第四話 星を捜して
五月十九日、水曜日。
和希は朝から嫌な予感がしていた。……いや、正確にはその前日の昼からである。
後ろの席に座っている蓮二の様子がいつもと違う。口数が少なく、それでいて異様ににやにやと笑っている。和希にはわかっている、こういうとき蓮二は何かを待っている。そこそこの特ダネを和希が持っていることを確信していて、それでいて和希の方から餌を持ち出してくるのを待っているのである。
——いっそのこと、聞いてくれたらいいのに。
蓮二の方から聞かないのは、蓮二なりの友情だか仁義だかの証なのだろうか。蓮二の真意なんて和希にはわからなかったが、その視線に耐えられなくなって、やはりいつものように和希の方から口を開くことになった。
今は一時限目と二時限目の間の休憩時間。もし面倒な話になってしまっても、この休憩時間はそれほど長くないのですぐに会話を終えられるだろうという算段でもある。
「あのさ、蓮二」
「なーにー?」
「昨日、ちょっと、真美と話をしてきたんだけど」
蓮二が小さく口笛を吹く。口角がふにゃふにゃに上がって、人はこんな表情もできるものなのかと和希は逆に感心した。
和希が真美に恋心を抱いていることは誰にも内緒にしているのだが、唯一、蓮二にだけは正直な気持ちを伝えていた。蓮二に話すことは本意ではなかったのであるが、蓮二は口止めをしておかないとあることないこと話してしまう傾向にある。「俺、真美に『和希は詩音にメロメロ』って言っちゃおうっかなぁ」なんて言われた日には、白状せざるを得なかった。
あの日から、何か進展がある度にこうして情報を共有する事態になっている。
とはいえ口止めさえすれば黙っていてくれるという部分に関しては信頼しており、困ったときは相談に乗ってくれる心強い存在でもあった。
「で、なんの話をしたわけ?」
蓮二に聞かれて、和希は真美に話したことを説明した。
キョウの話について、A組やこの高校にカードを持った人物がいるかもしれないことについて、そして自分がカードの持ち主を見つけると決めたことについて。……ちょっと良い雰囲気にもなった、ということはもちろん伏せたままで。
「なるほどね。いいんじゃないの。……なんかもっと甘々な話はしてないのかよ。『俺がこの事件の真犯人を暴いてみせる!』とか、『君のことは命に代えても守ってみせるよ』とかさぁ」
「言うかよ」
「言えよ」
「言えるかよ」
蓮二がケラケラ笑うのを見て、和希はなんとなく気に食わないような気持ちになった。昨日の昼は「別の人と用事がある」と言って外に出たわけだが、この好奇心の塊の蓮二がそれを信じて教室で大人しくしていたとは思えない。本当は全部見ていたんじゃないのか、と問い詰めたくなるが、その話を掘り下げたところで和希にとって都合の悪い話が出てくる未来しか見えなかった。
「しかし、そういうことだったらさ。俺だって他人事だと思っちゃいねぇし、警察だって頼りにならないだろ。協力するぜ!」
「ありがとう。と言ってもさ、実はどうしたらいいかはわかってなくて」
「そうだよなぁ。わからねぇ以上、俺たちみたいな素人は当たって砕けるしかないんじゃないの」
「当たって砕けるって、どこへ」
「なんか様子がおかしい奴によ。まず、なんか今週ずっと機嫌が悪そうな美優だろ。それに今日も保健室で寝てるっていう鉄平。あと、なんか情報持ってそうな転校生のキョウちゃんのところにも行かないと」
蓮二の提案に、和希は「なるほど」と相槌を打った。少なくとも一度話を聞いてみるだけの価値はありそうである。
そろそろチャイムが鳴る時間なので、和希が「昼休みになったら聞きに行こう」と言って前を向く。いつもふざけてばかりいるが、相談すると真面目に答えを考えてくれる友人の存在に和希が喜びを感じていると、不意に、蓮二が背後からポツリと呟いた。
「なぁ、和希。……真美は?」
「……え?」
「カードを持ってそうな奴だよ。なんかさ、真美もちょっとおかしいんじゃねぇのか。もしかしたら、真美がカードを……」
核心を突かれたような気持ちになる。
和希は心臓の鼓動が少しずつ早くなってくるのを感じながら、あくまで冷静に答えた。
「持っていようと、持っていなかろうと、俺の行動は変わらないよ。真美は人殺しなんてしないから。当たり前だろ」
「……そうか。そういう考えもあるか。わかった」
