第六話 知らないこと
五月二十三日、日曜日。和希は今日も外出していた。
近々定期テストがあるというのに、土日の時間を勉強に費やさないというのは和希にとって珍しい。それくらい、和希にとって大事な用事である。
電車を一つ乗り継いで、和希は目当ての場所に到着した。和希の住む住宅街とは違い、到着した場所は周りに田畑が広がっている。遠方には木がたくさん生い茂っている景色も見えて、たまに鶯の鳴く声が聞こえる。「これが田舎か」と思える場所であったが、幸い、キョウから教えてもらった住所は駅から徒歩十五分で行ける場所にあった。
そこにあったのは、木造建築の大きな平屋であった。マンションやアパート、ビルばかりを見て生きてきた和希にとって、平屋というものは大変珍しい存在に見える。それに敷地も大変広い。近所に家もコンビニもない。もはやどこからどこまでがこの家の敷地なのかもわからない上に、門らしいものもないので、和希は恐る恐る家の玄関へと近づいていった。玄関の隣には一台分の駐車場があるが、車は停まっていない。留守だろうかと思いつつも、和希は木造建築に似合わない現代的なインターホンを鳴らした。
——どちら様でしょうか?
女性の声が聞こえる。この人が、キョウからもらった紙に書いてある『中原 優梨』という人物に違いないだろう。想像よりは少し老いているようなその声に、和希は緊張を押し殺しながら答えた。
「突然お邪魔してすみません。私、桔梗高校二年の宇治原 和希と申します。その……失礼かとは存じますが、中原さんにお聞きしたいことがございまして——」
と、話している最中にインターホンの接続が切れた。拒絶されたのだろうかと和希は思ったが、しばらくすると玄関の扉が開かれた。
中から出てきたのは、五十前後の歳と見受けられる女性であった。もう温かい時期だというのに厚手の服を着込んでいる。扉を開いて和希を見るなりポカンとしている。和希が言葉に迷っていると、その女性は咳払いしながら「お入りになって」と和希を家に招き入れた。
家の中も外観と同じように、古めかしい様子をしている。床は歩くたびにぎいぎいと音を鳴らし、天井からはネズミが逃げていくような音がする。木の匂いだろうか、普通のアパートでは漂っていないような匂いがする。家の中だというのに風を感じる。黒電話でも置いてあるのだろうかと和希は辺りを見渡したが、電気製品だけは現代的なものを置いているようであった。
和希は客間に案内された。畳の部屋で、床の間にはいけ花と掛け軸が飾られている。箪笥の上も綺麗に飾られていて、大きなアメトリンの原石や、二つのこけし、楔の模様が入った大きな指輪、それと大きな額縁に飾られた桔梗の押し花がある。それらに目を奪われていると、先ほどの女性が焙じ茶を持って戻ってきた。
テーブルの上に焙じ茶を並べて、女性が丁寧にお辞儀をする。
「初めまして、宇治原さん。私は中原と申します」
「こちらこそ、初めまして。あの、突然お邪魔してすみませんでした。電話番号などを知らなかったもので」
「気にすることないですよ。いつかこうやって、あなたとは話す必要があるのだと思っていましたから」
そう言って、優しく微笑んだ。心から和希のことを歓迎しているとわかる笑顔である。
「確か、十年前はまだ六歳でしたね。小学校に入学したばかりだと聞いたような気が」
「はい。……全て、ご存知なんですね」
「ええ、知っていますよ。あなたが、十年前に悪魔崇拝事件で殺害された宇治原 美由希さんの一人息子だということもね」
