第34話 幼馴染のホットケーキ
試験週間真っ只中の土曜日のことだった。ちなみに本番は休み明けの月曜から始まり、5日間に渡って実施される予定になっている。
「んん……あれ。朝、か?」
この日の俺は珍しく自力で目覚めた。普段なら里桜が突入してきて起こされるところである。俺がアラームをかけていようが、鳴った瞬間に止めて、揺すり起こすのが里桜の手口だ。
枕元に置いていたスマホで時間を確認すれば、すでに7時をわずかに過ぎていた。真面目な里桜は休日といえども早寝早起きで、俺を起こす時間も学校がある日と変わらない。
その里桜が起こしに来なかったということに、俺は胸騒ぎがしてベッドを降り部屋を飛び出した。
無人のリビングを突っ切り里桜の部屋の前へ。軽くドアをノックしてみる。
「おーい、里桜?」
返事がない。胸のざわつきが大きくなって、もう少し強めにノックをする。
「里桜っ、入るぞ?」
やはり返事はなかった。
用事がなければ部屋に入らないという最初に決めたルールをここまで守ってきたわけだが、これはさすがに放っておけない。返事ができないくらい体調を崩していたりしたら大変だからな。
意を決してゆっくりとドアを開けた。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光がぼんやりと部屋全体を照らしている。部屋の中には里桜らしい甘くて優しい落ち着く香りが満ちていた。
壁際に置かれたベッドでは里桜がすやすやと眠っている。足音を殺して近付き、里桜の顔を覗き込んだ俺はほっと胸を撫で下ろした。里桜の顔色はすこぶる良好だったのだ。
不安が解消されると、別の感情がわいてくる。
初めてこの部屋に足を踏み入れたせいだろうか、それとも里桜への気持ちをはっきりと理解したせいか。幼少期には何度も、図書室で居眠りをし始めた時にも寝顔なんて見ているはずなのに。
あどけない寝顔、無防備で、気持ち良さそうに眠る姿に胸が締め付けられる。規則正しく上下する胸元も、閉じられた瞼も、少しだけ開いた口元も、その全てが愛おしく感じられる。
あまりに幸せそうな寝顔をしているので起こすべきかどうかを悩んでいると、ふとベッドの横、机の上で開きっぱなしになっているノートの存在に気が付いた。
手に取って眺めてみると、丁寧に色分けされた文字で試験範囲の要点がまとめられている。内容は、重要項目に加えて、一緒に勉強をしていて俺が間違えた箇所、理解が足りていなかった箇所に対してのものだった。
そして最後のページの隅っこには『隼くん、頑張って♡』と照れくさそうに書かれたメッセージが。
心臓がドクンと跳ね上がり、ついノートを握る手に力がこもる。
昨夜は日付が変わる直前まで一緒に勉強をしていた。つまりこのノートを作ったのは、おやすみを言って部屋に戻ったその後ということになる。
あぁ、里桜は本当に……。
遅くまでノートを作っていたせいで寝坊したのか。そう思うとすぐに起こすのが忍びなくて、俺は静かに里桜の部屋を後にする。
そして自室で着替えを済ませてキッチンへと向かうのだった。
確か……ホットケーキミックスがあったはずだよな。
あれなら俺でも──
◆side里桜◆
隼くんは昔から優しい男の子だった。
困っている人を見かけると必ず手を差し伸べる、ってほどじゃなかったけど、私のことはいつだって助けてくれたの。
元々隼くんのことが大好きだった私、そんなことをされたらもっと好きになっちゃうに決まってるよね。いつだって隼くんは私のヒーローで──って、これを言い出すと長くなるしキリが無いから、残念だけどこれくらいにしとこうかな。