心臓の音は、チャイムにかき消されて聞こえない。授業開始の号令の中で、和希は蓮二の言葉を反芻した。
——もしかしたら、真美がカードを……か。そうだね。多分だけど、真美はカードを……。
その予想について、和希が蓮二に伝えることはなかった。
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昼休み、和希と蓮二は最初に美優に話を聞くことにした。
美優はいつも中庭からも少し離れた場所で弁当を食べている。プライドが高く、一緒に弁当を食べるほど仲の良い友人もいないため、こうしてあまり人目につかないところで昼休みを過ごしているのである。
美優は和希が近づいてきていることに気づくとアイドルを応援するファンのごとく「和希く〜ん!」手を振ったが、その横に蓮二がいることに気づくと露骨に嫌そうな表情をした。
「……越智もいるのかよ」
「おう悪いかコラ」
蓮二と美優は仲が良くない。と言っても、美優が一方的に蓮二を嫌っていて、蓮二が美優の悪態に反抗しているような状態である。蓮二の方は本気で美優を嫌っているわけではないので、比較的平和な、清々しさすら感じる仲の悪さであった。
問題は、和希と美優の関係にある。
「ねぇねぇ、和希くん! お弁当のおかず、分け合いっこしない?」
「俺、今日はメロンパンなんだけど」
「えーっ、でもパンだけだと栄養偏っちゃうよ?? 私の卵焼きあげるから、しっかり食べないと!」
美優は、和希に惚れている。心酔していると言い換えても良い。
何がきっかけでこんなにも惚れられることになってしまったのか、和希自身は知らない。
それもそのはず。単に和希の容姿と性格が美優のド・ストライクゾーンであったというだけの話なので、和希は知りようがないのである。
二年生で同じクラスになったときからこの関係は続いている。最初は蓮二も面白おかしく茶化していたのだが、今となってはどちらかと言うと和希に同情する立場になっている。
ただ単に美優が和希に心酔しているだけであれば良いのだが、問題はもう一つある。
美優はあまりにも嫉妬深く、一年生の頃から和希と仲の良い詩音や真美のことを心の底から憎んでいるのである。和希としても、美優の詩音や真美への態度には困っていた。
美優がお弁当のおかずを押し付けてくることに和希が困惑していると、見かねた蓮二が助け船を出した。
「なぁ美優。その卵焼き旨そうだし、俺にくれよ」
「はぁ?! あんたにあげるわけないでしょ? 栄養バランスを考えるならそこに生えてる草でも食ってなさいよ!」
「お、それ本気で言ってんのか? 本気で言ってんなら今から草引き千切ってお前に毒味でもさせてやるがどうなんだ??」
「なに本気にしているのよ! 馬鹿なの?! もうちょっと頭使って文脈ってものを考えなさいよ!」
二人が喧嘩を始めてあまりにも騒がしいが、とにかく和希が美優の手作り弁当を食べさせられることは回避できた。こうして見ていると、蓮二には美優を上手く扱う才能があるのではないかと和希は思ってしまうわけだが、ややこしくなりそうなので和希はその話に触れないことにした。
その喧嘩の勢いのまま、蓮二は無遠慮に美優に言葉を投げかけた。
「俺らは別に、美優と健康的な食事を楽しみに来たわけじゃないんだわ。聞きたいことがあるわけ」
「何? それならさっさと聞けばいいでしょ」
「五月九日の夜、何してた?」
あまりにも、ストレートすぎる。
和希も美優も、しばらくその質問の真意が掴めず、美優は思わず「家にいたけど……」というごく普通の返答をしてしまった。
「家にいたってことは、家族といたんだ」
「まぁね。いつも家に帰ってこないくせに、たまに帰ってきたと思ったら『勉強しなさい』って怒鳴り散らかすからリビングで勉強を……って、その質問なに?! 私に詩音殺害の時間帯のアリバイがあるかどうか知りたいってわけ? 私はあの日帰ってからずっと家にいたし、事件とは何っの関係もないから!」
「いやいやいや、別にアリバイを聞こうってわけじゃ」
「嘘つくならもっとまともな嘘つきなさいよ! このオレンジ野郎!!」
二人のやりとりを見ながら、しばらく和希はポカンとしていた。