宇治原 美由希。他人から母の名前が出てきて、和希はまた鼓動が速くなっていくのを感じた。ここに来る前から自分の母の話になることは覚悟していたのだが、それでもいざ名前を聞くと緊張せざるを得ない。蓮二にも面と向かって話したことのない事実を、この女性は知っている。そのことが何となく不気味というか、自分の全てを知られているかのような感覚になって、どうも落ち着かないのである。
しかし、ここに来た以上は腹を括るしかなかった。和希は和室での礼儀作法というものを知らなかったが、最大限の敬意が伝わるように深々と頭を下げた。
「失礼を承知でお願いします。十年前のこと、教えていただけませんか。……俺の、大事な友達が、この前殺害されたんです。他の友達もすごく怯えていて。だから……」
「顔をあげて、宇治原さん」
中原に促されて顔を上げると、中原は立ち上がって箪笥の方へと向かっていた。「知っていることは何でも話すわ」と言って、箪笥の一番上の段から一枚の写真を取り出した。
「私はね、十年前は宇治原さんと同じく桔梗町に住んでいたの。住んでいたと言っても、この家が私の実家で、桔梗町には二年間アパートを借りいただけ。それがまさか、こんなことになるなんてね。……ある日、家の扉の方のポストにこんなものが入っていたわ」
そう言って差し出されたのは、先ほど中原が取り出した写真であった。
——火
雑誌やSNSで見たものと同じ、黒いカード。白い二重丸の中に、白い逆五芒星、そして明朝体で「火」と刻印されたカードである。今まで雑誌などで見ていたものの中に「火」のカードだけはなかったため、和希は初めて「火」のカードを目にしたことになる。
「これは写真ですが、実物は……?」
「警察が押収していきましたよ。事件に関係があるかもしれないからと。こうやって人と話すときのために、写真だけ残すことにしたんです」
「被害者のカードを押収するならわかるんですけど、無関係かもしれない人のカードも押収したんですね」
「横暴でしょう? でも、私としてはこんな不気味なカードを持っていたくないし、手放す機会としてちょうど良かったわ」
その言葉に和希は「だったら写真を持っているのも不気味なのでは?」と思ったが、そのことを確認する前に中原は話し出した。
「そう、不気味だったわね。十年前、ポストにこのカードと『悪魔との契約』について書かれた紙が入っていたんです。趣味の悪いいたずらに見えましたけど、単に捨てるのも怖くて、神社でお祓いしてもらおうととっておいたんです。神社にこういうお祓いの力があるか、わからないけど。……そうしているうちに、ご存知の通り、最初の被害者が現れました」
最初の被害者のことは、和希もよく知っていた。
桐原 拓郎。場所は桔梗町の端にある団地の公園。日中から酒を浴びるように飲んだり人に罵声を浴びせたりしていたせいで、住民からひどく嫌われていた人物である。当初、被害者の名前は報じられていなかったのだが、あまりにも嫌われていたために人々の間で名前が言いふらされていったのである。後頭部をベンチの角にぶつけたことによる脳挫傷が死因であることが判明している。
一見、アルコール中毒者が足を滑らせて命を落とした事件のようである。しかし、腹部に逆五芒星の印が刻まれていたことと、その現場から「金」のカードと例の紙が発見されたことから、殺人事件の疑いが強くなった、さらにあの雑誌がいち早く『隠されたカードをめぐり、今、殺し合いが幕を開ける』と扇動的な煽り文を出したことで、怪奇的な殺人事件として日本中に知れ渡ることになった。
「最初はすぐに警察に言おうと思いましたけど……やっぱり、ちょっと怖かったんですよ。雑誌は『カードの持ち主こそが犯人である!』みたいに報じるし、私がカードを持っていることがバレたら、今度は私が狙われるかもしれない。だから、黙って引っ越しの準備を始めることしか私にはできなかったんですね」
