第三話 守りたいもののために
「一体、どういうつもり?」
翌日、五月十八日、火曜日。事件は朝から始まった。
和希が教室に入ると、十数名ほどの人の集まりができていた。その中心にいるのは『トラブルメーカー』と呼ばれる女子生徒、美優。その小柄な身体からは想像できないほどの気の強さを持っていることで学年中に知れ渡っている人物である。
その美優が、昨日転校してきたばかりのキョウの席の前に立ち、キョウを問い詰めている。
「どういうつもり、とは?」
「とぼけないで。なんでこんな時期に転校してきたのかって聞いてるの!」
野次馬は廊下にも集まり始めていた。死人が出ているあの二年A組から金切り声が聞こえてしまったら、興味と心配が入り混じった複雑な感情が芽生えてしまうのも無理はない。和希は野次馬に巻き込まれないように、姿勢を低くしながら早足で自分の席へと向かった。蓮二は既に自分の席に座っており、手にイヤホンを持ったまま喧嘩の渦中を凝視している。
喧嘩はさらに勢いを増している。美優の怒鳴り声に、キョウが昨日と同じく冷静かつ挑発的な声で答える。
「……悪い? 私には教育を受ける権利があるの。そこに学校があるんだったら、転校するのも勉強するのも私の勝手でしょ」
「この学校は普通の状況じゃないのよ?! わざわざこんな時に転校して来る人なんて不気味でしょうがないじゃない。ねぇ、みんなもそう思うよね?!」
美優に同意を求められて、野次馬は複雑な表情を見せる。美優と同じような感情を抱いている者は確かに存在するが、同時に、この喧嘩に巻き込まれたくないという気持ちもある。
一方で、渦中にいるキョウは周りの生徒に目もくれず一時限目の準備を始めている。
「殺人事件があったのは気の毒ね。でも悪いけど、私はそんな神経質になる必要がないの」
「はぁ? 何言ってんの?」
「だってそうでしょう。これは十年前と同じ、悪魔崇拝の過程に決まっている。察するに、今年も十年前と同じように『悪魔』と契約しようとしている人が他の四人を殺そうとしているのよ。だから、私は関係ないわ。私はカードを持っていないんだもの。殺す理由も殺される理由もないわね」
「そ、そんなの……!」
「それとも何? もしかしてあなた、逆五芒星のカードを持っているの?」
キョウの一言で、全員の視線が美優に向く。
視線は単に、美優が話題にあがったから美優に向いただけのことだろう。しかし、その無慈悲に突き刺さる視線にただならぬ恐ろしさを感じた美優は、滝のように汗をかきながら「違う! 違うわよ!!」と悲鳴をあげるように叫んだ。
一方で、和希はキョウが机の下に隠した左手が少し震えていることに気づいた。緊張しているように見受けられるが、当の本人の口は止まることを知らない。
「とにかく、忠告しておくわ。カードを持っているのだとしても、この悪魔崇拝には関わるんじゃないわよ」
そう言って、キョウが美優の右手首を掴む。美優が咄嗟にその手から逃げようとしたが、その細腕には似つかわしくないほどの力が右手首をぎりぎりと握りしめた。
あまりの痛みに美優がうめき声をあげる。そのことにまるで関心がないような素ぶりで、キョウは美優に顔を近づけて話を続けた。
「いい? 悪魔はね、本当に、い・る・の、よ。でも勘違いしないで。悪魔はね、我々人間には手に負えない、偉大な存在なの。カードには『最後の一人になったら圧倒的な力を手に入れる』みたいに書いてあるらしいけど、あれね、嘘だから。悪魔と契約した人間の末路なんて、残酷なものよ。幸せになんてなれるはずないわ! だからね、自分が悪魔と契約しようだなんて——」
「それ以上はやめて!!」
不意に。美優の手首を掴むキョウの腕をさらに掴む者が現れた。
そこにいたのは真美だ。ずっと右隣の席で喧嘩を見守っていた真美であるが、とうとう耐えられなくなって席を立ったのである。
瞳に溢れそうなほどの涙をため、震える声で訴える。涙ながらの必死の形相に、キョウも驚いて思わず手の力を緩めた。その隙をついて美優が手の拘束から逃れる。手首は実際に赤くなっているが、大袈裟なくらいに痛がりながらキョウと真美の両方を睨みつける。
「美優ちゃん」
「……何、真美。文句でもあるわけ?」
「三日月さんは転校してきたばかりなんだよ。優しく歓迎しようよ。きっと、わからないこととか不慣れなこととかいっぱいで、困ることもあるはずなんだから」
至極真っ当な意見であるが、美優は親族の仇を見るかのような目で真美を見ていた。そこにはただならぬ憎しみがある。単に、喧嘩を仲裁されたから怒っているわけではないような、今にも掴みかかって殺しそうなほどの形相をしている。