確かに、美優と何の話をするか事前に蓮二と打ち合わせいていたわけではないのだが、まさか事件当夜のことをいきなり聞くとは和希も想定していなかった。和希としては、ただ単に「カードを持っているか」を探るだけのつもりだったのであるが、これでは「詩音を殺したか」の追求である。一応、家族とはいえアリバイを確認できたのは一歩進歩ではあるが、美優の逆鱗に触れてしまったという代償は大きい。
和希が呆然として見つめる中、怒りに燃える美優がそのまま蓮二に問い詰めた。
「だったら、そういうあんたは? 家族と家でぬくぬくと過ごしていたってわけ??」
あっ、と。和希は思ったが、既に遅かった。
美優の質問に、蓮二はいつもの飄々とした態度で答えた。
「俺、家族いねーんだわ」
「……え? なんで?」
「両親は二人とも死んだからいない。中学に進学するまでは親戚の家にいて、中学からは一人暮らししてんの。えらいだろ」
蓮二はあっけらかんとした態度で答えたが、美優の表情は曇っていた。頰に一筋の汗が伝って、その様子が美優の性格をよく表している。
「……無神経なことを聞いてごめん。そんなつもりじゃなかったの」
「気にすんなって。珍しい話でもねーよ」
そう言う蓮二に、美優がもう一度謝る。その様子を見て蓮二が「じゃあ詫びに卵焼きくれよ」と美優の弁当箱から卵焼きを一つ盗み出したので、また喧嘩が始まった。中庭から離れた場所だというのにこんなにも騒がしい。その騒がしさにある種の平和さを感じながら、和希は物思いに耽ってメロンパンを齧った。
蓮二が両親を失っていることを和希は知っていた。蓮二もまた、和希にも両親がいないことを知っている。
両親がいない同士の幼馴染。だからこそ二人が育んできた友情は確かなものであったし、二人は家族以上に同じ時間を過ごしてきた。お互いがお互いに、お互いのことを知っている。その心地良さがあるからこそ、今でも仲の良い友達でいられている。
ただし、一つだけ。ずっと昔からお互いに隠していることがある。
正確には、周りの大人たちがその話題に触れないようにしてきたからこそ、話す機会を失われてきたことである。
——なぜ、両親がいないのか。
いつか話す日が来るのだろうか。美優とやりあって楽しそうに笑う蓮二を横目に、和希は物思いに耽るのであった。
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結局、美優から有益な情報が得られることもなく昼休憩の半分以上の時間を使うことになってしまった。
和希たちが美優から離れて教室に戻ろうとすると美優はすごく寂しそうな表情をしていたが、和希に「夜は絶対に一人で出歩かないで、家の鍵はしっかり閉めてね」と声をかけられると昇天しそうなくらいに上機嫌になっていた。その様子を見て、改めて蓮二が和希に「大変だな」と励ましの言葉を送る。
教室に戻る途中、和希が独り言のように呟いた。
「でも、美優はカードを持っていないような感じだったね」
「あーそれは俺も思ったな。ピリピリしてんなーとは思うけど、ああやって話すといつも通りだもんな。正直、詩音を殺しそうな奴って聞いて一番最初に思いつくのは美優だったんだけど」
「わからなくはないけど。さすがに、そこまで詩音と仲が悪かったわけじゃないでしょ」
「どうだかな。それに、美優の場合は疑心暗鬼で暴走しそうなところがあるから、カードを持っていたら一番厄介なんだよ」
そればかりは全く否定できないので、和希は黙って二年A組の教室の扉を開けた。
次は鉄平の話を聞こうという話になったのだが、教室に鉄平はいないようである。その代わり、大輔が怪訝な顔をしながら黙々とコンビニ弁当を食べる姿が視界に入った。大輔なら何か知っているかもしれない、とのことで蓮二が大輔に声をかける。
「なぁ大輔。鉄平ってまだ保健室?」
「いや、もう帰ったよ。体調が悪いから帰るんだとさ」
「あー、そっかぁ。……ってか、大輔、なんか怒ってる?」
大輔は見た目こそチャラい雰囲気を醸し出しているが、とても大人しい性格である。しかし、今は右足で何度も床を突いていて、どうも虫の居所がよくなさそうである。
同じ中学校出身の生徒たちの噂によれば、大輔はいざ喧嘩を始めると相手を病院送りにするレベルで暴れるらしいが、和希も蓮二も、大輔のその姿は見たことがなかった。
蓮二の問いかけに、大輔は渋々といった様子で答えた。
「怒ってねぇ……こともない」
「鉄平のことか?」
「そうだよ。あいつ今日も帰ったけど、別に風邪ひいたとか腹壊したとかじゃなさそうなんだよな」