「……怖かったですよね、それは。心中お察しします」
「ありがとう。それから、ちょうど一週間後に次の被害者が出ました。このことは、どの程度ご存知ですか?」
「桔梗町のスーパーの裏手で、鋭利な刃物で喉を刺されて殺害されたことは知っています。監視カメラも人目もない場所で、誰が殺したかはわからないんですよね」
第二の被害者は女性であった。専業主婦で、その日は買い物をしに来ていたと推測されている。
この事件も逆五芒星のカードが現場から発見された。「水」のカード。最初の事件とは違って腹部に逆五芒星は刻まれていなかったことから、最初の事件とは別の殺人犯である可能性が示唆されている。
「その次の事件は……スーパーの裏手で女性が殺害された翌日。桔梗町のアパートの廊下で男女が殺害されました。女性の方は腹部を何度か刺されて失血死、男性の方はスーパーの事件と同じように喉を刺されて死亡しました。ここにも逆五芒星のカードが二つ落ちていて、二人がその持ち主だろうと報じられていますね」
第三、第四の事件現場に落ちていたのは「木」と「土」のカード。どちらのカードをどちらが持っていたかについては不明だが、指紋から「木」を女性が、「土」を男性が所持していたのではないかと推測されている。もっとも、「木」にはその男女両方の指紋がついていたということから、確たる証拠とは言えないようである。
「この、アパートの廊下で殺害された女性の方こそが、宇治原さん。あなたのお母様でいらっしゃいましたね」
和希はごくりと唾を飲み込んだ。こうして、母と事件の関連を面と聞かれるのは久しぶりである。……十年ぶりだろうか。
「そうです。……私は、そのときそのアパートの部屋の中にいたんです。現場になったアパートは俺と母が住んでいた場所でした。私が寝ている間に、母が部屋の外に出ていたみたいで。私が起きたときには、もう」
和希が辛そうに口を開くのを見て、中原が言葉を制した。
その日のことを、和希は今でも覚えている。その日は平日なので学校がある日であったが、母に「出かけてはダメ」と言われたので和希は部屋にいた。部屋から出られないことは不満であったが、母がカップラーメンやお菓子やジュースといったものを何でも与えてくれたので、ほのかに嬉しかった記憶がある。
部屋の中で和希は一人で遊び疲れ、まだ十六時ごろだというのに眠ってしまった。次に起きたときにはもう日は沈んでいて、部屋の中には見慣れない大人の男の人がたくさんいた。被害者宅を調べに来た警察だったのである。
「四人が殺害されて、十年前の事件は幕を閉じました。警察は雑誌と同じ考えのようで、そのカードを持つ最後の一人を必死で捜したみたいですね。急いで引越しをしようとしていた私が目をつけられて、私がカードを所持していることを突き止められました」
「それは……あの、聞かれたくないであろうことを聞いてしまって申し訳ないのですが、警察からは疑われなかったのですか?」
「散々な目に遭いましたよ」
そう言って、クスッと笑う。台詞と笑顔があまりにも合っていなくて、和希は不気味さを覚えた。
「警察も雑誌も、口を揃えて言いましたよ。『火のカードを持つあなたが犯人では』と。特に警察の圧力は酷いものでしたね。どうやら雑誌の取材が警察の捜査よりも事件のことを詳しく調べていたみたいで、警察としても焦るものがあったのでしょう。任意同行という名ばかりの、三日三晩の拘留。二度と味わいたくない苦痛でした」
「疑いは晴れたのですか?」
