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第五話 これが夢の日々

 この場所に来るのは久しぶりである。

 細いビルの一室。そこそこ広い空間であるはずだが、あまりにも机や紙が密集しているので「広い」という感想は湧いてこない。漂ってくる紙の匂い……と言えば聞こえはいいのかもしれないが、それに混じって人間の生活臭がする。それに、ファックスだかコピー機だかわからないが、とにかくずっと機械音が鳴り響いている。プラスチックカード印刷の仕事も担っているらしいので、それの音かもしれない。

 この場所に長くいると頭が痛くなってしまう。できれば早く帰りたいと思うが、見知った顔が何人かこちらに手を振っている。



「おお、久しぶりじゃないか、キョウちゃん!」



 細身の男の言葉に、キョウは軽く会釈を返した。その隣にいた男性が「先輩、あの子誰です?」と聞いて、細身の男が「雄一郎ちゃんの娘だよ」と答えた。自分がここにいることが広まるのは本意ではないが、キョウがこの場所に協力をお願いしたのだから、文句は言っていられない。

 キョウは要件を早く済ますべく、細身の男に話しかけた。



「あの」


「はいはい、なんでしょうキョウちゃん」


「例の……電話で話した、父が作成した資料。どこにありますか」


「こっちにあるよ。ついておいで」



 そう言って、男が部屋の真ん中を歩いていく。床にも何枚か紙が落ちているが、男はそれを気にも留めず踏んでいく。よく見ると何人かの足跡がついているので、この空間はそういう場所なのだろう。男の後を追いながら、キョウは机の上に置いてある本などに視線をやった。



 ——大物女優[N・A]の不倫発覚か?!


 ——老人ホーム内で入居者がまさかの大麻栽培!


 ——政治家とUFOの癒着騒動について


 ——信仰心を忘れた現代人の末路



 相変わらず、くだらない。

 こうやって置いてある本に気をとられるのも無駄なように感じられて、キョウは視線を逸らした。

 ここは、いわゆる『ゴシップ記事』や『オカルト記事』を多く扱っている印刷・出版社である。名刺やカード印刷のほか、記者たちが各々でネタを仕入れ、それをこの会社で編集・出版を行なっている。あまり大きな会社ではないのだが、十年前の『悪魔崇拝事件』を独占的に取材をしたことで大きく知名度が飛躍し、安定的な売り上げを伸ばすに至っている。

 キョウはこの仕事をひどく嫌っていた。キョウの父はこの出版社の記者として休む暇もなく働いていたのだが、人の不幸に触れるたびに見せる父の笑顔を、キョウはずっとずっと嫌っていたのである。家族想いで優しい父が見せるもう一面の姿であり、なおのことキョウはこの仕事が嫌いになっていった。

 その父は過労で息を引き取ったため、もうこの世にいない。

 かつて、キョウにはわからなかった。人の不幸をむしゃぶりつくして、笑って、人を蹴落としていく父の存在が憎い。憎いが、キョウにとっては世界に一人しかいない父だったのだ。憎しみと悲しみの感情がぐちゃぐちゃになってしまって、キョウは父の棺の前で何時間も泣いた。キョウが父のことを愛していたのか憎んでいたのか、それはキョウ自身にもわかっていない。