それは和希も蓮二も知らない事実である。特に蓮二は食い気味に「そうなのか?」と疑問を投げかけた。
「なんか、俺に隠し事してるみたいでさ。何悩んでるんだって聞いたら、すっげぇキレやがんの」
「それはなんていうか、確かに、変な感じするな」
「だろ? ……まさかとは思うけど。あいつ、詩音が殺された件に何か首突っ込んでんじゃないだろうな」
和希と蓮二は顔を見合わせたが、大輔に返事はできなかった。鉄平が事件に関与しているかどうかはわからないが、ただ、何も関与していないとするならば様子がおかしい。
とは言え、大輔も何も知らない様子であるので、蓮二が「何かわかったり相談事があったらいつでも言ってくれよ」とだけ言って大輔の席を離れた。
最後に話したい相手は、なぜかこの時期に転校してきたキョウ。キョウの席に目をやると、すでに昼食は終えたようで次の授業の教科書を読み進めている。行動にやや不気味さを感じるものの、美しい姿勢と文字を追う瞳には人の心を奪いそうなほどの妖艶さがある。
その瞳の奥に一体どのような秘密を隠しているのか、和希も蓮二も聞かずにはいられない。しかし。
「キョウちゃんに話しかけるの、緊張するな」
誰が相手でも上手く話すことのできる蓮二であるが、キョウと話すには勇気が必要である。
せめて教室からは遠ざけようと、和希と蓮二は人通りの少ない技術室前にキョウを呼び連れて行った。技術室前の周りには誰もおらず、遠くから聞こえる生徒の声が廊下に反響している。同じ室内のはずだが、この場所の方が教室よりも肌寒く感じられる。
何の用かも話さずに教室から連れ出してしまったので、キョウの警戒心はこれまでにないほどに高まっている。さすがに蓮二にばかり頼るのは悪い気がして、今度は和希から話題を持ちかけた。
「三日月さん……ってさ、普段は何して過ごしているの?」
「ナンパ?」
「……いやいやいや、そんなんじゃないよ。ただ——」
「冗談だから」
それは冗談には聞こえなかったのだが。和希もキョウもそれぞれ顔が凍りついたままであるが、蓮二だけは少し笑っていた。
キョウがそのまま話を続ける。
「人に話すようなことは特にしてないのよ。学校に行って、塾に行って。家に帰ったら、母の手伝いをして、勉強する。趣味なんてないわ。勉強することが趣味みたいなもの」
「勉強熱心なんだ。勉強、好きとか?」
「好きっていうか……」
と言って、キョウが和希たちから目を逸らす。何もないところを睨むようにして、少し力のこもった声で答えた。
「ジョウジャクになりたくないのよ」
「ジョウジャク?」
「情報弱者。情報について弱者であること。今ってインターネットが普及しているから、積極的に情報を仕入れていく必要があるじゃない。それで、手に入れた情報を正しく扱えるように、正しく判断できるようになるために、ちゃんと勉強するようにしているの。……デマに踊らされたり、気を病んだりするのが怖いのよ。ただ、それだけの話」
キョウの話を聞いて、和希は「へえ」と声を漏らした。単純な受け答えとしての反応ではなく、心から「考えてるんだ」と感心した上での声である。義務教育が終わったから高校に入学して、高校に入学したから勉強しているだけの和希には持ち合わせていない観点を、キョウは持ち合わせている。
——三日月さん、こうやって話す分には普通の人なんだけどな。
悪魔崇拝の話がなければ普通の女子生徒に変わりない。
そもそも悪魔崇拝の話さえなければ、和希も蓮二もキョウの中に潜む異常性に触れることはなかっただろう。一体何が彼女をそうさせているのか、二人には想像がつかない。
普通に話をしてくれるキョウに少し心を許したようで、蓮二が話を始めた。
「塾ってさ、毎日行ってんの? 土日は?」
「毎日よ。いつも二十二時まで塾の自習室で勉強していて、土日も……ああ、そうね。あの日もそうだった」
「あの日?」
「決まってるでしょ、五月九日よ。大方、それが聞きたかったんじゃないの」
キョウの言葉に、蓮二が苦い笑顔を浮かべながら「話が早いねぇ」と手を叩いてみせた。美優のように怒り出すのではという不安があったが、意外なことに、キョウはいたって平然としている。
「土日はいつも、母が迎えにきてくれるのよ。塾の自習室にも先生がいるから、私はあの日、朝からずっと誰かのそばにいたことになるわね。どう? 私と母の共謀を疑われたら何も言えないけど、アリバイにはなってるんじゃないの」