「一応ね。第一と第二の事件の死亡推定時刻、私には仕事をしていたというアリバイがありましたから。最後の事件だけはアリバイがありませんでしたけど、私は四人と接点がありませんでしたから、証拠不十分として解放されました。私にには四人がカードを持っていることを知る術が全くありませんでしたから」
中原が、四人と接点があったかどうか、四人がカードを持つ術を本当に持っていなかったかどうかは和希にはわからなかったが、とりあえず中原の言葉を信じることにした。中原を殺人犯として検挙したかったであろう警察が音をあげるほどのことなので、本当に接点がない可能性の方が高いだろうと考えたのである。
「今回の事件も刑事さんに疑われて、また挨拶をすることになりましたね」
「そうなんですか?」
「十年経っても関係者ですから、事件の翌日すぐに刑事さんが飛んできましたよ。でも幸い、その日は娘が友人を泊まりに連れてきていてね。娘夫婦とその友人がアリバイ証人になってくれました」
中原に娘がいることは和希にとって初耳だったが、家の中の様子から二人ほどの同居人がいることは想像できていた。中原が家にいるのに出かけているような駐車場の車の跡に、玄関に置いてある若い成人男女の靴。娘夫婦は、今は留守にしているのだろう。娘が結婚してこの家で一緒に暮らしているのなら、家の様子に納得できた。
家族はアリバイ証人として警察が取り合ってくれない、と和希は話に聞いたことがあった。娘夫婦がどの頻度で友人を呼んでいるかはわからないが、事件の日に偶然にも呼んでいたのは、中原にとって幸運であったと言えるだろう。
「そうだったんですか。……疑いが晴れて本当に良かったです」
「そう? 私としては宇治原くんに疑われてもおかしくない立場だと思いますが」
「いえ。警察の調べもあったことですし、中原さんは巻き込まれただけじゃないかと私は考えています」
力なく笑う中原を見ながら、和希は熱い焙じ茶を喉に流した。キョウのいう通り、中原はとても優しい人である。だからこそ、こうやって何でも聞いてしまうことは不躾なような気がして躊躇われる。
躊躇ってしまうが、しかし、和希としてはどうしても聞かずにはいられなかった。
知ってはいけないことを、知ってしまうような気がする。悪い予感がある。ずっとずっと、十年前からずっと抱いてきた悪い予感を確信に変えてしまうのではと危惧する。しかし。
——聞かなきゃ。真実を知るために。もう、今しかないんだ。
もう一度、熱い焙じ茶を喉に流して。和希は震える声で言った。
「あの、中原さん。……第二、第三の事件で殺された被害者の名前をご存知ないですか」
大したことがないような質問に聞こえる。しかし、和希のただならぬ表情を見て、中原はことの重大さを悟った。
十年前、この事件の被害者の名前は公表されなかった。大々的に取材をしてきた雑誌でさえ、被害者の名前だけは掲載しなかった。
第一の被害者、桐原の名前だけは桐原自身の知名度と評判が合間って知れ渡ることになったが、他の三人はごく普通の一般人である。メディアが報じなかったことと、今ほどSNSが普及していなかったこともあり、素人が被害者の名前を特定することはできなかった。
「第二の事件で殺害された女性と、第三の事件で殺害された男性の方。この二人が、夫婦だったことはご存知ですか」
「はい。それだけは知っています」
覚悟を決めた瞳で、中原の方を見ている。
中原も湯呑み茶碗に口付けて、ゆっくりと口を開いた。
「その被害者の名前は——」
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同時刻。
和希と話そうと和希を誘ったものの、「用事があるから」と断られた蓮二は一人で外出をしていた。
——もしかして、昨日のデートがあまりにも上手くいっちゃったのか……?!
