仮面夫婦の終焉劇場
雲雀のさえずりが高く高く響く青い空。ちぎれ雲はもこもこ白く。花の香を含んだ風は大聖堂からひとつ、厳かに鳴らされた響きを国中に運びました。
ひとつの鐘の音。それはこれから、大聖堂にて重要な儀式が始まるということを太平続く日々の中、暇を持て余し扇の下でうわさ話を日がないちにち囁く貴人や、手の届かぬ絹と宝石に包まれ暮らす雲の上の世界の話をやっかみ半分で面白おかしく労働の後、酒場でしゃべくりまくる庶民全てに報せる音……。
大聖堂の奥深く。突き当りの壁、等身大の聖母マリアの肖像画は右に45度、傾ければギィィと音を立て、彼女が護る背後の廊下が姿を表します。
洞窟をくり貫いた様な創り。アーチ型の天井、壁には等間隔に銀の蝋燭立てが埋め込まれ、この場を使う特別な日には、ジジジッ……小さく泣くような音を立て、灯るに従い、我が体躯を溶かし消えゆく運命の蝋燭が並んでいて。
部屋の観音開きの大扉は、縁を銀でぐるりと囲い、戸には聖母の花である白百合と公平の印である天秤の装飾が、細密な筆使いで描かれていました。
その前に神父が聖書を片手に立っています。そして……。
「汝、ヨハネス・アルフォード・ビット・ブランチュールは、夫人、マリア・エリーゼ・ドナ・ブランチュールよりの婚姻無効の申し立てを受け入れる事を了承するとここで誓う事が出来ますか?」
「はい。誓います」
神父の言葉に応じるアルフォード。ここ数日、バームロールの存在のこともあり、離婚を控え与えられている自宅で過ごす事もできず、仕方がないからと本邸に連れ戻されていました。
そして外部との接触を絶たれ、孤独に苛まれながら今日の日を小鼠のように震えつつ待ちざる得ませんでした。そして今、彼は緊張のあまり硬い顔をしています。
「この扉を開けば、離婚を公的に認める為の、禊の儀式が始まります。引き返す事が出来るのは今しかありません。その場合は手切れ金を即日、納める事になりますが……。大丈夫ですか?己の尊厳をかけた内容となります。人によりますが、恥を一生背負う事にもなります。それでも良いと、誓いますか?」
「はい。誓います」
「エリーゼ。あなたも誓いますか?」
「誓いますわ」
黒い総レースの裾丈が床まであるローブを身にまとうエリーゼは薄く微笑みを浮かべ応じました。
「二人の離婚の為の決意は揺るがない。では参りましょう……。おや?どうした……。ふむ、そなたはエリーゼの侍女だな。何か?」
重々しい神父の言葉の後、扉の両脇に控えていた、修道士がギ、ギギギ………。大扉をゆっくりと開ける寸前、慌てた様子の修道士が肖像画の前で、祈りを捧げる風を装い、待機をしているはずポテルカを連れてきました。
「はい。実はどうしてもエリーゼ様にお伝えしないことができまして……」
「ふむ。それはこれからの儀式に必要不可欠なことなのか?」
「はい。エリーゼ様にチョコリエール伯爵様から大切な伝言が今しがた、早馬にて届いたのです。エリーゼ様が心穏やかになられるお言葉なのです」
「チョコリエール伯爵とな。そう言えば。ここですべき話ではない。あいわかった。侍女や。ここで述べられる事なら許す。述べなさい」
「ありがとうございます。神父様。神に感謝を捧げます。エリーゼ様。伝言は『ありがとう』とのことです」
ポテルカの言葉にほう……、と目を細める神父。
「結び手になられたのか?エリーゼ」
「なんのことでしょうか。ただ……。そう。最近、多くの友を呼び、少し早いですが別れのお茶会を催しただけでしてよ。ここから離れる事になりますから。単にその時のお礼ですわ」
しらっと話すエリーゼ。そして……、
ギギギギィ……扉が左右に大きく開かれました。
「は?」