 ただ一つキョウが心に決めたことは、このような三流記事に踊らされる人間にはなってはならないということである。



「こっちだよ。キョウちゃんは特別だけど、くれぐれも情報の取り扱いに注意してね」



 男に案内されて、キョウは本棚に手を伸ばす。今日はただこれを取りに来たのであった。



 ——悪魔崇拝事件・取材資料



 雑誌にも掲載されなかった、警察すらも欲しがるその資料を。



---



 五月二十二日、土曜日の午前十時の少し前。今日も空は潔いほどの晴れ。最近はずっと晴れが続いているので、雨を必要とする人たちが困っていないか心配になるほどである。

 しかし、和希としては今日の晴れ模様を歓迎しないわけがない。過ごしやすい気候であることを心から望んだ日だ。

 桔梗高校の最寄駅である桔梗駅。その駅の近くには、桔梗の花を模した銀色のオブジェが設置されている。桔梗町での待ち合わせといえばこのオブジェの前に違いない。高校の徒歩圏内に住んでいる和希は、電車に乗ってやってくるであろう彼女のことを待っていた。スマートフォンを見ると、「九時五十五分に桔梗駅に着く予定です!」とのメッセージが届いている。女子からメッセージが届くのは、二週間前の詩音からのメッセージ以来である。思わず顔が緩みそうになる和希であったが、頰を叩き、桔梗のオブジェを鏡代わりにして服の襟や前髪を整えた。



「和希くん! お待たせ!」



 待ち人、真美が手を振ってやって来た。白いラフなTシャツに、薄手のレースをあしらった橙のスカート姿。靴は白の愛らしいサンダルで、よく見ると桃色のワンポイントの飾りがついていることがわかる。手には麦わらの鞄を持っていて、春と夏を跨ぐ今の季節によく似合っている。画一化された制服とは違う、真美ならではの清楚さがそこにある。飾りすぎない。でも可愛い。

 ……と和希は思うものの、自然に褒めるにはどうしたら良いのか和希にはわからず、結局「おはよう、真美」と普段の学校となんら変わらない挨拶をしてしまっていた。和希はというと、ラフなワイシャツにデニムを合わせたシンプルなコーディネートをしている。少し大人っぽく見せようと和希なりに努力をしたのだが、いざ真美と並ぶと恥ずかしくなって、和希は赤くなっていく耳をなんとか髪で隠した。

 真美はいつにも増して上機嫌だ。デートとしては順調な滑り出しをしている。



「こうやって遊びに行くのも久しぶりだね。誘ってくれてありがとうね、和希くん」


「こちらこそ。久しぶりに出かけられて、嬉しいよ」



 本当に久しぶりである。具体的に言うと、最後に二人で出かけたのは昨年の十月五日。二人で詩音の誕生日プレゼントを買いに行った日以来である。記憶力の良い和希はそのときの具体的な風景まで覚えていたが、気味悪がられるのを避けるためにそのことは黙っていた。

 それくらい久しぶりであるため、このデートに真美を誘うときに和希は卒倒しそうになるほど緊張したのである。見かねた蓮二が自然な会話運びでアシストしてくれたので、どうにかデートを実現することができた。和希としては蓮二に感謝してもし切れない想いである。

 映画館は駅と併設されているので、和希と真美はまっすぐ映画館へ向かって歩き出した。



「映画、見に行くんだったよね?」


「うん。なんかね、オススメの映画があるんだって。蓮二が教えてくれた」


「なんだろう?」


「『夕日に叫ぶ恋』って名前の。……なんか青臭いけど、評判はすごく良いらしくって」



 和希が蓮二にデートの話をした日の夕方、蓮二からメッセージが届いていた。



 ——『夕日に叫ぶ恋』って映画がマジオススメ!! 二週間くらい前に公開されたばっかだっていうのにスッゲー人気だし、なんか告白したくなる映画だって話題だぜ!!



 最初、和希はその蓮二のメッセージに尋常じゃない胡散臭さを感じていたのだが、実際に調べてみるとネットの評判は大変良かった。SNSのトレンドワードに『夕恋』という略称がランクインするほどである。

 何より、公開されてからまだ日が浅いことが魅力的であった。五月八日に公開されたばかり。真美の趣味は映画鑑賞だというので、公開時期の長い映画だと真美が見てしまう懸念がある。その点、この映画は公開時期も評判も申し分ない。

 はずだったのだが。



「……あ、夕恋、かぁ」


「もしかして、こういうのあまり好きじゃない?」


「ううん。すごく好き。……実は、これ、公開初日に詩音と観ちゃったんだよね」



 絶望の音が聞こえた。

 思わず膝から崩れ落ちそうになる和希であったが、なんとか踏みとどまる。申し訳なさそうに笑う真美の可愛い顔を見て、和希は「それじゃ仕方ないね」と精一杯笑って答えた。

 それにしても、公開初日といえば五月八日である。和希は過去を思い返して、詩音から「話がある」とのメッセージをもらったのが五月八日の夜のことであったことを思い出した。


 ——ああ、そうか、だから詩音のやつ……!