しかしそれを気に留めず、真美はキョウの方にも真剣な眼差しを向けた。
「三日月さん。……事情は人それぞれあります。だから、私たちが三日月さんの事情に土足で踏み込んだりしたらいけないって思います。でも、ごめんなさい。私たち、今ちょっと余裕がないんです。神経質にだってなるんです。わかってもらえませんか」
真美の言葉を聞いてキョウは何か考え込んでいるようであったが、しばらくするとキョウは伏し目がちに「そうね、ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。元々、何を考えているかわからないような言動を繰り返すキョウに困惑していた一同であったが、キョウの素直な謝罪を聞いて「話せばわかる人かもしれない」という希望を抱いた。真美も、緊張の糸が切れたようにふにゃっとした笑顔を見せている。
「いい奴だよな、真美」
蓮二がイヤホンを胸ポケットに入れながら和希に話しかけてきた。「本当にね」と返事をしながら、和希はまるで自分自身が褒められたような気分になって心臓の高鳴りを感じている。
こうやって、真美が喧嘩の仲裁をすることは珍しくない。
この組では『トラブルメーカー』である美優が何かと他の生徒と喧嘩をすることが多い。また、殺害された詩音も思ったことをなんでも喋ってしまうような性格であるため、美優と詩音の喧嘩は日常の光景の一つと化していた。しかし、詩音は真美の言うことであれば素直に従うことが多かった。そのため、美優と詩音の喧嘩を止めるのはいつしか真美の役目であるかのような空気になってしまったのである。
「こうして、美優とキョウちゃんの仲裁も真美がやっていくことになるんかね」
「キョウちゃん……ああ、三日月さんのことか。いや、そうならないといいんだけど」
と、和希が言いかけたところで、二人は近づいてくる人物に名前を呼ばれたことに気づいた。
声の主は大輔だ。鉄平と幼馴染で、よく鉄平とペアになって行動している人物である。校則に引っかかるのでは、と心配になるくらいにワックスでバッチリと髪型を決めて、今日も絵に描いたようなチャラさを前面に押し出している。
しかし、どこか表情が明るくない。蓮二が「どうした?」と言うと、大輔が小さな声で話し始めた。
「鉄平見なかった?」
「いや、見てないけど。和希は?」
「ううん、俺も見かけていない。まだ学校に来ていないんじゃ」
和希がそう言うと、大輔は首を横に振った。
「俺、今日は鉄平と登校してきたんだよ。で、教室に着いたらあの騒ぎじゃん。しばらく見てたらさ、気づいたら鉄平がいなくなっちゃってよ」
「んー、じゃあトイレは?」
「確認したけどいなかったんだ。また保健室に行ったかな……。ちょっと、保健室覗いてくるわ」
そう言うと大輔は教室から出て行った。その様子を見守りながら、蓮二が眉を潜めてぽつりと呟いた。
「昨日も様子がおかしかったもんな、鉄平の奴」
普段であれば、「何か変なものでも食ったんじゃないか」という蓮二の一言で次の話題に移るものであるが、今回はそのような雰囲気で済ませていいものかわからない。いつも適当な事ばかり言っている蓮二も思うところが多くあるようで、何を言ったものか迷っている様子である。
言葉に迷った挙句、蓮二は「和希、何か知ってるか?」と問いかけてきた。和希が知るはずもないのだが。
「いや、何も。……殺人事件が怖いのかも」
「そりゃまぁそうか。鉄平ってさ、詩音と接点あったっけ?」
「ないよ。ちょっと仲が悪いくらいじゃないかな」
「だよなー。心配だし、次に顔見たらちょっと声かけてみるか」
蓮二の提案に、和希も首を縦に振った。
和希と鉄平も折り合いが悪いが、これほどに弱っている鉄平のことを気遣ってやらないほどの仲ではない。何か力になれることくらいはあるかもしれないと、和希と蓮二はなるべく鉄平の力になろうと決心をした。
しかし、予鈴が鳴る直前に戻ったのは大輔のみで、予鈴が鳴っても鉄平が教室に戻って来ることはなかった。
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時は過ぎ、昼休み。
桔梗高校には食堂があるのだが、味が薄い、具材が固い、さらには値段が高いということで非常に評判が悪い。フライドポテトを目玉商品として売り出しているが、全然火が通っていないために「学園祭の出し物の方が数倍美味い」とまで言われている。