神父の肩越しに、数多く置かれている金の燭台と天井からの灯りのおかげで、細かなところまで丸見えな室内の様子が目に入ったアルフォードは息をひとつのみ疑問符がポンッと、飛び出て来ました。
「禊の始まりです。お二人共、所定の場に向かってください」
高らかに宣言をすると足音無く、ひとつ空いている席に向かう神父。ギギギ。ガシャンと閉じられる大扉の音。
そこは聖職の館には全く持って似つかわしくない部屋でした。
床には赤いベルベットの絨毯がきっちり隅々まで敷き詰められています。
壁際には大振りな花瓶が左右対称に置かれ、真っ赤な薔薇の花が溢れんばかりに活けられ、艶かしく甘い香りを放っています。
天井には立てられた蝋燭の輝きもまばゆい、細やかな細工物のシャンデリア。
そして……。部屋の中央、今しがた神父加わった場には多くの陪審員が砂時計を片手に、ぐるりと天蓋付きのベッドを囲んでいます。
柔らかな寝具が設えてある、天蓋付きのベッドがひとつ。ちなみにベッドを隠す布は取り除かれています。
「さあ。アルフォード。参りましょう」
結婚式の様に夫に手を差し出すエリーゼ。
「は。ああ……」
言われるがままにその手を取り、新郎新婦のあの日のようにしずしずとベッドに向かったアルフォード。二人が通る分、輪を開けてある場を通り過ぎベッドへと。
アルフォードは青ざめぎくしゃくと。
エリーゼは優雅に微笑みを絶やさず。
「さて。この度、ブランチュール夫人からの申し立てにより、お二人にはこの場でこれから『夫婦の営み』を執り行ってもらいます。決まり事はただひとつ、時間内に終えること。これが……」
同席している裁判官がそう告げると。
「それが古くからの慣わしである」
陪審員達が声を揃って言いました。
「どういうことだ?エリーゼ、い、営みって……そのつまり……」
アルフォードは寝台に腰を下ろしたエリーゼに、あたふた、カクカクしながら問いました。
「子孫繁栄のお役目のことでしてよ。貴族において夫婦間の子ども存在は必須。それが互いの躰のせいで成せない事となりましたら、何よりも強い婚姻無効の理由になりますの。でもその証明が出来るのは、殿方。夫であるアルフォードしか出来ません」
「は?どうしてそうなる」
「女の体は男からの種を注ぎ込み、子を宿すことが出来るのです。ですからまともな営みを繰り返しているにも関わらず、子を成せないのなら、女の体に原因があります。その逆で男の事情の場合もありますわね。ですからその証明をなさってくださいまし」
にこにこと余裕の笑みを浮かべ、陪審員達に十重に囲まれ、立ちん棒の夫に説明を始めた妻。
「証明?」
「ええ。砂時計がひと粒全て落ちきる前に、しっかりとコトを終えることが出来ましたら、わたくしに原因があり、ブランチュール家に不具合を与える為、正式に離婚が認められ。反対に、終えることができない場合はあなたに原因があり、不能を認められ貴族の立場上、子を成せる事が出来る健康な躰の妻を婚家が縛り付けておく事は出来ません。こちらも正式に離婚が認められるのです」
タラリ。これからの事態に対処出来ない事がわかり、脂汗が浮かぶアルフォード。
「さあ。夫とである、アルフォード・ブランチュールよ。早く妻の元へ役目を果たすために行きなさい」
は、はい。裁判官の言葉に従うアルフォードです。エリーゼの横に腰を下ろすと、ギシリとベッドがきしみました。
「あの……その。少し会話をしたいのですが、それも時間に入っているのでしょうか」
開始の合図をしようとした裁判官におずおずと問う、真っ青を通り越し昨日の様に、顔色はどどめ色のアルフォード。ひとつ、ふたつなら許しましょう。許しを得た彼は、艶かしい指先でローブのリボンを解く、エリーゼにコソコソ聞きます。
