チャイコフスキーの亀頭
「ドクトル、セックスをしましょう」
私はタブレット端末を取り落とした。
振り向くと、戸口に一糸まとわぬチャイコフスキー1号が立っていた。移動の自由は特に制限していないから、出歩いていても何もおかしくはないのだが。
「突然なんてことを言うんです」
「あなたは男性器の写真をじっと見つめていたではありませんか。しかも、私のものと寸分違わぬ……それは、私の男性器を撮影したものに相違ありませんね?」
それはその通りだった。
「そんなことより、あなたにはオペラを書いてもらわなければなりません。《現代の英雄》の進捗はどうなのです」
「レールモントフの格調も、チェーホフの韜晦も、あなたを手に入れられないなら無意味です。シベリアに送られたって構わない」
「オペラを完成させてから送られてくださいね」
チャイコフスキー1号をどうにか追い出した私はタブレットを拾い上げ、男性器の写真を眺めた。
1号が複製(電子レンジのようなものから成人の状態で出てくる)されてすぐ撮影した写真なので、当然勃起状態ではない。包皮は雁首の手前で弛んで留まり、完全に露出した亀頭の先端は少し黒ずんだ肌色をしている。
何も好きでこんなものを見ていたわけではない。
亀頭をピンク色にしてくれないか、と研究所長に震える声で言われたのは数週間前だった。
どういうことですか? と訊き返さずにはいられなかった。
曰く、党書記長がチャイコフスキー1号を視察した折のことらしい。党書記長は寝台に横たわるチャイコフスキーの様子におおむね満足していた様子だが、下半身の覆いを外した瞬間、眉をひそめ、側近に何事かを耳打ちし、帰ってしまったのだと言う。
ほどなく党機関紙に私たちが作成したチャイコフスキーの複製に「不当に付与された淫らさ」に対する「匿名」の記事が掲載された。
要は、亀頭がピンク色の、「純潔」と「美徳」の体現者であるチャイコフスキーでなければ認めないということだった。
チャイコフスキー没後百五十年を祝して1号を作った数週間前には、科学アカデミー遺伝学研究所は国営メディアに称賛されていた。それが今や完全に黙殺状態だ。
亀頭をピンク色にする……それが私の使命なのですか? この研究所での?
所長は震えながら、頷いた。
かくして私はチャイコフスキーの亀頭をピンク色にすべく奮闘することとなった。
私はタブレットを机に投げ捨てて、ソファに深く腰を下ろした。
ドアの外からチャイコフスキー1号のピアノが響いてくる。時折、歌声が混じる。二度三度と、似たような節回しで歌い、やがてひとつの形へと収斂してゆく。そして、次のフレーズに取り掛かる。
チャイコフスキーはもう19号までいたが、この研究所にいるのは1号だけだ。私は19人のチャイコフスキーを作った──とどのつまりは、亀頭をピンク色にすることに19回失敗した。
まずは手っ取り早く、粘膜の色素が明るい色になるよう遺伝的形質の調整をした。そうして生まれたチャイコフスキー2号の亀頭は、しかしやはり黒ずんでいた。唇や乳首ははしたないほどのピンク色になったというのに。
そうなると原因は彼の習慣にあるということになる。
複製に際しては、本人や周囲の手記をはじめ当時のありとあらゆる文書を参照し、当人が何にどう反応するかをシミュレーションする、ミクロストリア的メソッドによる人格再現を行う。構成の過程では、生成されたヒストリーに応じて、身体のほうにもフィードバックが加わる。
この手法は、たとえ当人が文字を残さなくても誰かを再現できるところにまで来ている。残っていればなおさら簡単な話だ。
しかし、研究はうまく行かなかった。性器の黒ずみを消すために何を調整したらよいかなんて、分かる訳もなかったのである。
まず手記や書簡集からセックスに繋がりそうな部分を抜いた。法律学校時代の学友、聾唖の少年だったという「コーリャ」、そして彼が生前何より愛し遺産と曲の権利を相続した甥っ子の「ボブ」……。しかし効果はなかった。
自慰を禁ずる雰囲気が特別重い環境に育ったという設定を盛り込んでもみたが、これは史上最悪の黒ずみを生んだ。禁じられれば禁じられるほどに燃え上がるとでも言いたいのか。
すでにオペラの作曲に取り掛かっていた1号を除いて、全員シベリア送りになった。そして二十人目の仕様を決める段階で、予算の都合からこれが最後であると言い渡されていた。
ドアから流れてくる彼の声に嫌気が差して、私はインターネットラジオを付けた。クラシックのチャンネルだった。
座ったまま聞くともなしに聞きながらうとうとしていると、だしぬけに視界に1号の姿が現れ、目がいやでも覚めてしまった。彼はこちらをじっと見つめていた。
「これはなんというオペラですか」
私は首を横に振った。先ほど流れはじめたばかりだったが、曲名は聞いていなかった。
プロローグのあとに、ソプラノのアリアが始まった。
……いい加減にしな、クソ旦那様! しつこいったらありゃしない!
