第35話 幼馴染とのドキドキ試験前夜
里桜は昔からかなりの甘えん坊だった。
という話は以前にもしたと思う。里桜は両親大好きでいつもべったりだったわけだが、弟の翔が生まれた後くらいから少しだけ変わった。
甘えん坊じゃなくなった、というわけじゃない。ただ里桜は賢い女の子、両親が自分にだけ構ってはいられない状況になったことを幼いながらも理解していたらしい。
そこで里桜は我慢することを覚えたのだ。
そして里桜が我慢した分の甘えたい欲求は、俺へと向けられることになった。
たぶんこれがきっかけだと思う出来事がある。
あれはおばさんが翔を出産後に入院していた時のことだ。
里桜は我が家に預けられることになった。おじさんは割と夜遅くまで仕事をしていたみたいだからな。
記憶にはないが、蛍の出産の時に俺も里桜の家に世話になっていたらしく、父さんも母さんもその恩返しということで快く里桜を受け入れた。
その初日、最初は俺といつもより長く遊べると喜んでいた里桜だが、寝る前になるとその顔がしょんぼりしてきた。
「里桜、どうしたの?」
「しゅん、くん……お父さんとお母さんに会いたいよぉ……」
ついには泣き出してしまった。
おばさんはもちろん入院中。
おじさんは仕事帰りに顔を出してくれてはいたが、その後おばさんの入院に足りないものを届けに行くということで、ひとしきり里桜を抱きしめただけで立ち去っていた。
里桜と同じベッドで寝ることになっていた俺は、泣き止まない里桜に戸惑いながらも、本能的にぎゅっと里桜を抱き寄せた。
おじさんとおばさんの代わりにはなれないことくらい俺にだってわかってる。でも寂しそうに泣く里桜をどうしても放ってはおけなかったんだ。
「隼、くん……?」
「ほら、里桜。しばらくこうしててあげるからさ、もうねよ?」
「……うん」
まだグズグズと鼻を鳴らしていた里桜だが、震える腕でしがみついてきて、俺の胸に顔を埋める。俺はそっと里桜の頭を撫でた。寂しさを少しでも紛らわせてあげられるように。
しばらくすると里桜は静かに寝息を立て始めて──その翌日から、里桜が寂しいと泣くことはなくなった。
その代わりに、里桜はことあるごとに俺に頭を撫でろと要求するようになったのだった。
一応里桜の名誉のために言っておくと、翔の前ではしっかりお姉ちゃんしていたぞ。里桜は甘えん坊だけど世話好きでもあるんだ。
***
「隼くんっ、おーきてっ。朝だよー?」
身体をゆさゆさと揺らされて、頭上からは俺を呼ぶ声が降ってくる。
「……り、お?」
「うんっ。おはよっ、隼くんっ!」
里桜がシャッとカーテンを開け放つと、寝起きには眩しい朝陽が部屋に差し込んでくる。おまけにその朝陽を受けた里桜の眩しすぎる笑顔が俺を見下ろしていた。
試験期間真っ只中の日曜の朝のことである。
昨日も遅くまで二人で試験勉強に励んでいたというのに、里桜は朝から元気いっぱいだ。俺はもう少し寝ていたいくらいなのにな。
まぁせっかく里桜が起こしてくれたんだから起きるんだけども。それにまだ試験勉強は完璧じゃないんだ。本番前日の休日、あまり時間を無駄にはできない。
対策ノートを作ってくれた里桜に報いるためにも、ここは頑張るべきところだからな。
「ん……おはよ、里桜」
起き上がり、伸びをしながら挨拶を返すと、頭を撫でられた。その感触に心臓が跳ね、きゅうと胸が締め付けられる。
「お休みの日なのにちゃんと起きられて偉いねー」
「い、いや、里桜が起こしたんだろ。というか、それを言ったら普段から俺よりも早く起きてる里桜の方が偉くねぇか?」
昨日が唯一の例外で、それ以外で里桜が寝坊をしたことはない。
いつも俺が起きる前に弁当作りも朝食の用意も粗方済ませてくれている里桜には頭が上がらないからな。今もエプロンを身に着けているところを見るに、朝食の準備中だったのだろう。
「そうかな? 私、偉い?」
「偉いに決まってるだろ。偉いからご褒美に俺もしてやるよ」
「やったぁ! はい、どーぞっ」
里桜はベッドの脇にしゃがみ込んで、俺に頭を向けた。俺は迷うことなくそこに手を伸ばす。
しっかりと手入れがされて滑らかな里桜の髪、乱さないように気を付けて、梳くように撫でる。里桜の髪は手触りが良くて、いつまででも撫でていられるな。
そういえば昔は里桜に催促されて、よくこうやって撫でていたっけ。
里桜はうっとりと目を細めて、それを受け入れていた。撫でれば撫でるほどに里桜の顔が蕩けていく。
「朝から隼くんによしよしされちゃったぁ。えへへ……」
「これくらいでいいなら、いつでもしてやるぞ」
「本当?! なら寝る前にもしてくれる?」
「寝る前だけでいいのか?」
「そりゃもっとしてほしいけど……あんまりされたらポンコツになりそうなんだもん」
「おっと、そりゃ困るな。ならこれくらいにしとくか」
俺は慌てて里桜の頭から手を引っ込めた。里桜も少し名残惜しそうにしていたが、ただでさえちょくちょくうっかりをやらかす里桜が本当にポンコツになったら大変だ。フォローするのは構わないけど、一々しょんぼりするからな。
「はぁ……今日はいい日だなぁ」
「これくらいで安上がりだな」
「安くないもんっ! 隼くんは隼くんのよしよしの価値をわかってないよ!」
「……そんなの自分じゃわからんだろ」
「まったくもう、これだから隼くんは……」
なんで俺が怒られてんだろうな?