そのため、ほとんどの生徒が弁当や近くのコンビニで購入したものを持参している。幸い、中庭には大きな円を描くように設置されたベンチと色とりどりの花壇があり、さらに程よく日光を遮るような大木が多く生えているため、ここに来ると気持ちよく食事ができる。
「ここにいたんだ、真美」
他の大勢の生徒たちと同じように、ベンチに腰掛けて弁当を開ける真美。そこへ和希がコンビニ袋を携えてやってきた。偶然にも真美を見つけたかのような顔をして、真美に手を振る。
かつて、真美は詩音と教室で昼休憩を過ごすことが多かったのだが、今はもう詩音がいない。昨日も今日も真美が昼休みに教室にいなかったので、和希が「今日は他の奴と約束があるから」と蓮二に嘘をついて教室を抜け出してきたのである。
真美は心ここに在らずといった表情を浮かべていたが、和希が手を振っていることに気づくと晴れ渡るように表情が明るくなった。
「和希くん! 今日は和希くんも外で食べるの?」
「うん、たまには。外でご飯を食べられるのなんて、今の時期くらいだからね」
嘘をつく。本当は真美の様子が気になっていて、昨日からずっと話す機会を伺っていたのだが。「真美が心配で来たんだよ」と言えるほどの勇気がまだ和希にはない。
和希はコンビニの袋から卵のサンドイッチを取り出すと、少しずつ口に運び始めた。
「ありがとね、真美」
「なんのこと?」
「三日月さんと美優の喧嘩を止めてくれた。大ごとにならずに済んで助かったよ」
「そんなの、全然……」
そう言って、真美は遠くにある桜の木を眺めた。春は綺麗な薄いピンクに染まってとても美しい景色を彩るのだが、今はもう桜の花は散って、活き活きとした緑の姿になっている。太陽の光を跳ね返すその姿もまた自然の生命の力を感じられる美しいものであるが、春の面影が少しもない姿には少し寂しさも感じられる。
真美は弁当に入っているミニトマトのヘタを取りながら、小さく「でもね」と呟いた。
「三日月さんの言ってること、気になるんだ」
「……逆五芒星のカードのこと?」
「うん。十年前と同じように、カードを持っている人同士が殺し合いをしているって。それが本当ならまた誰かが死んでしまう。……私はね、悪魔なんて信じていないよ。どうでもいい。でも……」
真美の手の甲に一粒の涙が落ちる。
喧嘩の仲裁ができるほどに勇気のある手が、箸を掴んだまま小さく震えている。
「カードを持った人がA組にいるのかなって、A組の誰かが詩音を殺したのかなって、考えちゃって、私、三日月さんの言葉を聞くのが怖くなっちゃって、だから……」
しぼんで消えゆく声。その真美の心に寄り添うように、和希はそっと真美の手の甲に自身の手を添えた。
真美は最初こそ驚いたように和希の方を見ていたが、次第にその手の温もりに心地よさを感じはじめ、震えも治っていった。和希は腕っ節が強い方でも、身体が大きい方でもない。頼もしさを感じるような外見をしているわけではないのだが、それでも真美は自分より大きな手を持つその存在に安らぎを覚えていた。
いつも、いつも。初めて出会ったときから、優しくしてくれる和希の存在が嬉しい。その真美の感情が手を通じて和希に伝わるようで、逆に和希が恥ずかしくなって早口で話しだした。
「誰がカードを持っているかはわからない。十年前の事件だって、どのようにしてカードが被害者の元に渡ったのかはわからないって記事に書いてあった。……それに、詩音を殺したのは顔見知りなんじゃないかって、俺は思ってる」
誰もが一度は考える可能性ではあるのだが、それを面と向かって言われてしまって、真美は絶望を隠しきれない表情をしている。真美に申し訳ない気持ちになりつつも、和希は話を続けた。
「詩音がカードを持っていること、そして詩音があの道を通ること。その両方を知ることができるような人が、顔見知りじゃない可能性って低いと思うんだ。詩音がカードを持っていた理由はわからないけど、やっぱりA組や……この高校の人がカードを持っていると考える方が自然になってしまう」
「そうしたら……」
「だから、俺が探してみる」
和希を見る真美の目が驚きを隠せないでいる。何度も瞬きをしていて、和希の言ったことが理解できていない様子である。
「さ、さがす?」
「A組に、カードを持つ人がいるかどうか。もし、カードを持っている人がA組にいるとしたら、先に見つけて話し合えば事件を未然に防げるかもしれない。いなければ……それもそれで安心できるだろうしさ」
「でも……和希くん、危ないよ! もし本当に詩音を殺した人がいたとしたら。和希くんの身に何かあったら、私……」
