外化する意志 (シェイクスピアとドストエフスキーの「意志」の取り扱い)
ゲーテはそのシェイクスピア論で、シェイクスピアにおいては意欲と当為(必然)が見事な均衡に達していると書いている。私はかねがね、ゲーテのシェイクスピア論に感服してきた。
ゲーテやシェイクスピアの話はさて置いて、現在の状況に目を向けよう。例えば、村上春樹はどうだろうか。ゲーテは意欲と当為という言葉を使っているが、これはわかりにくいので、意志と必然という風に言い換えて考えていこうかと思う。意志は、主体の内部に存する希求であり、必然は主体を制限するものであり、大きく言えば運命である。
悲劇の本質は、必然が意志に勝利する所に現れる。ギリシャ悲劇とシェイクスピアにおいては、それぞれ違う均衡が取られている。しかしそのどちらも見事な、人類的に価値のある偉大な作品と成り得ている。
村上春樹の話を出したのは、彼が意志の問題をどう取り扱っているかを調べる為だ。村上春樹においては、「僕」という自我がある主体的欲求を持っている事が知らされるが、同時にそれは世界から供給される何物かによって、満足を与えられる。(作品内では「女」が与えられる描写となる) 村上春樹の小説の主人公は受動的だ。主人公が大きな渇望を覚えて行為する事はあまりない。そこでは緩やかに意志と、客観世界が結び付けられており、それは優雅なカーブで構築される。このラインをなぞっていく事で、読者も「僕」と同様にある快い感情を与えられる。そこに村上ワールドの本質がある。
一方で、村上ワールドは、戦後の経済成長の中で一時的に達成された状況の中でのみ可能だという気もしてくる。村上春樹の小説に漂っているエンタメ的、ラノベ的雰囲気は、彼がリアリズムを巧妙に排除する所から出てくる。リアリズムを排除しつつ、主体に心地よいラインをなぞっていく作品が、本格的な悲劇になりえないのは、わかりやすい所だ。
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ゲーテの論に戻るなら、ゲーテはシェイクスピアが近代性を、古代と同じくらい見事な均衡に昇華したのを褒めている。ゲーテはこう言っている。「シェイクスピア作品においては意志が昇華し、当為となっている」。当為は必然だから、意志が必然に昇華しているという意味である。
これはどういう事だろうか? 意志が必然に昇華しているとは。必然とは、主体を縛る運命である。だが、意志は主体に宿る欲求である。ここにシェイクスピアの独特の技巧がある。これは真似しても真似られない偉大な手腕であると共に、現在、無理矢理行えば奇妙なものとなる技巧である。
「マクベス」を見て行こう。「マクベス」において、主人公マクベスは、王を暗殺して王位を奪いたいという欲求を持つ。だが、この欲求は現代劇のように、主体の『心理』とは捉えられない。それは魔女の言葉という外在的なものとして現れる。マクベスは魔女の言葉によって、自分の中にある意志に気づくのだ。
この意志は実現に向かって動き出す。マクベスは王を殺し、自らが王になる。だが、彼は外部に敵を作り、最後にはライバルのマクダフに殺されて幕は閉じる。
しかし、マクベスが破滅するのは、魔女に騙されるからである。これは、奇妙に思える。というのは魔女は、マクベスの内心の現れであると共に、彼の破滅の原因でもあるからだ。魔女は、心理や無意識といった主体的欲求と、主体を制限し、彼を破滅させる外的必然が混ぜ合わされたものだ。この独特な機構をシェイクスピアは見事に使いこなす。「ハムレット」においては、ハムレットは亡霊を見て、宿命に捉えられる。亡霊は「復讐を遂げよ」というメッセージを現していた。亡霊は、ハムレットその人の心理の結晶であると共に、彼を縛る宿命でもある。…ゲーテの言いたかった、意欲と当為の均衡は、私にはこうした構造を指すのではないかと思われる。
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今一度、村上春樹に戻るなら、そもそも主人公は大きな意志を持たない。弱い意志を持った主人公が、ある程度の富裕な社会と一致する事によって、問題が消失していく。「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公はラストにおいて「普通の女」と寝る事によって、何かを得たように思う。その女を得るためにあくせくするという努力もないが、それを描くと、作者には優雅さが失われると思われたのだろう。また、そのような描写が可能に見える社会状況があった。
しかし、今ならはっきりと言えるが、そうした社会状況が存在するというのはそもそも嘘っぱちであり、死と実存を排除した、衰亡しつつある国民が目の前に作り出した都合のいいビジョンに過ぎなかった。それはやがて、永遠に楽しい学園生活が続くアニメ作品のようなものへとさらなる下降を遂げていく。
村上春樹に私怨はないので、私はただ時代を測量する為にその作品を使っているに過ぎない…。冷静に振り返るなら、村上春樹の小説において主人公が大きな悲劇に到達しないのは、作者が、様々な陰惨さや理不尽を含む現実を描くリアリズムを避けているからである。それと共に、主人公が大きな意志を持たないからだ。現代においては、大きな意志を持つ事自体が難しい。意志はシステムに全て吸収されているからだ。