そう思った時──
キッチンからピーッと音がした。
「あっ、いっけない! やかん火にかけてるんだった。私行くね! 隼くんも早く顔洗って着替えてきてね!」
里桜は俺の部屋を飛び出していった。
ほらな、いきなりやらかしてるわ。朝から慌ただしいことで。
そんな里桜を見送って、俺も洗面所で顔を洗い髪を整え、自室で着替えを済ませてからダイニングへと向かうのだった。
*
「さーてっ。確認も済んだことだし、今日はこれくらいにしてそろそろ寝よっか?」
里桜は教科書とノートを閉じ、微笑む。
気が付けば時計の針は11時を回っていた。当然、夜の、である。
飯、トイレ、風呂以外はほぼ勉強漬けの一日だった。
「そうだな。遅くまでありがとな、里桜」
自分の勉強を早々に片付けた里桜は、ずっと俺に付きっきりで教えてくれていたんだ。おかげで試験前としては、かつてないほどに自信が付いている。
「んーん、全然だよ。それよりもね、少しでも隼くんの力になれたのなら嬉しいよ」
「少しどころじゃねぇんだよなぁ。めちゃくちゃ助かったぞ」
「それならよかったよ。でもまだ本番はこれからだからね、根詰めて倒れないようにしなきゃ」
「それもそうだな。んじゃ寝るかぁ」
「はぁいっ。ところで隼くん、朝の約束、覚えてる?」
里桜は俺の顔を覗き込んで、いたずらっぽく笑う。
「約束って──あぁ、あれのことか」
頭を撫でてやるって話だったな。
「えへへ、忘れてないならいいのっ。さっそくお願いしてもいいかな?」
するりと擦り寄ってきた里桜は、コテンと頭を俺に向けた。
「はいはい」
俺は苦笑しつつ、里桜の頭に手を伸ばす。勉強を手伝ってもらった礼も兼ねて、優しく、丁寧に、髪を梳くように撫でる。
里桜はうっとりと目を閉じ、その感触を味わっているようだ。
「ふぁ……やっぱり隼くんのよしよし、すっごく癒されるよぉ……」
「気に入ったか?」
「ふふっ、隼くんのよしよしは昔から私の大のお気に入りだよっ」
「……なら、毎日してやろうか?」
「えっ、本当っ?!」
目を開けて俺を見上げる里桜と視線がぶつかる。期待するような、キラキラした瞳に吸い込まれそうになって、
「……冗談だ」
つい、そっぽを向いてしまった。
「ぶぅー……ケチっ!」
里桜はぷくりと頬を膨らませる。
「ケチじゃねぇよ。ポンコツになりそうって言ったのは誰だよ」
「確かに言ったけど……でもぉ……」
「まぁ──気が向いたら、な」
あんまり頻繁にすると、里桜の蕩け顔を見て心臓が止まりかねんからな。ほどほどにしとかないと俺の命に関わる。
「しょうがないなぁ。それで我慢してあげる。それから、ね、隼くん」
「ん?」
「えっとね、私からも、よしよしのお礼、してもいいかなぁ?」
「なんだよ、俺も撫でてくれんのか?」
それはそれで……されすぎると死にかねんが。
里桜はわずかに俯き、指先で前髪を弄んでいる。その仕草に胸がざわつく。
「そうじゃなくて……お礼もなんだけどね……」
里桜の視線が右へ左へと忙しなく泳ぎ──意を決したように顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。その瞳は潤んでいて、心臓が早鐘のように鼓動を速める。
ふわりと里桜が俺を抱き寄せた。耳にかかる里桜の吐息がくすぐったい。
「明日からの試験、頑張れるように、おまじない……。いっぱい頑張ってた隼くんなら、大丈夫だよ。応援、してるからね」
耳元で囁く里桜の声は、普段よりも甘く、少しだけ震えているように聞こえた。
そして、里桜がゆっくりと顔を動かすと──
──ちゅっ
温かく、柔らかい感触が頬に触れた。ほんのわずかな、一瞬の出来事だったはずなのに、時が止まったかに感じられた。
今、なにが……?
里桜に、キス、された?
そう思うと、言葉も出なくて。俺は目を見開いて固まってしまっていた。頬に触れた感触が、焼きついたように熱く残っている。
「それじゃ、おやすみ、隼くんっ」
里桜は照れくさそうに、でもどこか満足そうに微笑んで、自分の部屋へと戻っていく。俺はただ、それを見送ることしかできなかった。
一人リビングに残され頬に手を触れると、そこはまだ熱を持っている。
「……それは、ズルいだろ。頑張れって──こんなの、覚えたこと、抜けちまうじゃねぇか……」
俺は混乱しながらも、嬉しい気持ちでいっぱいだった。口元がだらしなく緩んでいるのが自分でもわかる。
「これは是が非でもいい点とらねぇと、だなぁ……」
そう呟いた俺は、自室へと戻る。再び里桜の作ってくれた対策ノートに目を通して、記憶が抜け落ちていないかを確認するのだった。