下世話なことを考えつつ、もしそうなら月曜日がさぞ楽しみだろうとウキウキしながら、桔梗町を歩く。
和希のことを考えるとテンションが上がってしまうが、これから行く先のことを考えると憂鬱になる。あまりにも自分の中の気持ちに温度差があることを感じる。しかし、目的地は案外蓮二の家から近く、すぐに着いてしまった。
桔梗町にしては珍しい、二階建ての一軒家だ。そこそこに立派な門があって、インターホンの隣に札が掲げられている。
——宮本
ここは、数日前に殺害されたクラスメイト、宮本 詩音の家である。
最近まではパトカーが多く駐車されていたが、今は車一つない。特に変わったところのない一般道と一般住居で、この家の住人が殺害されたとは誰も予想ができないだろう。静かな時間が流れている。
蓮二としては、家に招いてもらえるかもわからない訪問であった。事前に約束などは取り付けていない。そもそも、ここに訪問すると決めたのは今朝のことであった。
クラスメイトの女子の家にお邪魔するというのも緊張する話であるが、まさに恋愛が成就しようとしている親友を他の女子の家に呼ぶわけにはいかないため、今日のうちに訪問することに決めたのである。
震える手で、蓮二はなんとかインターホンを押した。
——どちら様ですか
「こんにちは。越智 蓮二っていいます。詩音のクラスメイトで、詩音とは……とても、仲が良かったんです。……その、お焼香だけでもさせていただけませんか」
勇気を振り絞った甲斐があり、インターホンの声の主が「開けますので少々お待ちください」と言ってくれた。
蓮二と詩音は特別仲が良かったわけではなく、あくまで和希も交えて話す程度の関係であった。しかしこうして詩音の家に入るには、詩音の親友や恋人だと勘違いされるほどの振る舞いをするべきだろうと考え、少し過剰に関係をアピールしたのである。
家から出てきたのは、細身で背の高い女性であった。ワンピースを着て身なりを美しく保っているようだが、その表情は明らかにやつれている。女性は、詩音の母だと名乗った。蓮二は母を騙しているようで申し訳ない気持ちになりつつも、母のご厚意に甘えて家に入ることにした。
「詩音、いつも迷惑をかけていませんでしたか。遠慮のない子でしたから、喧嘩してばかりなんじゃないかと思うんですけど」
「そんなことは……」
なかったとは言えない。蓮二は別の話題でごまかした。
「詩音の明るさにはいつも助けられてましたよ。詩音の親友の、渡瀬 真美って知ってますか?」
「真美ちゃんね。よく家に遊びに来てくれたわ。詩音には勿体無いくらいの良い子で、礼儀も良くて。この前も焼香をあげにきてくれたわ」
「そうなんですか。でも勿体無いってことはないですよ。真美も、詩音と一緒にいられていつも幸せそうでしたから」
泣きそうな笑顔で母はなんども「ありがとう」と頷いた。
母は蓮二を、詩音の部屋へと案内した。蓮二としてはクラスメイトの女子の部屋に入ることは躊躇われたのだが、詩音の部屋に小さな仏壇が置かれているのを見て、遠慮がちに部屋へと入っていった。焼香の匂いもするが、柑橘系の匂いもする。見ると、アロマキャンディが窓の近くで揺らめいていた。
母に見守られながら、蓮二は焼香をあげた。この焼香というものが仏教的にどのような意味を持つのか蓮二は何一つ理解していないが、仏壇の前で静かに手を合わせると胸が熱くなる想いになった。仏壇には、詩音の自撮り写真が飾られている。本人より可愛いくらいに綺麗に撮れている。その笑顔が眩しく感じながらも、蓮二はどうにか涙だけは堪えてみせた。
仏壇には色々なものが供えられていた。先週発売されたばかりの漫画や、枇杷の詰め合わせ。それと、桔梗高校陸上部がリレー女子部門で優勝したトロフィーが飾られている。
「詩音って、陸上部でしたっけ」
「違うのよ。でも走るのは速くてね、たまに陸上部の練習に付き合ってあげていたみたいよ。だから、陸上部の子たちが、『これは詩音とみんなで取ったトロフィーだから』って、詩音に……っ」
そう言って、母は俯いて泣き出した。何度も何度も、詩音、詩音と。もう戻ってこない愛娘の名前を呼んでいる。