「き、君は……衆人環視の下で恥ずかしくないのか!それに君とは……」
焦る声に落ち着いた声が戻ります。
「結婚して時が経つとういのに、未だ父親と母親になれておりませんわね。そして高位貴族の立場上、王室へと娶られれば『房事』は『不寝番』の監視下にて行うのです。そういうこともしっかりと学び覚悟を決めるように、わたくし達は育つのです。それに普段より着替えも入浴もひとりではありませんでしょう?他人に裸を見られることに躊躇でも?何を恥ずかしがられてるのですか」
「で、出来た、できなかったりしたら……」
「オホホホ。あなたが『不能男子』との称号を得るだけ。人の噂も七十五日と言いますからそのうち忘れられますわ。他人の離婚話なんて……。さあ、時間が惜しいので始めましょう。あと……」
キシキシ……。エリーゼが固まるアルフォードに身を寄せて、甘くひっそりと。外に漏れぬ様、手で口元を覆い睦言のように至極、静かに囁やきます。
「わたくし。初夜を迎えておりません。それは秘密にしております。お役目拒否などとんでもないことですし、手切れ金の他慰謝料案件です。あなたはお金が無いのでしょう。そして……、わたくしは何をどうすればよいのか、わかりません。知っているフリはいたしますが、あなたがしっかりとリードしてくださいましね♡」
「は、はひ?」
「経験者でしょう?書物によると甘美な物だそうですね。それをこれから味あわせてくださいましね」
エリーゼが醸し出す甘やかな気配に、コレはもう始まったと、動揺しまくるアルフォードの存在など放置をし、開始の合図がなされそれぞれが手にした砂時計がくるりとひっくり返りました。
「あ!待て!待って!その。まだ心の準備が……」
「何を仰っているの?始まりましたわ。何時も通りでよろしくってよ。今日は、わたくしはどうすればよいの?脱げばよろしいの?それともあなたに脱がしてもらうのが良いかしら」
「ヒィィィ!わ、わ。エリーゼ。待って待って。その。その。ま、先ずはか、会話からその。その。そう、寝転んで……わ!枕はあるけど上掛けがない!隠せない!」
ゴソゴソギシギシと、慌てて縁から奥へ入り込んだアルフォードは即座に、彼にとって悲壮な現実に気が付きます。
「はい。眠るわけでもあるまいし、別になくても大丈夫でしょう」
ころんとアルフォードに躰を向けて寝転がるエリーゼ。ローブの下は下着姿なのか、割れた黒の布地から艶かしく艷やかな肌色をした、柔らかな太ももがちらっと、顔を出します。
「ワァァァォ!み、見えてる!か!隠して!まだ早い。てか、その下は……、わおぉっ!は、肌着?」
「ええ。ポテルカが、どうせ直ぐに要らなくなるので、夜着は必要ありませんって言うし、わたくしもそう思って。お気に召さないかしら?」
ああ嗚呼!頭を抱え変な声を上げるアルフォード。
「ねえ。あなた。このままだと『不能』と証明されるか、全く動きがなければ女の体に興味が無いと……、判断されましてよ、そういうご趣味があれば仕方がありませんけれど。それとも、そちらの道もお好きでしたの?」
追い詰める様なエリーゼの言葉。
「ひっ!ない!ない!あ!ある。ある!で、でも!いや、そういう場合じゃない!し、真実の愛、し!真実の愛ぃぃぃ!」
離婚を前にしているにも関わらず、妻の前で真実の愛のためとか意味不明な言葉を吐きながら、アルフォードはとりあえずエリーゼに甘い雰囲気もなくただ、がばぁと……、おおいかぶさったのです。
(オーホホホホ。このとんちんかん発言。ヘタレ男の様子は、暇を持て余しておられ陪審員に自ら名乗りをあげられた方々のお気に召されていると願いたいわ。領地に戻ってから噂話を聞くのか楽しみです。なんというお馬鹿さん。子鹿のようにカクカク震えて……すっかり腰も抜けているわ。このまま脱がすことも脱ぐこともおそらく、出来ないでしょうねえ。それに知っているのかしらん)