「大丈夫。三日月さんの言う通りだとすれば、俺は安全なはずだ。俺はカードを持ってないから。それに……クラスメイトが殺害されたんだ。俺だって人ごとじゃない」
真美はまだ不安そうな顔をしている。今はこうして和希の隣に座っているが、いつ何の拍子で真美の精神が砕けてしまうかわからない。そう和希が思うほど真美の表情は儚さを感じるものであった。
できることなら、抱きしめたい。
そして真美に「俺が守るから」と言いたい。
それができないのは、まだ和希の中に恐怖があるからであった。この恋心が否定されることが怖い。以前よりは積極的な行動ができるようになってきたので、もう和希の気持ちは真美にバレているのかもしれない。それでも和希は恐怖に打ち勝つことができず、「できることなら真美の方から自分を求めてほしい」という弱さゆえの汚い願望を捨てきれずにいた。
だから、今は。
「……ありがとう、和希くん。本当に、すごく頼もしい。和希くんがいてくれて、良かった」
今は、この言葉だけでいい。
人の前では強く振る舞って人の見ていないところで泣いている強い彼女が、自分の前でだけはどうか、弱いところを見せてくれたら。それで彼女の心が休まれば。今はまだ、これでいい。
和希は心からそう思えたのであった。
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放課後。蓮二は用事があるからと言って先に帰ってしまったので、和希は一人で考えことをしながら家に帰ってきた。
真美に「俺がカードを持つ人がいるかどうか捜す」と言ったものの、何から始めたらいいかわからず、とりあえず家に帰って考えを整理することにしたのである。
和希は鞄から鍵を取り出して、取り付けの悪いアパートの部屋の扉を開けた。
「ただいま」
その声は部屋の中で響くだけ。
和希以外には誰もいないこの部屋。和希以外は誰も帰ってくることがないこの部屋であるが、帰ったら「ただいま」と言うことはずっと続いている和希の習慣であった。いつか誰かと住むようになったときまで、「ただいま」の言葉を忘れないように。和希が抱いているささやかな夢の現れである。
勉強机の前に腰掛ける。机の上は綺麗に整頓されている。正面の壁には、昨年の春に社会科見学で撮影した写真が貼られている。和希、蓮二、詩音、そして真美。昨年も四人は同じクラスだったので、同じ班になって行動していた。和希の楽しい思い出だ。
この頃はまだそこまで仲良くなかった。それでも和希は真美と一緒の班になりたかったので、まずは詩音とお近づきになって、それからこの四人の班を作ったのである。蓮二に関してはまだ詩音とも真美とも面識がなかったので、和希のわがままで作らされた班のメンバー構成に困惑していたものである。
写真の真美の笑顔を見ていると、昼休みの真美との時間が思い出される。
真美は……少しずつ、真美自身を和希に見せてくれている。そのような実感が和希にはある。優等生で、強くて、少し心の弱いところもある真美が、自分にだけ見せてくれる顔がある。
社会科見学の頃は「宇治原くん」と呼んでくれるだけで喜んでいた和希だ。一年後には真美が「和希くんがいてくれて、良かった」と言ってくれるようになるなんて、誰が想像できただろう。
——和希がいてくれて、良かった、本当に、良かった……!
そうだ、和希にはかつて想像もできなかった。人が変わるということを。
——和希、お願いよ! ずっとそばにいて、離れないで、私を見捨てないで!!
今となっては遠い記憶である。遠いけど、鮮明に思い出される記憶。
和希にはかつて、母がいた。
両親が離婚し、最初は父の方に引き取られた。しかし、ある日父が行方不明になったことにより、まだ言葉をまともに覚えていないほどに幼かった和希は母の方に引き取られることとなった。母は和希に全く関心を示さなかった。まるで和希を空気のように扱った。俗に言う、ネグレクトというものである。
その母がある日を境に、何度も、何度も、何度も和希の名前を呼ぶようになったのである。
——愛してる、愛してるわ、和希。ねえ、和希、和希!
——お願いよ!! 助けて、和希!!
心からの叫びだった。その言葉は、その光景は、今でも昨日のことのように思い出せる。
しかし、母の願いは叶わなかった。数日後、母は遺体となって発見されるのである。
それから、十年。
和希は親戚に最低限の施しを受けながら今日まで生きてきた。
母の死の真相については、今もなお解明されていない。
「……とりあえず、まずは」
一つ、深呼吸をして。
和希はノートパソコンを開くと、『悪魔崇拝事件』について調べ始めるのであった。