私の隼くん大好きポイントを語りだしたら、三日三晩話し続けても終わらないもん。とりあえず、今は一つだけにしておくね。
あれは小学二年生の冬のとある日のことだった。
いつも通り、隼くんと一緒に学校から帰ろうとしていた時。
「あっ……」
昇降口で靴を履き替えて外に出て、手袋をはめようとした私は手を滑らせて地面に落としてしまったの。数日前に降った雪が解けて、地面には水溜りができていた。私の手袋はぽちゃんと音を立ててそこに落ちていった。
慌てて拾い上げたものの、水を吸い込んだ手袋はぐちょぐちょで、とても使い物になりそうにない。手袋なしでは手が悴んでしまいそうなくらい寒い日で、私は途方に暮れるしかなかった。
「あーあ、まーた里桜は……。ほら、これつかいなよ」
見かねた隼くんが自分の手袋を差し出してくれていた。
「でも……それじゃ隼くんがさむくなっちゃうよ?」
「ならかたほうずつつかおうよ。で、手ぶくろないほうは──」
隼くんは手袋をはめてない方の手で私の手を取って、ダウンジャケットのポケットへと招き入れてくれた。
「隼、くん?」
「これならさむくないでしょ?」
隼くんは照れくさそうに笑っていた。
その表情に幼心にもドキッとしたのを覚えてる。手を繋ぐなんてよくしていたことなのに、繋いだ手は隼くんの優しさと同じようにとても暖かくて。
手袋をはめた手と、隼くんの温もりを感じる手。その両方が私の心を優しく包み込んでくれていた。
帰り道、ドキドキしすぎてお互いにあんまり口は開かなかったけど、とってもとーっても幸せだったんだぁ。
ねー?
隼くんってすっごく優しいでしょ?
再会してからはちょっとぶっきらぼうになってたけど、たぶん照れてるだけなんだろうね。そういうところはそういうところですっごく可愛いって思っちゃうの。
あーもう、隼くん、大好きっ!
***
「──りーお?」
耳元で私を呼ぶ声が聞こえてくる。
その優しい声、誰のものなのかなんてすぐにわかる。私はその声のする方に向かって飛び付いた。
「しゅーんくーんっ……!」
「わっ……! ちょっ、寝ぼけてんのかよ?」
「んふふー、隼くんっ、隼くーんっ!」
ぐりぐりとおでこを押し付けると、そっと頭に手が添えられた。柔らかな手付きで撫でられるとふわふわと幸せな気持ちになる。
これは夢かなぁ?
こんなに幸せなんだもん、きっと夢だよね。
いつか、現実でもこんなふうに──
「おい、里桜。いい加減ちゃんと起きろよ」
そんな言葉とともに、むにゅっとほっぺが摘まれた。ほんのわずかな痛みを感じて、これが現実であることを理解する。
「……ほぇっ?! 隼くん?!」
「おう、やっと起きたか。おはよう、里桜。よく寝てたな」
顔を上げると、呆れた顔で隼くんが私を見下ろしていた。
「あれぇ? なんで、隼くんが私の部屋にいるの?」
隼くんはこれまで頑なに私の部屋に入ろうとしなかったはず。別にいつでも入ってきてくれていいのにね。
「そりゃ里桜が起きてこないからだろ。時間、見てみろよ」
壁掛けの時計に目を向けてみればすでに8時前。
完全な寝坊だった。完全に意識が覚醒するには十分すぎる衝撃だった。
「わーーーっ! ごめんね、隼くんっ! すぐに朝ご飯の準備するから──」
「そんな慌てなくていいって。その……用意、しといたからさ」
お布団を跳ね除けた私の頭に手を置いて、照れくさそうに隼くんが呟いた。
「えぇっ、隼くんが?!」
そういえば開けっ放しにされたドアの向こうから、甘くて、少し香ばしい匂いが漂ってくるような?