あんたの子なんか誰が産むもんか
私はフェミニストだ、釈迦に説法ってなもんさ
男の権威なんざ知ったことじゃないね……
私たちは顔を見合わせた。それから、同時に噴き出した。二分くらい笑い転げていたかもしれない。歌詞も相当だが、お互い相手の表情が面白かったのだと思う。
「パジャマパーティをしましょう」
彼はそう言うと電気を消し、サイドデスクの読書灯を付けた。それから、ソファに登ってきて、私の隣に無理矢理収まった。
「ピョートル・イリイチ、これでは眠れませんよ」
「眠らなければいいのですよ。パジャマパーティとはそういうものですから」
「どこでそんなことを覚えたのですか」
「前世の記憶です」
返事をできずにいると、彼は私を見て笑いを漏らした。
「ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。それが私の名前です。私はピョートル・イリイチの体験を持っています。ウラルの工業地域で中流階級の家に生まれ、ペテルブルクで育ち、親に逆らって音楽家になり、コレラに罹患した。 そして、今こうして生きて、ピョートル・イリイチがする思考をし、ピョートル・イリイチがする反応をし、ピョートル・イリイチがする生産をしている。
でも、変ですね。すべてが、遠い、他人事のように感じられるのです。ボブのことすら、嘘のように感じられるのです……」
彼は微笑みながら首を振り、オペラに集中する素振りを見せた。
短いオペラだった。妻が乳房を手放して男になり家を出ていくと、なぜか夫がその乳房を付ける。そうこうするうちに町中の女が男になり、少子化を憂えた夫が子供を大量に「生産」し、大騒ぎになる。結局夫は男のままの妻とよりを戻し、全員で「子供を作ろう!」と合唱しながら大団円。
「いいな。私もこんな自由な台本に曲を付けてみたい」
最後まで聞き終えて、彼はそう呟いた。
私は何も答えなかった。この国でいまだ同性愛は投獄されるべき罪だった。
彼は私のほうに腕を回し、自分のほうへ引き寄せた。
「あなたの名前をまだ知りませんね、そういえば。ドクトル?」
「ドミートリイ」
「ミーチャと呼んでも?」
私は答えなかった。代わりに、額にキスをした。
それきりだった。朝起きると彼の姿はもうなく、ドアの外からピアノと歌が響いてきた。
私の作ったチャイコフスキー20号は、肉体的形質のみを本人に寄せた傀儡だった。シベリアに送られた2号を参考にしたため、亀頭はおそらく本来の三割増しくらいピンク色だった。再び視察へと来た党書記長もご満悦だった。
チャイコフスキー没後百五十年の祝典は盛大に行われ、1号が完成させた『現代の英雄』がエルミタージュ庭園の屋外劇場で初演された。指揮はゲルギエフ2号、歌手はシャリアピン4号、ゲッダ5号、ネトレプコ8号……
喝采のなかステージに出てきた20号は、にこにこと微笑んで手を振り、誰かが教えたとおりの挨拶をした。
私は研究所へ帰り、20号のいる居室を訪ねた。
もとは1号が住んでいた部屋だった。ノックをしてドアを開けた私は、その部屋の殺風景さに衝撃を受けた。1号はシベリアに全てを持っていったらしい。
ピアノの前に座る20号がこちらを振り向き、にこにこと微笑んでいた。こんな何もない部屋に住んで何がうれしいのかと思ってから、ほかならぬ私の所業なのだと気付いた。
彼はピアノのほうへ向き直り、たどたどしく弾き歌いはじめた。
……われらが若き騎士たちの姿みごとに
そのまとえる衣、しろがねをちりばめたり
されど、なおみごとなるは、若きロシアの騎士よ、
黄金なる飾り紐あでに、その姿あたかもポプラのごとくなれど、
われらが園にては、育つことなく、花も咲くまじ……
《現代の英雄》の第一幕にある、カフカス人たちの婚礼の場面でのアリアだった。客席で聞いて、覚えたようだった。
演奏や作曲ができるようにデザインしてはいなかった。 理由を考えているうちに自分でも気づかないうちに涙を流していた。
椅子に縋り付いて許しを請う私に、チャイコフスキーの抜け殻は微笑みを向けた。肖像画の中の姿と同じように。
……私は研究所を辞去して、シベリアへ行った。
シベリアには、芸術家や科学者の複製たち専用のアーティストインレジデンスがある。彼らはバラムツを食べさせられ、脂を精製させられている。その脂はこのレジデンスを温め、また国民の生活に役立てられる。
常に油を貯めるための肛門カップを装着しながら、どこにも届くことのない創作や研究をし続ける彼らは、やがてこの油を少しずつくすねて宇宙船で亡命するのだが、それはまた別の話だ。
入所の手続きはすんなりと通り、レジデンスにたどりついた。
宛がわれた部屋を開けると、二十人のチャイコフスキーが待ち受けていた。
ただ一人だけ私にも見分けのつく1号が前へと進み出て、私の荷物を受け取り、手を握ってきた。
「ミーチャ、セックスをしましょう」
第2回かぐやSFコンテスト(テーマ:未来の色彩)に応募した作品です。箸にも棒にも引っかからなかったけれど、応募者の皆さんにはとても愛していただいた思い出があります。
私はと言えば、エッチだったから落ちたのかな……と思っていました(原因の一つではあっただろうね)。第1回正賞の海山勝百合「あれは真珠というものかしら」が”造られた存在の悲しみ”ものだったので私もそれをやろうとしたんです。審査員の脆弱性を突こうとするのは悪くない発想だけど他の部分が目立ちすぎなのよ。
チャイコフスキーがチェーホフとの共作でレールモントフ『英雄の生涯』第一部をオペラ化しようとしていたのは史実。ラジオから流れてくるのはプーランクのオペラ《ティレジアスの乳房》より”いいえ、旦那さま”。タイトルもこのオペラから。なぜプーランクかと言えば、①帝政ロシアの貴族文化はフランスと切っても切り離せない②プーランクはオープンリーゲイの作曲家だった③歌詞が単純におもろい……という理由です。
まあしかしまさかこんなことを考えて書いたとは誰も思わなかったでしょう。そんなもんよ。