 五月八日に映画を見たのだとすれば、それは完全に、恋愛映画に感化されて好きな人に想いを伝えたいという気持ちが高まったということだろう。愚直だ。和希自身も似たような手を使おうとしていたので、人ごとではないのだが。



「じゃあ蓮二には悪いけど、この映画は別の機会にしよう。他の映画もいっぱいやっているし」



 ちょうど映画館に到着して、和希と真美は上映予定表を眺めた。幸い、映画はたくさん上映されている。空席もたくさんあるようで、観たい映画を見る分には困らなさそうである。

 『夕日に叫ぶ恋』に負けず劣らず、甘すぎるくらいの恋愛映画も多くある。「蓮二からオススメされた」という建前がなくなった以上、和希の方から積極的に恋愛映画を推すことはできなかったが、それとなく「あの辺が今話題の映画だって」と恋愛映画のタイトル付近を指さした。

 しかし、真美はどこか違う方をじっと見つめている。



「私、あれが観たいかも」



 消極的で、遠慮がち。自分から「私はこれがしたい」と言うことが全然ない真美から要望があったので、和希は驚きながらも真美が指さす方を見た。

 そこにあったのは、動物のドキュメンタリー映画だ。タイトルに『静岡カピバラ珍道中 -カピバラと過ごす何もない時間-』と書いてある。



 ——何が面白いんだ、これ?!



 和希の心の中での問いかけに答えてくれる者は誰もいない。真美に聞くこともできない。

 できれば別の映画が良い、という気持ちを表には一ミリも出さないで「可愛いね、カピパラ。見てみたいな」と和希は無難な返答をしたのだが、真美は「違うよ」と和希の発言を否定した。



「和希くん、よく見て。カピパラじゃなくて、カピバラ」


「カピ、バラ」


「そう、カピバラ。触ったことある? 実はね、カピバラって犬みたいなふわふわした毛じゃなくて、たわしみたいな刺さりそうなくらい尖った毛なんだよ。静岡にはね、カピバラに触らせてもらえる動物園があってね」


「へ、へぇ……」



 和希には動物への関心がない。カピバラがどうこうではなく、犬も猫も好きではない。嫌いでもない。ただ関心がない。

 しかしこれも真美を喜ばせるためだと、和希は腹を括って映画館に入っていった。

 切符を買ってスクリーン室に入ると、映画館特有の空気感が鼻と肌で感じられる。予想通りほとんど人がいない。カピバラより先に閑古鳥が鳴いている。「動物のドキュメンタリー映画を映画館で観る人がいるのだろうか」と和希は今まで疑問を抱いていたのだが、それがこのような形で解消することになってしまった。



---



 想像以上の苦痛が和希を待っていた。なんとか二時間半の上映を終えて、和希と真美は映画館から出てきた。頭が痛くなってくるような気がして、和希は真美に見えないようにこめかみを押さえた。

 その映画にはストーリー性というものが全くなかった。二十分間、お日様の下で寝ているカピバラの映像が映し出される。まるで静止画のように画面に変化が訪れないので、和希は「アハ体験か?」と疑って見ていたが、本当に何も起きない。そういう退屈な時間が何回か繰り返されるだけで終わったので、動物に興味がない和希にとっては苦痛でしかない。

 しかし真美の方は上機嫌であった。「また観たいな」と言うので、和希は「そうだね」と心のこもらない返事をした。カピバラが好きな人たちにとっては、あの、本当に何も起こらない時間が良いらしい。和希にはわからない世界である。カピバラを眺めるだけで良いならせめて動物園に行けばいいのに、とは言えないでいる。

