離婚に向けての話し合い 続き
これまでにない姿を夫に見せたエリーゼ。感情のままにひと息に述べる妻に対し、目を見開きこくんと喉を鳴らすアルフォード。
その様子を目にした途端、しまった……。と、後悔が込み上げてきたエリーゼです。彼女の家庭教師を勤めていた、叔母であるミルネージュの聡明な姿が彼女の頭の中に鮮明に浮かび、耳にさらりと心地よく頬を撫でるような声音が流れました。
「良いこと。エリーゼ。淑女としての心得のひとつ。決して思うままに言葉にして口から出さない様にね。何時も冷静に。状況に応じて会話を練り上げるのです。しかし、誰もが人の子。もしもしでかしてしまったら……。相手をよく見て慌てずに次の手を考えなさい」
(ああ!ミルネージュ叔母様。やらかしてしまいました。どういたしましょうか……。屈辱的なあの夜の事がつい……、そのままに口からポンポン、飛び出してしまいましたわ)
頬に朱がサッと上ったことを、躰の中を駆け巡る血潮で感じたエリーゼ。どうしたものしら。慌てて袖口からハンカチを取り出し口元を覆い、しおらしく俯き淡く紅を引いた唇をきゅっと噛み締めました。
「エ、エリーゼ……どうしたの?君らしくもない……具合でも悪いのか?」
おろおろと声をかけるアルフォード。ここは視線を送るべきではないと判断を下したエリーゼは目を伏せ、スン……と鼻を小さく鳴らすことでとどめます。
(どうしたのとは……、心配していらっしゃるの?そう……夫は……、アルフォードはたいそう、人の良いところがあります。馬の骨との間柄も彼女の不幸な境遇に憐憫の情を持ったことから始まったとか……。ならば、涙ひと粒でどうにかなるかしら……なるのなら……。やってみせましょう。淑女の御業を御覧じろ!)
いえ、心が騒ぎましたの……。小さく、弱々しく応じながら、不安そうな夫の視線をかわしつつ、アルフォードの後ろに控えている、侍女頭のポテルカにさり気なく合図を送ったエリーゼです。
(!ええ!お任せくださいまし!ぬかりはありません!)
ル・マンド家よりエリーゼに忠誠を誓っているポテルカは、即座に主の意を汲みます。ひとつ。ゆっくり……パチリと瞬きをしつつ、お仕着せのポケットに忍ばせてあるクリスタルの小瓶とオー・デ・コロンの小瓶の首を指ではさみ、ちらりと見せ同意を返しました。
(ありがとうポテルカ。さすがはわたくしのポテルカ。さあ……。相手に届いてしまった言葉は嘘でも真でも、取り消しは出来ません。だから……利用すれば良い)
「エリーゼ。顔色が……」
「……大丈夫ですわ。でも悲しゅうございます」
「はい?」
「案じてくださる事が悲しゅうございますの……」
「?普段と全く違う様子の人を案じる事がいけないのか?」
「ええ。だってあなたはわたくしのことが初めから……、お嫌いだったでしょう。優しいお言葉が辛いのです。取り乱し申し訳ありません。あの夜。花嫁として夫となるお方様と鴛鴦の契りを結ぶ……当然だと思い込み華やいでいたあの夜。叶わぬ夢と知り、悲しくて悲しくて……今でも心にこびりついておりますの……」
ヨヨヨ……。細々と装い、とつとつ語るエリーゼ。
「その……。君は平気な顔をして部屋から出ていったから。私たちの婚姻は政略的関係だし、愛とかそういうモノは存在しないし。君も私のことなど嫌いだろう。離婚が認められ……、めでたいのだろう?」
「ええ。これであなたが……幸せになれると思いましたから……、ごめんなさいまし」
抜け万作のアルフォード相手でも嘘八百を交えてこれ以上語ればボロが出そうと思い、エリーゼはここでふらりと立ち上がります。
「エリーゼさまぁぁ!」
即座にポテルカが反応。主の危機とばかりにお仕着せのスカートをグイッと持ち上げ、オロオロとしているアルフォードの脇をシュンと抜けました。
「あ……」
ここでエリーゼは儚い声を上げると、駆けつけた護衛も兼ねるたくましいポテルカの腕の中で、淑女の御業のひとつ『失神』を華麗に発動。
「エリーゼ様!エリーゼ様。お気を確かに!」
