時間後。


「んん〜〜〜〜〜っ! 終わったぁ……」


 隣からカタンとペンを置く音がして、続いて里桜が大きく伸びをした。


「えっ、もう終わったのか?」


「うんっ、今日の分はね。ふぅ、疲れたぁ……」


 まじか……はやすぎるだろ。


 俺も結構頑張っていたはずなのだが、それでも進捗はまだ7割といったところだ。里桜の方が先に終わるのはわかりきっていたことだが、それにしてもはやすぎる。


 でも、これでわからなかったところを聞けるな。


「あー……里桜。疲れてるのにすまんが、ちょっと教えて欲しいのがあってさ。少しだけ助けてくれるか?」


「もちろんいいよっ。どれかなぁ?」


 里桜がグッと身を乗り出してきて肩が触れたが、もう必要以上に緊張することはない。ただただ里桜の体温が心地良い。


「えっと……いくつかあって──」


 パラパラと問題集のページを遡っていると、里桜が首を傾げた。


「あれ、もしかして……私が終わるの待っててくれたの?」


「まぁな……邪魔すんのも悪いだろ」


 たぶんだが、身体に触れたりすれば気付いてもらえたとは思う。でもさっきの里桜はどこか必死そうで、そこまでするのは気が引けたんだ。


「もーっ、そんな気を使わなくても、その時に聞いてくれてよかったのにっ」


「いや……聞こうとはしたんだよ。でも里桜さ、めちゃくちゃ集中してたみたいで、返事してもらえんかったから」


「えっ、うそっ……! また私、やっちゃった……?」


「そうなるな」


 なんだ、一応自覚はあったのか。まぁ昔からちょくちょくあったからな、こういうこと。


「うぅ……ごめんねぇ。私としたことが、隼くんを無視しちゃうなんてぇ……」


「別に気にしてねぇよ。わざとじゃないってわかってるからさ。それよりもほら、まずはこれ、教えてくれよ」


 ようやく飛ばしていたところが見つかったことだしな。問題集を寄せると、里桜は申し訳なさそうな顔のままそれを覗き込んだ。


「うん……。んーと、これはねぇ──」


 そこからはいつも通り、里桜による優しく丁寧な解説が始まった。やっぱり、里桜に教えてもらうのはわかりやすい。なにを悩んでいたのかが疑問に思えてくるほどに。


「──っと、こんな感じかな。これで全部?」


「うん、今のところはな。助かった、ありがとな、里桜」


「えへへ、お役に立てたなら嬉しいよ」


 はにかむような笑顔を浮かべてくれる里桜だが、まだちょっとばかし眉が下がり気味だった。そんなに落ち込むことないのにな。


「そういや、里桜」


「なぁに?」


「なんであそこまで必死そうだったんだ?」


 そこまでしなくても、俺よりも早く終わっただろうに。里桜は学年首席なんだ。かなり手を抜いて俺とトントン、むしろそれでも上をいきそうだな。


「だってぇ……」


「だって?」


「早く終わったら終わった分だけ、隼くんとの時間が増えるでしょ? そう思ったらね、変に気合いが入っちゃって……」


 また可愛いこと言ってくれるじゃん。


 嬉しくて、思わず里桜の頭に手を伸ばして撫で回していた。そうすると、里桜のしょんぼり顔は瞬く間に蕩けるような笑みに変わっていく。


 ただ、今度は俺が少しばかり申し訳なくなってしまった。


「そっか。でもごめんな、俺の方がまだ終わってなくて」


「ううん、いいよ。急かすつもりなんてないもん。隼くんの邪魔をしないように、隼くんを堪能しようと思ってたの」


 おっと、なんだか難しいことを言い出したぞ。よくわからんけど、俺、堪能されちゃうのか?


「たとえば……どうすんだ?」


「それはねぇ。頑張ってる隼くんの横顔をずっと見てるっていうのもいいし、他には──」


 里桜はそう言うと、コロンと横になった。俺の膝を枕にして。そして甘えるようにスリスリと頬擦りをしてくる。


 なんだか猫っぽいな……。


「ねーっ? これなら邪魔にならないでしょー?」


「うーん……まぁそう、かも?」


 いや、どうなんだ……?


 こんな顔した里桜が膝の上にいたら、構いたくてしょうがなくなるんだが。さっきも撫でたけど、エンドレスで頭撫で撫でしたい欲が湧き上がってくる。こういう時だけは、里桜が甘え上手で困るな。


「ねぇ隼くぅん。しばらくこうしてていいかなぁ?」


「……別にいいけど」


「やったぁ! 実はね、ずっと隼くんに膝枕してもらいたいって思ってたんだぁ」


「そうなのか?」


 それならそうと言ってくれれば、いつでもしてやったのに。


「私からは何回かしてあげてるけど、してもらうことってなかったからね」


「なら……しばらく満喫してていいぞ。その代わり、これが終わったら俺にもしてくれよな」


 それが待ってると思えば、少々疲労感はあるが最後までやり切れそうだ。


「うんっ。お互いに頑張ったご褒美、だね」


「おう。んじゃ、さっさと終わらせてやるわ」


「あぁっ、ダメだよぉ。そんなにすぐ終わらせたら、私がしてもらう時間が短くなっちゃう!」


「そこまですぐには終わらねぇから安心しろって。というか、里桜が満足するまではしててやるからさ」


「そんなこと言うと、私ここから離れないよ?」


「それは困るな……。まぁなんにせよ、終わってから考えるか」


「ふふっ、そうだね。頑張れー、隼くーんっ」


「ん、任せろ」


 俺は膝の上の里桜の頭を一撫でしてから、再び問題集に向き合うことになった。




 そしてご褒美に釣られて、どうにか今日のノルマを片付け終わると──


「すぅ……すぅ……」


「……寝てるし」


 ──里桜はすっかり夢の中。俺の膝を枕にしたまま、穏やかな顔で寝息を立てていた。途中からなんとなく気付いてはいたが、本当に寝ているとはな。


 そっと前髪を払うと、


「んふふ、隼くぅん……」


 むにゃむにゃしながら俺の名前を呼んだ。


「ったく。いったいどんな夢を見てんだか知らねぇが、幸せそうな顔しちゃってさぁ。こんなんじゃ交代しろなんて言えねぇじゃん。──でも……これはこれでご褒美、か」


 愛らしい里桜の寝顔を見ていると、疲れなんてあっという間に吹き飛んでしまう。俺は起こしてしまわないように気を付けて、里桜が起きるまで撫で続けるのだった。


 ちなみにだが、里桜が起きてからはちゃんと交代してもらったぞ。寝てしまったお詫びにと、それはもうとことん甘やかされて──やっぱり今日もたじたじにされてしまった。

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