 もう時刻は昼過ぎに差しかかろうとしていたので、昼食をとろうということで二人は喫茶店に向かった。



「和希くん、この喫茶店に来たことがあるの?」


「ああ、うん。コーヒーを飲んだことくらいなら」



 あの五月九日に一度だけ訪れた喫茶店だ。

 まさか次に訪れるときは真美と二人きりになるだなんて、想像もしていなかった。和希にとって愛する女性はただ一人だが、そうは言ってもあの日の詩音の屈託のない笑顔を思い出すと、胸を傷めずにはいられない。

 そのことを知らない真美は無邪気に喫茶店へと入っていった。和希もそのあとに続き、二人ともクラブハウスサンドを注文する。



「それにしても、可愛かったねぇカピバラ! カピバラが温泉に浸かって泳ぎながらさ、お湯に浮かんでいる柚子を鼻で突くの。良いよねぇ、私も一緒に泳ぎたいなぁ」



 温泉は泳ぐところではないじゃないか、という野暮なツッコミを和希はしなかった。とりあえず和希にわかるのは、「真美がカピバラの何をそんなに気に入っているのかわからない」という事実だけである。こういうときは、相手の世界を揺するようなことをしてはいけない。

 そのようなことを考えながら和希がコーヒーの香りを嗅いでいると、真美がくすっと微笑んだ。



「和希くん、カピバラに似てるよね」


「……いや、まさか」


「似てるよ。ちょっとおっとりしたところ。見てて落ち着くところ」


「癒されるって意味なら嬉しいけど、俺……ほら、カピバラほどはのんびりしてないって」


「そうかなぁ? ……あ。でも、カピバラはああ見えても時速五十キロで走ることができるよ。速いでしょ」



 そんな馬鹿なと思いながらも、和希はそれを否定できるほど動物の知見を持ち合わせていない。真美がそういうならそうなんだろう、と納得した。



「で、で、和希くんはさ。どのシーンが一番好きだった?」



 真美のキラキラ輝く瞳が眩しい。早い時間から二人で映画を見て、喫茶店で映画の感想を語り合う。『夕恋』とやらを馬鹿にできないほど、ありきたりな甘いデートの風景だ。映画が和希にとってあまりにも興味がない内容だったのは誤算であったが、この甘いひと時を壊さないように和希は真美の期待に応えてみせた。



「シーンというか、耳が可愛いよね」


「耳? あ、もしかしてカピバラが耳をパタタタタってするところ?」


「それもだけど。温泉で泳ぐときにね、耳をこう、閉じていたから。人間と違うんだなーって思った」


「えー! そうだったの? 見ておけばよかったぁ」



 それほどカピバラが好きなら、動物園に行けばいいのに。

 映画を見終えた直後と同じ感想を抱いたところで、和希はハッとした。動物に関心がないから今まで思いつきもしなかったことである。

 クラブハウスサンドに丁寧にかじりつく真美の姿を見ながら、和希は自分が今から言おうとしている台詞を一度心の中で反芻すると、まるで今なんとなく思いついたかのように真美に声をかけた。



「今度、動物園に行こうよ。静岡にあるって言ってたよね、カピバラに触れられる動物園」


「本当? 行きたい!」



 食いついた。いつも和希が見たいと思っている真美の笑顔が、目の前にある。

 なるほど、これが自然なデートの誘い方なのかと和希は一つレベルアップしたような感触を得た。自分で自分の言葉に感動を覚えながら、和希はクラブハウスサンドにセットでついているポテトを口に運んだ。

 が、次に真美が口にした言葉を聞いて、その手が止まる。



「前に詩音と行ったんだけどね、もうすっごく可愛くて! また行きたいなーって思っていたの」



 詩音。

 できれば、この明るい雰囲気である今はその名前を出さないようにしたかった。真美も少し硬くなる和希の表情を見て、自分が名前を言ったその人物がもうこの世にいないという現実を思い出してしまったようで、表情に少し陰りが見える。