蓮二はやりきれない思いになりながらも、非情にならざるを得なかった。詩音を殺害した犯人を見つけるためだと自分に言い聞かせて、辺りを見渡す。何か、事件解決のヒントになりそうなものがないか、目を皿にして探す。
部屋はよく整頓されている。勉強机の上にはペンたてしかない。本棚には勉強用の教科書や参考書のみならず、ジャンルを問わず色々な漫画がびっしりと詰められている。悪魔崇拝と何か繋がるようなオカルト的なものがないかどうか注意深く探すが、全く見つからない。ベッドは今すぐにでも気持ちよく眠れそうなほど整えられている。蓮二は母の目を盗んでベッドの下を覗いてみたが、少し埃が溜まっているだけで何もない。クローゼットは全開になっているが、中には何もない。押入れは……さすがに蓮二も、女子の押入れを漁ることはできなかった。
何も手がかりが見つからない。仕方なく、蓮二は罪悪感を抱きつつも母に質問を投げかけた。
「あの……五月九日って、詩音は何をしていたんですか」
探るような真似をしてしまって心苦しいが、母は話し慣れているのか、意外にも普通に返答した。
「朝から喫茶店に行っていたわ。相手は真美ちゃんじゃなくて男の子で……名前は、和希くんと言ったわね」
「か、和希?」
思わぬところで和希の名前を聞いて、蓮二は動揺した。確かに、和希と詩音は仲が良いので二人で喫茶店に行くことも違和感はないが、しかし真美ではなく詩音と二人というのは珍しい。和希が詩音を喫茶店に誘うとは想像し難いので、詩音が和希を誘ったのだろうと蓮二は予想した。
しかし……和希が詩音と二人でいたということを、蓮二は和希から聞いていない。和希の行動を蓮二に逐一報告する義務は確かにないが、何となく蓮二は胸騒ぎを覚えた。
「喫茶店からそのまま塾に行ったようね。塾に時間通り来ていたということは、事件の後に先生に聞いたわ」
母の言葉を聞いて、蓮二は少し胸をなでおろした。詩音が死ぬ前に最後にあった人物が和希であるというわけではない。それなら、和希が蓮二に「事件の日に会っていた」と報告しなくても自然な話である。まだ胸騒ぎは完全にはなくならないが、自分に「大丈夫」と言い聞かせることくらいはできた。
「和希と仲良かったですもんね、詩音。二人で喫茶店っていうのは、ちょっと意外ですけど」
「そうなの。あの日ね、詩音の顔がすっごく強張っていたから、心配になってどこで誰と会うのか聞いちゃったのよ。そうしたら初めて聞く男の子の名前で驚いたわ。……でも、塾ではご機嫌だったそうよ。私は和希くんって子を知らないけど、きっと良い子なのね」
「和希は良い奴ですよ。俺の昔からの親友です。今はちょっと忙しくて焼香もあげに来られないと思うけど。色々落ち着いたら、和希も顔を出すんじゃないかと思います」
真美を連れて、と言いかけたが、少し不謹慎に思えて蓮二は口を噤んだ。
——そう、和希は良い奴だ。優しい奴。しかも恋にちょっと不器用な奴。
自分に言い聞かせながらも、そうやって自分に言い聞かせていることでしか落ち着くことのない自分の感情を、蓮二は持て余していた。
蓮二と和希は、お互いがお互いに「カードを持っていない」と言っている。しかし、それを確信し合うだけの根拠は特に持ち合わせていない。それどころか、お互いがお互いに隠し事をしているということを、蓮二は知っている。話すタイミングをずっと失ってきた隠し事。話せば今の関係がなくなってしまうかもしれない。和希のことが大切だからこそ話せない、重要な隠し事。
これ以上詩音の部屋を詮索しても有益なものは得られないだろうと判断して、蓮二や宮本家を後にすることにした。蓮二が詩音の母に礼を言うと「また来てね」と、どこか詩音の面影のある顔が優しく微笑んだ。
——俺は和希を信用したい。でも何を根拠に、和希を信用したらいいんだろう。……和希だってそうだろ、和希が俺を信用する道理がないじゃんか。俺は、ただでさえ和希に話せないことがあるのに。
時刻は昼時。頭上にある太陽が、まだ夏になっていないというのに燦々と輝いている。
どうも家に帰る気分にはなれず、蓮二は詩音が殺害された公園へと足を運ぶのであった。