「まぁそうだけど……キョウちゃん、こんなこと聞かれて怒らないんだな。気分悪くない? 疑われているみたいで」
「いえ。変な時期に転校してきたのは私だもの。疑われるのも無理ないから」
毅然とした態度で応対する。やはり、話ができる人だと和希は感じた。それと同時に、なおさらどうしてこの時期に引っ越してきたのか、悪魔崇拝のことにあのような反応を示すのかが気になってしまう。
和希が悪魔崇拝のことについて尋ねようとしたところで、キョウが先手を打つかのように言った。
「あなたたちはカードを持っていないの?」
その言葉がキョウの方から出てくるのは意外であったが。和希も蓮二も「持っていない」と答えた。
「ふうん。でもまぁ、気をつけたら」
和希が「何を?」と聞くと、キョウが「そろそろ教室に戻らないと」と二人に声をかけてから話を続けた。
「カードを持っている人はおそらく、自分がカードを持っていることを隠しているわ。自分の命が狙われないようにね。虎視眈々と、他のカードの持ち主を捜すのでしょうね。だから、カードの持ち主を殺そうと狙っている人が『カードを持っているかもしれない』という理由だけで無関係の人を殺す可能性も否定できないでしょう」
「……確かに。でもキョウちゃんさ、自分は持ってないから殺される理由がないって言ってたじゃんか」
「持っていないのは本当だけど、理由がないだなんて嘘。カードを持っていないからって殺されない保証なんてない。だから、あなたたちも気をつけなさいと言ってるの」
そう言って手をひらひらと振る。そのキョウの横顔を見ながら、和希はようやくキョウの本質的な部分に触れることができたような気がした。この時期に転校してきた理由だけははっきりとわからないが、二面性を見せるキョウの本当の人格だけは捉えられたような確信を得る。
さらに和希がキョウに話しかけようとしたが、キョウが「もう授業が始まるから、入るわよ」と先に教室へと入っていった。和希と蓮二も、「とりあえず放課後に話そう」と目配せだけして教室に入っていった。
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帰路につきながら、和希と蓮二は今後について話し合っていた。二人は部活動も何もやっていないので、高校生と言っても帰る時間は遅くない。まだ日の落ちていない晴れ空の下、人通りの少ない歩道橋の上で立ち止まる。車が通る音がうるさくて会話には向かないが、あまり人に聞かれたくない話をする場所として実は良い場所であった。
もっと堂々と学校で話をしたいところではあるが、キョウの「カードを持っていなくても気をつけろ」という言葉が刺さって、人に聞かれないように控えめに話すことにしたのである。
オレンジジュースの紙パックにストローを突き刺し、蓮二はジュースを思いっきり吸ってから話を始めた。
「美優もキョウちゃんも、なんだかんだでカードは持ってなさそうだ。やっぱ、気になるのは鉄平だな。あいつの家……にわざわざ押しかけるのも微妙だし、どうすっかな」
「こればかりは気長に待つしかないよ。鉄平も変な行動を起こしているってわけではないし。それに、あまりにも不審だったら警察が動くと思う。あれだけA組をマークしてるんだから」
今日も、あの大柄な刑事が職員室を出入りしているのを多くの生徒が見かけていた。教室にまで押しかけて来ないのは、富士宮先生の努力の賜物であろう。刑事がいるからと言って「安全だ」と思う生徒は誰もおらず、むしろほとんどの生徒が恐怖心を抱いている。その刑事が何の役に立つのかは甚だ疑問であるが、せめて鉄平に不審な点があったら動けるだけの人であってほしいと、和希はやや投げやりな願望を抱いていた。
「まぁでも、和希の言う通りだな。二日様子見てみるか。他にもカードを持っていそうな奴がいるかもしれないし、鉄平とは話すタイミングがあれば話そう。でさ、ちょっと土曜に作戦会議でもしない?」
「あっ、いや、土曜日は……」
思わず不自然に口ごもってしまって、和希は「しまった」と思った。もう遅い。こういうことには尚更敏感な蓮二が、またあのふにゃふにゃの笑みを浮かべている。
「そうか、真美とデートか」