 少しの間、沈黙が続く。その沈黙を無理に破ったのは真美の方であった。



「……そう、去年の七月頃だったかな。二人で行ったんだよね。とても楽しかったなぁ」


「良いじゃん。羨ましい」


「うん、そうだね。……本当はね、あのとき和希くんのことも誘おうとしてたんだよ、私」


「そうなの?」


「詩音がさー、なんか恥ずかしがっちゃったの。詩音ってばさ、すっごく人見知り激しかったから。……あれ? でも詩音って、たまに和希くんと二人で話していることあったよね?」


「ああ、うん。相談に乗ることはあったよ。将来のこととか、進路のこととか」


「だよね。じゃあなんで三人で行こうとしなかったんだろ」



 そう言って真美が黙って考え込む。

 すると、次第に真美の顔は青くなっていった。何か気づいてしまってはいけないことに気づいてしまったような顔だ。

 なんとなく真美の考えがわかりつつも、和希は真美の方から話し出すのを待った。



「え、もしかして詩音……和希くんのこと、好きだった? 詩音ってば恥ずかしがり屋だし、でも和希くんとは仲良かったし、だから三人で行こうとしなかったんじゃ……!」


「いや、違う。それはない」


「……本当?」


「俺、詩音から恋愛相談を受けていたから、詩音が誰を好きだったか知ってるんだ。詩音の名誉に関わるから、誰を好きだったのかは言えないけど」


「あ……そうなんだ。なるほど。……ふふっ」



 一度は暗くなった表情であるが、今はまた、普段の明るい表情に戻っている。「詩音が好きな相手は和希ではない」ということを聞いて、安心したように「そっか、そっかぁ。良かったぁ」と心の底から嬉しそうな顔をしている。

 真美は友達想いで優しい人だ。いや、正確には誰が相手でも想いやりを持って接することができる、心の温かい人である。それは和希が真美に初めてあったあの日から、ずっと変わっていない。

 和希が真美に惚れたきっかけは、真美の優しさに触れたことだった。

 忘れもしない、高校入試の日。

 和希は蓮二と「絶対一緒の高校に行こうな!」と約束を交わして、お互いに入試会場の教室へ入っていった。和希の入った教室は特に緊迫した雰囲気に包まれていて、やたら分厚い本を読んでいる者、ずっと鉛筆を削っている者、これ見よがしに携帯ゲームをしている者。どいつもこいつも自分勝手で、自分のことばかりで必死になっている。その見苦しい光景に辟易しながらも、「そりゃそうか」とどこか納得した気持ちになって席についた。

 和希も余裕なフリをして周りから一歩リードしたいと考えていたが、その策は何も思いつかなかった。自分の学力に対して偏差値が低めの高校を選んだが、それでも落ちてしまったらどうしようという動揺を隠せない。想像以上に緊張してしまって、和希は自分が消しゴムを落としたことに気づいていなかったのである。

 そこへ現れたのが、真美だった。



 ——落としましたよ、消しゴム。



 温かい声、優しい声。この世に女神や聖母がいるのであればこのような包容感のある声をしているのだろう。そう思うほどに、心を落ち着かせる声。

 声の方を振り向くと、右の手のひらに消しゴムを置いて、和希の方へ差し出してくる真美がいた。声と同じ、優しい笑顔。自分のことで必死な人たちと違って、このような時でも周りに気を配ることができる、優しい人。

 親の愛情をまともに受けてこなかった和希にとって、それはあまりにも衝撃的で、心地の良いできことであった。初めて人の愛情に触れたような、離れがたい気持ちになる。真美はただ、人として当然の行いをしたとしか思っていないだろう。それでも、その愛情を前に和希は願わざるを得なかった。



 ——この人と愛し合いたい。



 家から近いからという理由だけで蓮二と選んだ桔梗高校であったが、この瞬間、和希の桔梗高校への志望動機が変わった。

 まだ名前の知らないこの人と同じ高校に行きたい。

 生まれて初めて生きがいを見つけて、その願いを持ったまま、今日この日も生きている。

 和希が過去のことに思い巡らせていると、真美が「どうしたの?」と問いかけていた。和希が自覚しているよりも長い時間ボーッとしていたようで、和希は「いや、なんでもないよ」と答えてクラブハウスサンドを口に運んだ。