ガッシと支えたポテルカ。阿吽の呼吸で騒ぎ立てるとポケットから、クリスタルの小瓶を取り出し蓋をキュッポンと開け、気付け薬の香りを主に嗅がせます。
(うっ……臭い、臭いですわ!ポテルカ!今日は特に濃度が濃いですわ!ぐっ、でも目を、目をほんの少し……開けなくては……)
グッ……、鼻腔に押し込まれる様に忍び込むポテルカ特製気付け薬。息を止めつつ、うっすら瞼を開くエリーゼ。
ズィ……、蒼天の瞳は斬り込む様な匂いに即座に反応、涙がふくれ上がりポロリと真珠の一粒が見事、こぼれました。
涙の確認が終えると、ツンッとキツイ匂いを放っている気付け薬の蓋をそそくさと閉め、オー・デ・コロンの蓋をキュッポン!手際良く開けたポテルカ。支える様に抱え込んだままに、片手でハンカチを取り出しすと辺りに広がる気付け薬の匂いを、ハタハタと散らします。
床にそろりとしゃがみこんだそのままに、目を閉じ頬にひと筋の涙の跡が残る主を覗き込み。
「ああ!どの様な時も人前では決して、涙などこぼすことのないエリーゼ様が!あの夜の事を思い出されて、涙をお流しになられるとは……お可愛そうに、なんてお可愛そうな……旦那様、旦那様。ポテルカも悲しゅうございますぅぅ」
当然ながら刺激臭にヤラれているポテルカも、ボロボロとこぼれる大粒の涙、涙、涙……。おうおうと述べる台詞。茶番に引っかかってくれるかしらとドキドキなエリーゼ。
「エ、エリーゼ。大丈夫なのか!君が涙を流すなんて……。そ、それに私が幸せになるため?ポテルカ、それはどういう意味なのか……」
訳が分からない様子のアルフォードが二人の元へとよろめきながら歩み、ストンと膝をつきました。
「う、う、う……。旦那様。エリーゼ様は……本当に輿入れを……それはもう、楽しみにしておられたのです。ル・マンド伯爵様は奥様と相思相愛、それはもう、天地に響く程に夫婦仲も睦まじく、エリーゼ様も幼少期より花婿さまとそうなると思っていらして……。ポテルカにこっそり、婚礼の後で『素敵な殿方です。妻になることがとても嬉しいわ』と……、もしかしたら……初恋をされたのかもしれません」
「貴族の結婚は政略的なものだろう?相思相愛だなんて……信じられない。それに、初恋?どうしてそうなる。エリーゼも社交界ぐらいは出ていただろう、そんなものとうに終わっていると思うのだが……」
腑に落ちない様子のアルフォードの言葉に。
「初恋とは唐突にクピトの矢を放たれるものなのです。エリーゼ様はどの様な時も、殿方からの邪な想いは即座にバッサリと薙ぎ払うお方様でしたから」
堂々と持論を述べる、忠臣ポテルカ。
「ではなぜ、私に素っ気無い態度を取っていたのだ?」
それは……。どう応えようか。言葉を探すポテルカを助けるべくエリーゼが時を見計らい、仄かな声を上げました。
「……ああ。それは……、あなたの心は決してわたくしには向かないと……。初夜にてわかってしまったから。心底愛しているのでしょう?彼女を……わたくしと離婚をしてまで生涯、結ばれることを望む彼女のことを……ですが、わたくしは『ブランチュール侯爵夫人』として生きていかなければならない。夫の心は永遠にわたくしに向けられないのに。わたくしの小さなプライドを守るためですわ……。そうしなければ貴族社会の中で生きていけませんもの。笑い物になりますもの。だから夫の動向に対し全てを飲み込み、素知らぬ顔を貫くしか生きる道が無かった」
儚く話すエリーゼ。しかし心の中は猛る怒りの燻りから焰が産まれ、めろめろ。黒くドクロを巻いて燃えさかり始めました。
(さあ。気を抜かない。この先が大切なのですわ。両家親族に認められたと、お馬鹿なアルフォードが言っていました。もう、引き返せない道に踏み込んでいるのです。離婚は是非ともしたい。だけど、女として最大な恥をかかせられた、あの夜の仕打ちは……)
決して許すまじ。ポテルカの手を借り、よろよろと椅子に戻りながら次の手の思案を始める、エリーゼなのです。