エリーゼは口元にあるアルフォードの、形の良い耳に囁やきます。こそばゆい感触に即座に反応。悲鳴を上げるアルフォード。
「うひゃっ!」
「ねぇ……発言も注意なさって。神父様は始まってからの互いの行動や夫婦の会話の一言一句を記録に残すために、全てを書き留めていらっしゃるの」
その言葉にちろり……視線を送ると運ばせてあったのか、書台にてサラサラと書き記す神父の姿が目に入った、アルフォード。
「あ、あの……」
「公式記録ですもの。後日、離婚発表と共に公に曝されましてよ」
ボスン。エリーゼが頭を置く枕に顔を埋めたアルフォード。
「じ、地獄だ……。時間が。時間。時間。でも、でも私は、私はその……その様なき、気持ちには。こ、このままだと……」
「大丈夫。どちらに転んでも、わたくしからの申し立てならばお金がかからずに、必ず離婚が認められますゆえ。そしてわたくし達は独身に戻り、あなたは真実の愛を誓った女の元へ駆けつけて、シャトウで暮らすのでしょう」
ボソボソ呟く声に外に最大限に気を付け、風が吹く様な囁やき声耳元にて返答をするエリーゼ。
「そ。そうだ。独身に戻れば……いやいや。不能の看板を、恥を背負うのは、だけど確かに噂は消える運命。そう……可哀想なローラを救わなければ……どんな恥を背負う事になっても、晴れてひとつになれるのだから……でも、ななんとかしてそ、その気に……いや。無理だ。無理だ。私には無理だ……でもこの時を終われば、大手を振って愛しい彼女を迎えに行けるのだ……シャトウで仲良く、噂など蚊帳の外で……のんびりとした余生を……きっと。ここ数日は本邸に呼び戻されていたから、会ってはいないが。きっと。彼女はついてきてくれる」
呪文のようにブツブツと独りごちるアルフォード。本人は小声のつもりだが、次第に大きくなっている声量。耳を澄ませば蝋燭がジジと鳴き、カリカリと綴る神父のペンの走る音もよくよく気をつければ、サラサラ……落ちる砂の音さえ耳に拾えそうな、シンと静かな室内に哀れにも一言一句、響いている事は知る由もありません。
全ては顔を伏せた枕が封じ込めているとでも、愚かにも思っているのでしょう。
それを耳にしながら、エリーゼはチョコリエール伯爵の言葉を思い出します。
(ありがとう。とは。オホホホ、上手く口説けたようですわね。フフフ。うら若きバームロールが田舎のシャトウでの遊びもない、噂話に花を咲かすこともない、社交界もない。鼠色で干からびたようなつまらぬ暮らしが待ち受けているのに、素直に『はい。あなたとともに、どこまでも参ります』とでも言うと信じているご様子ね。フフフ、チョコリエール伯爵はお年は召しておられるけれどまだまだ現役とか。そして手広く商売をなさっているお金もち。若い妻が欲しい、身分は問わないとあちらこちらに話を流していたお人。良かったこと。アルフォードはお花畑の脳内ですから甲斐性なしですし。由緒正しきブランチュール家をこの先、もり立てて行くことなんて無理。シャトウでのんびり暮らせば良いの。そしてよく働く村娘でも娶れば……、安泰ではなくて?ふう。これにて皆、幸せになるのね)
「エリーゼ。私は『恥』を取る。致し方ない。このまま時を過ごそう」
半泣きのアルフォードの声。
「そう。では、わたくし達の離婚を無事に認められるために……このまま砂の時を過ごすのですわね」
天蓋を見上げつつ、耳元でグズグズ泣く声を聞きつつ……。
早く……、砂が落ちきればよろしいのに。
エリーゼは、ふぅ……。と、ため息をつきました。
終。
お読み頂きありがとうございます。
ブルボン王朝、次回もお楽しみに……
お菓子は天使の使いなのです♡