 真美が入試の日のことを覚えているかどうか、まだ確認したことがない。「そうだっけ?」と言われるのが怖いからである。

 しかし、確認できなくてもよかった。今のような幸せな時間が続くのなら、和希はこれ以上欲しいものなんてないのだから。

 二人はそのまま喫茶店で長居をして夕方頃に解散したのであった。またこうやって遊ぼうね、と約束をして——。



---



「ああ、もう。何も見つからないじゃない」



 誰もいない二年A組の教室で一人。

 苛立ちを覚えながら、そこにいる人物——キョウはガリガリと頭を掻いた。今日は土曜日。部活動はあっても授業はないので、こうして誰もいない教室に入ることができる。わざわざ夕方の塾を休んで、キョウは学校へやってきていた。

 具体的に何か目当てのものがあるわけではない。それでも何か気になるものがあれば——悪魔崇拝事件に関わるような何かが見つかればそれでいい。そう思いながら、人の机の中やロッカーの中を漁っていく。

 最初に探したのは、被害者、詩音が使っていたはずのロッカー。しかしロッカーは空っぽで、詩音の席はキョウ自身が使っている。もはや「この教室に詩音がいた」という痕跡すらない。

 それから、左前の生徒の席から順に他の生徒の物も漁る。誰かに見られたらなんと言い訳したらいいのかわからないが、「どうせ自分はこのクラスの不気味な存在だからなんと言われようと」と開き直っていた。

 しかし……本当に何も見つからない。誰も彼も机の中にあるものは教科書とノートのみ。中には漫画やいやらしい写真を持っている者もいたが、キョウにとってはどうでもいい。誰が漫画を持っていたかという情報など、なんの役にも立たない。

 半分以上調べたあたりで、諦めの気持ちが生まれていた。転校してきた初日に荷物検査があったので、仮にこの組に悪魔崇拝事件と密接な関係がある者がいても、証拠になるようなものは学校に置いてなどいないだろう。

 ただ、それでもキョウは全員の荷物を調べずにはいられなかった。万が一にも、何かあれば。そうすれば。

 くじけそうになる心を奮いたたせ、キョウは最後の席の椅子に手をかけた。

 そのとき。



「それはちょっと、悪趣味が過ぎるよね」



 すぐ後ろから声がして驚いて振り返る。

 そこにいたのは和希であった。

 普段は人畜無害で平穏無事といったような佇まいをしている人物であるが、今は違う。教室の扉に背を預け、鋭い目つきでキョウの方を見ている。怒っているのかどうかはキョウにはわからないが、ただじっとキョウを睨みつけている。今日は私服姿だからということもあるが、一瞬誰かわからなかったほどにいつもと違う雰囲気をしている。

 驚きを隠し、平静を装ってキョウは和希に問いかけた。



「……いつからいたの」


「さっき。ちょうど、友達と別れて帰る途中だったんだけど。なんか、学校に入っていく三日月さんの姿が気になってついてきた」


「だったら最初から見てたんじゃないの。悪趣味だと思うなら止めなさいよ」



 今日はここまでかと、キョウは諦めて帰ろうと荷物を手にとった。

 月曜からなんと言われるだろうか。和希は大人しそうな男であるが、和希と一緒にいる人物がムードメーカー的存在であることを思い出して、キョウは一つため息をついた。和希がその人物にこのことを話せばきっとクラス中にキョウの噂が広がるだろう。

 ダメもとで口封じしようかと考えて顔を上げたところで、キョウは気づいた。和希の表情がいつものように穏やかなものになっている。



「俺さ」



 帰ろうとするキョウの行く道を阻むよう立って、和希がキョウに問いかけた。廊下から差し込む陽の光が和希の背中を照らして逆光になっている。穏やかな表情ながら底の見えない雰囲気を纏う和希を見上げながら、キョウはゴクリと喉を鳴らす。