「まだ誘ったわけじゃないけど。こんなときだからさ、気分転換に映画とかいいかなって」
「わかってるわかってる。カードの持ち主探しも、元を言えば真美のためにやってんだ。その真美と仲良く楽しく過したいってことなら、そっちを優先するのは当然だろう? あー、真美ってば良い男に好かれてんねぇ」
露骨に茶化してくる。蓮二がこうやって上機嫌に和希をいじるのは、全然進展のない和希と真美にじれったさを感じていたというのもあるだろうが、やはりこういう明るい話題が最近はあまりにも少ないからだろう。そのことが和希にも何となくわかっていたので、蓮二の言動を無下にすることはできなかった。
今このワンシーンは、とてもとても平和な時間だ。
ずっとこのような時間が、永遠に続けばいいのに。和希も、そして蓮二も、はしゃぐ心の中でそう願わずにはいられなかった。
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「良いご身分だなぁ、和希ってば」
家に帰ってもしばらく蓮二の興奮は冷めなかった。勢いに任せてベッドにダイブする。ずっと進展のなかった親友の恋が、ほんの少しずつ前に進み始めている。そのことが自分のことのように嬉しいのである。
蓮二には自信があった。この恋は上手くいく。
なぜなら、明らかに真美も和希に惚れていると予想できるからである。
お節介心が働いて、蓮二は過去に真美のことを少し調べていた。中学生時代に彼氏はおらず、恋愛経験はなし。部活動は家庭科部に所属していて、そこには女子生徒しかいない。A組で仲の良い男子と言えば和希と蓮二。真美が和希を差し置いて蓮二に惚れることはないだろう、という感触を蓮二は得ていた。
つまり、真美と恋愛する余地がある人物は和希しかいない。それに、真美と和希が話すときの表情を見れば脈ありだと充分にわかる。失敗する要素がないのである。
窓から夕日が差し込んでくる。赤い赤い太陽が、ベッドで横わる蓮二を照らしている。
——夕日、綺麗だな。……そういえば、良い映画あるじゃん!
ばっと起き上がると、蓮二は本棚に置いてあるスマートフォンを手に取った。今人気沸騰中の、評判の良い映画の存在を思い出したのである。それを自分の親友に伝えない奴がいるだろうか。明日の学校で伝えても良いのだが、今すぐ伝えたくなるのが蓮二の性格である。
良いことをしたときの、この昂揚感。これは気持ちよく眠りにつけそうだ、と、まだ日も沈みきっていない時間だというのに、蓮二はもう寝てしまおうとスマートフォンを本棚の元の位置に戻した。
……その時、目を奪われてしまった。
その場所にいつもある、現実を思い出す目印に。
——悪魔崇拝事件 資料
自分の本棚に、ずっと昔から置かれているそのクリアファイル。
あの忌々しい事件を忘れないように。心に刻むように。まだまともに漢字も書けなかったあの日からずっと記録してきたものが、本棚に今も置かれている。
昂揚感が消えていく。
妙に冷たく。
悲しく。
しかしそれが現実だということを、そのクリアファイルが蓮二に知らせてくる。
そうしたのは蓮二だ。何があっても忘れないように。
逃げないように。
逃げられないように。
自分の背中に深い傷痕を残すように。
こうやって目のつくところにクリアファイルを置いたのは、蓮二自身の行動だ。
「……っはは。親友のため、か。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい! 何がだよ!! 俺は! ただ……ただ、俺のために!!」
蓮二は力任せに、クリアファイルが置かれている本棚を殴った。
こんな勢いで殴ってしまっては、音が響いて隣の部屋に迷惑がかかるだろうか。暴走する心と相反して、自分の理性が自分を律してくる。
叫びたくなる衝動に駆られる。でもダメだ、叫んではいけない。
理性まで失ってはいけない。
細い糸を扱うように、慎重に、丁寧に、理性だけは大事に守らなければならない。
親友のことが心から大切であるならば。
自分の想いに、本当に嘘がないならば。
顔を前へ向けると、蓮二の瞳に夕日が差しかかった。赤い赤い太陽が、蓮二の瞳を狂気的に燃やしている。
その蓮二の、苦痛に歪む顔を見るものは誰もいない。身のうちに秘めた熱い想いを知るものは誰もいない。
誰もいない。
唸るような声を聞く者も、この部屋には、誰もいないのである。