「あぁ、だから早く顔洗ってこいよ。そしたら一緒に食おうぜ」
隼くんが寝坊した私の代わりに作ってくれた、そう聞かされたらいてもたってもいられずに部屋を飛び出した。ダイニングテーブルの脇を通り過ぎる時、お皿の上に歪な形ながらもふっくらと焼き上げられたホットケーキが見えて、思わず頬が緩む。
洗面所の鏡に映った私の顔はかつてないほどにニヤけきっていた。
顔を洗って、軽く髪を梳かして、ひとまず見られるように整えた私は、着替えるのももどかしくパジャマのままでダイニングの私の椅子に腰を下ろす。
そのタイミングで隼くんが湯気の立つマグカップを私の前に置いてくれた。中身はミルクと砂糖たっぷりのカフェオレ、だと思う。私、毎朝これだもんね。
「着替えなくていいのか?」
「だって冷めちゃうもん。せっかく隼くんが焼いてくれたんだから美味しいうちに食べたいよ」
「そっか。ならまぁ、ちっとばかし不格好だけどさ、味は普通だろうから食ってくれ」
「うんっ。いただきまーすっ」
テーブルに置かれていたナイフとフォークを使ってホットケーキを切り分けると、更に甘い香りが漂う。
甘党の私としては、バターとメープルシロップをたっぷりかけたいところだけど、まずはそのままで味わうことに決める。ほわほわでふかふかな生地を噛みしめると舌と心が蕩けた。
「ふぁぁ……美味しぃ……」
「パッケージの裏の説明通りに作っただけだぞ」
「それでも美味しいんだもん。……でも隼くん、急にどうしたの? 隼くんがなんか作ってくれるの、初めてだよね?」
隼くんは私から視線をそらして、頭を掻いた。
「あー、それはだな……。起こす前にも1回さ、里桜の部屋に行ったんだよ。里桜が起きてこないなんて珍しいから、倒れてんじゃないかって思ってな。それで……すまん。机の上のノート、見ちまった」
「机の上……って、あぁ、あれ?」
私が寝る前に作っていた隼くん用の試験対策ノート、あれのことだよね。
「わりぃな、勝手に見て」
「ううん、全然いいよ。どうせ今日渡すつもりだったんだもん、気にしないで」
「ん、ありがとな。んでさ、里桜が寝坊したのはあれのせいかなって思ったら起こすに起こせなくて。俺も里桜になんかしてやりたくなってさ──」
そこで言葉を区切った隼くんは視線を彷徨わせる。
「俺、柄にもねぇことしてるよなぁ……」
恥ずかしそうに、消え入りそうな声で言う隼くんに、不器用ながらも一生懸命ホットケーキを焼いてくれた隼くんに、胸がキュンとした。
「そんなことないよっ! すっごく美味しいし、すっごく嬉しいよっ!」
「……そうか。なら、よかった、かな」
隼くんは少しだけ微笑んでくれた。その表情はどこか安心しているようにも見える。
朝ご飯の後、私達はリビングで肩を並べて座り、試験勉強に取りかかる。部屋に残るホットケーキの甘い香りと、温かい空気が私達を包んでいた。
「里桜っ──このノートすげぇなっ! めちゃくちゃわかりやすいぞ……」
改めて渡した試験対策ノートに隼くんは目を白黒させながらページをめくる。
「本当っ? よかったぁ」
「いや、まじでさ。こりゃホットケーキなんかじゃ全然足りねぇなぁ……」
「ふふっ、別にいいんだよ。私がしたくてしたことなんだもん」
「でもなぁ……」
「いいからっ。ほーら、ちゃんと勉強しよ?」
「あ、あぁ……」
隼くんは返事をすると私の作ったノートに視線を落とす。真剣な眼差しで、しっかりと読み込んでいる。
その横顔を盗み見て、私は小さく吐息を漏らす。
はぁ……幸せだぁ。
隼くんは足りないって言うけどね、私には隼くんのその気持ちが、優しさがなによりのお返しなんだよ?
自覚は、ないんだろうねぇ。
まったく、困った人なんだから……。
これ以上私を好きにさせてどうするつもりなんだろうね。
それからは、時折隼くんがノートの内容について質問してきたり、私が解説したり。何気ない試験前の時間が、私にとってはすごく大切なものに感じたんだよ。