「三日月さんに聞きたいことがあったんだ」


「さっき見たこと、黙っていてくれるなら答えてもいいわ」


「もとより言いふらす気なんてないよ」



 そう言って和希が笑う。笑っているのだが、何か油断できないものを目の奥に飼っている。キョウは警戒心を強めながら、和希に「何が聞きたいの」と問いかけた。



「三日月さん、本当は悪魔崇拝のことなんでこれっぽっちも信じてないんじゃない?」


「……どうしてそう思うの?」


「すごく勉強熱心で真面目そうな性格と、悪魔崇拝を信じる姿勢が似合ってないなぁと思ったから。悪魔崇拝のことを信じているというのが演技だと考えた方が自然だよね。それと残りは、んー、勘かな」



 勘、というのが嘘だということはキョウにもわかったが、キョウはそれを追求しなかった。

 キョウのしばらくの沈黙が、和希の言ったことへ肯定になっている。

 しばらく、キョウが和希のことを見つめていると、和希が「意地悪してごめんね」と笑って道を空けた。そのまま帰っても良かったのだが、キョウは思うところがあって和希に問いかけた。



「ごめんなさい。あなたの名前は……」


「宇治原 和希。出席番号一番だから、教室の一番左前の席」



 その名前を聞いて、キョウは目を見開いた。

 こうやって人の荷物を漁っておきながら、キョウはある可能性を全く追っていなかったのである。自分の不甲斐なさを感じて、キョウは大きくため息をついた。



「……そっか。そうだったか。ねえ、宇治原くん。あなたに渡したいものがあるから、待っていてくれる?」



 そう言って、キョウは自分の荷物を漁り始めた。一体何が渡されるのか、もしや、見てはいけないようなものでも出てくるのではないかと和希は身構えていたが、キョウはノートの端を切って何かを書き始めた。それを書き終えると、キョウはノートの切れ端を和希に差し出した。



「これは?」


「あなたにこそ必要な情報かと思ったの。……私は行けないけど。話が分かる優しい人だって聞いてるし、きっと、あなたが求めている情報を教えてくれると思うから。特別に、あなただけには教えておこうと」



 そのノートの切れ端には、一人の個人名と住所が書いてある。ここからそう遠くないが、電車を使わないと行けないような場所である。

 ノートの切れ端を食い入るように見つめる和希を見ながら、キョウが口を開いた。



「生き残りの人がいるわ」


「……え?」


「十年前の悪魔崇拝事件。そのときに、『火』の逆五芒星のカードを所持していた、悪魔崇拝事件の生き残りの人が住んでいるわよ」



 キョウが「どの雑誌も報じていない極秘情報だから漏らさないでね」と言ったが、その言葉は和希に届いていなかった。突然、衝撃的な情報を渡されて、和希は言葉を失っている。

 しばらく理解が追いつかずに混乱していた和希であったが、次第に事態を飲み込むと、改めてキョウの顔を見た。

 キョウの言動とキョウが渡した物を思い返して、和希は察したのである。キョウがなんのためにここにいて、何を思って和希にこの情報を渡したのか。

 そのキョウの想いに応えるように、和希は屈託のない笑顔を浮かべて言った。



「ありがとう。行ってみることにするよ」


「うん。……あの! 宇治原くん!」



 急に大きな声が出てしまって、キョウは顔を赤らめた。和希の方も少し驚いた顔をしているが、すぐに「どうしたの?」と笑ってみせる。優しい笑顔だ。その笑顔を見てキョウは、先日自分と他の生徒の喧嘩を止めた女子生徒の笑顔を思い出した。

 キョウから話しかけたものの、キョウは上手く言葉が出てこなかった。

 その様子を見て和希はキョウの想いを汲み取って、安心させるように笑ってみせた。



「大丈夫。俺は平気だし、慰めはいらないよ。……ありがとうね、三日月さん」



 笑顔なのに。

 そう言って教室から出て行く和希の背中を、キョウは見つめることしかできなかった。

 和希のその笑顔が優しくて、温かくて、だからこそ切なくて。その笑顔の下にいったいどれだけの想いを背負っているのかキョウには想像もできなくて。

 キョウは誰もいない教室で一人、瞳からこぼれ落ちる涙の止め方がわからずにいた。



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