意志と必然が決定的に矛盾する事によって、悲劇が現れる。そこに意志の挫折が現れ、必然の強大な力、現実や自然の大きな姿が見える。我々は悲劇という矛盾体によってはじめて、人間と、人間を制圧する巨大なものを認識するのである。その融和が、現代社会のように、最初から小さく結び合わせられており、思考もその外側を出ないように強制されている場合、我々の目に見えるのは小さな成功と小さな挫折でしかない。我々が日々見させられているもの、日々演じているものはこれである。
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ジグザグ歩行になってしまったが、先に進もう。…確かにシェイクスピアは、意志を外的なものにする事によって、独特の均衡を持つ事になった。意志が必然にまで昇華していく。それは主体にとって運命となって現れる。主体にとっては、外的であるが、同時にそれは内的なものでもある。だから、主体が滅んでいくのに、我々は共感しつつも、その必然をやむを得ないものと感じ、静かなカタルシスを感じるのだ。
ゲーテはシェイクスピアに述べただけだったが、私はその「後」があるように思われる。それはドストエフスキーの存在だ。もちろん、ゲーテがドストエフスキーを知る事は不可能だったが、ゲーテの論はドストエフスキーまで延長しても良いと思う。
「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフはどうだろうか。結論から言えば、ラスコーリニコフにおける「魔女」「亡霊」の位置に値するのは、ラスコーリニコフの『思想』である。ここに、依然、古代的なものの影を引きずっていたシェイクスピアとの違いがある。シェイクスピアにおいては、まだ世界は古代的な、魔術的なものに包まれていた。個人の心理は外側に拡散し、妖精や精霊や神々、自然現象などという形で乱舞していた。だが、ドストエフスキー作品においてはそれは個人内部に圧縮され、「心理」という名札を付けられ、封印された。だが封印されたものは、その仕返しを外的世界に行わないだろうか? 彼はおとなしく黙っているだけだろうか?
「罪と罰」において、ラスコーリニコフは自分の思想に捉えられる。彼が自らの思想に捉えられる様は、ハムレットが亡霊の姿に囚われたり、マクベスが魔女の言葉に囚われていく過程に酷似している。ドストエフスキーはこの領域において、シェイクスピアの均衡を更に推し進めた。ドストエフスキーは、魔女や亡霊、神託といったものは使わずに済む。バルザックが社会的個人を徹底的に描いた後の世界である。だが、こうした近代社会においても悲劇は存する。というのは、主体の意志はやがて思想となり、化け物じみた奇怪な考えとなって、彼を襲う。そうして、彼の思想を不気味に伸長させる様々な要素が都市には内包されている。
「罪と罰」の終盤に、ラスコーリニコフは何度も、「自分はこうなる事を知っていた!」と叫ぶ。それは、自己の中に魔女を内包せざるを得なかった近代人の嘆きである。「自分がシラミだというのは知っていた」 彼はシラミであると共に、偉大な意欲を持った悪魔である。その二つを一人の人間に同居しなければならぬ事、ここに近代の根底的な悲劇がある。古代においては外側に拡散していた神々は、近代においては内側に内包される事になった。ここに、ドストエフスキーのような強烈な内的対話が可能な素地ができた。私はそのように考えたい。
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さて、これで大体言いたい事は言ったわけだが、もう少しだけ付け加えて終わりにしよう。
現代において悲劇が不可能に見えるのは、一つには大きな意志を持つのがそもそも不可能であるという事だ。更には大きな意志が必然・運命にまで昇華していく道筋を考えられないからだ。そういう技術の問題が一つ。
しかし、もっと根底的には、何故、人間に悲劇が必要なのかがわからないという事なのだろう。だから世界はエンタメ一色だ。それというのは、人間の限界を認識する事を人が諦めつつあるからだ。例え嘘でも、現実と融和して、死すべき存在である人間という種に対する認識をごまかそうとしている。
人間に対する認識を歪める事と、世界の質を向上させ、世界と人間を融和させ、そこに天国を作り出す事。それこそが現代の宗教である。この宗教は地上的なものである故、卑俗なものだ。この宗教を肯定する護教書が、現代のエンターテインメントである。しかしそれによって、人間の意志も、それを制する必然もよく見えないものになった。人間そのものが小さくなった。大きくなったのは、人間を包み込む社会である。
個人がいない世界で、個人が紡ぎ出すドラマを作るのは難しいだろう。現代はそうした状況である。しかし場合によっては、悲劇が現れるかもしれない。もし悲劇が現れるとしたら、それは大きな意志と、意志が昇華され、外的なものに結晶した何物か、その外的形式と内的主観との葛藤というものになっていくだろう。それは、古代から続く悲劇の系譜で、私はこの系譜は、絶やす事なく連綿と続けていく必要性があると思っている。
追記:近代以降、外的世界と内的世界が分割したのもこれで説明がつく。内的世界(心理・主観)、外的世界(物質・客観)。この分割は、世界に乱舞する神々を殺し、それを人間の心理に還元し、残った世界は物質世界とする。そうした行為が過去に行われた。しかし、フーコー的に言うなら、こうした世界観も一時的なもので、いずれ「砂の上に書いた文字」のようにやがて消えていくだろう。…そうした慰めを持つ事も可能だろう。