第一話 最後の五月九日の記憶①
「珍しいじゃん。俺に折り入って話があるって」
五月九日、日曜日。午前十時。天気は少し曇り。普段は入らないようなおしゃれな喫茶店で、桔梗高校二年A組の生徒である少年、宇治原 和希は椅子に腰掛けた。普段出入りしているような牛丼屋の椅子とは全然違う、座るとわずかに弾むような座り心地。少し高級感のあるその店の雰囲気に飲まれそうになっていると、目の前のクラスメイトの女子、宮本 詩音は静かに笑った。
「こういう店に来るのは慣れてないんだ。和希は」
「全然。……えっと、ナントカカントカフラペチーノみたいなのを頼めばいいんだっけ」
「違うから。そういう店じゃないし。っていうか、もう二人分のコーヒー頼んだから。座ってなよ」
そう言って、詩音は笑いながら髪を耳にかけた。耳にかけたと言っても、髪が短いためほとんどが耳から逃れて落ちていく。和希が金曜日に学校で会ったときは胸元くらいまで髪を伸ばしていたはずなので、まだ切ったばかりの髪型というわけだ。髪をいじるその仕草が少しわざとらしく感じたので、和希はありきたりな挨拶をすることにした。
「髪、切ったんだ」
「うん。金曜の学校帰りに。ちょっと、心機一転って感じで」
「失恋でもした?」
「無神経なこと聞かないでくれる?」
詩音は怪訝な顔をして、今の髪型が最近の流行りであることを説明してみせた。少し赤みがかかった色を入れて、毛先を少し巻いている。前髪は眉が隠れる程度の長さを保って滑らかに横に流れている。……髪に色を入れるのは校則違反なのでは? とも思った和希であったが、詩音がそのようなことを気にするはずがないので触れないでいた。
ひとしきり今の髪型の説明をしておきながら、詩音は少しだけ寂しそうな声で呟いた。
「失恋するとしたら……これからだし」
「そうなの?」
「うん。ってか、和希の方はどうなの。好きな人がいるのはわかってるんだから。進展はあったの?」
和希は話題を逸らしたい気持ちになって、ウェイトレスがコーヒーを持ってくるのを待つ素ぶりをしてみせた。その気持ちは詩音に完全に見透かされており、詩音がいたずら顔で「当ててやろっか」と言い出したので、慌てて「やめてよ」と止めた。
詩音が本気で探りを入れに来たら、和希の想い人が誰なのか当てられてしまう。
なぜなら、和希は桔梗高校の入試の日からずっと、詩音の親友である渡瀬 真美に恋をしているのである。
下衆な話であるが、和希が詩音と仲良くなった理由は、真美と接触をする上で詩音がいると都合が良かったからである。幸い、まだ和希の真美への想いは詩音にバレていないようだが、いつバレるかわかったものではない。探りを入れられるわけにはいかない。
しかし、あまりにも詩音が面白そうに和希の方を見てくるので、和希も意地悪なことをしてやりたい気持ちになった。
「なんでそんなに、俺の好きな人が気になるのさ」
「ん。……なんでって」
「詩音、俺のこと好きなの?」
正直なところ、それは冗談で聞いたわけではなかった。
和希はいつも「真美と二人でデートをしたい」という高校二年生らしい欲望を抱いていたのだが、何かとその企ては失敗する傾向にあった。大抵、詩音が真美との約束を先に取り付けているのである。それに、今日もこうして詩音は和希と二人きりの時間を過ごしている。詩音が他の男子生徒と仲良くしているところはあまり見ないし、詩音が和希のことを狙っている可能性を考えるには十分の根拠があった。
しかし。
「いや、別に。ごめん」
恥ずかしがるでも照れるでもなく、明らかに本気のトーンで断られて、なぜか和希はフラれたような気持ちになった。和希も詩音に恋愛感情を抱いていないのに。
ようやく届いたホットのコーヒーを吐息で冷ましながら、和希はコーヒーカップに口付けた。詩音はコーヒーカップにも、砂糖にもミルクにも触れようとしない。
「ふーんそっか。じゃあ、俺はなんで呼び出されたの?」
「相談があって。私、告白したい相手がいるの」
和希がコーヒーを口に含んでいないことが幸いであった。思いもしなかった言葉が出てきたので、もしコーヒーを飲んでいれば和希は盛大にむせていただろう。
——詩音が? 俺以外の、誰に??
混乱する頭を抱えて、和希は自分が持ち合わせている情報を整理した。
詩音が和希以外の男と仲睦まじく過ごしているところを、和希は見たことがない。……見たことがないが、詩音のような性格であれば「好きだからこそ素直に仲良くできない」という可能性も否定できない。それに、和希は詩音が通っている塾の交友関係までは把握していないので「和希が知らない相手だからこそ友達の和希に相談する」という手段を選んだ可能性もある。
だがしかし、「友達として相談する」という観点であれば、より適切な人物がいる。
「いいよ、相談には乗るけど。真美には相談しないの?」
「真美には……ちょっと。というか、和希にこそ相談したいことだから」
お互いにそれ以上は何も言わなかった。和希は改めてコーヒーを口に運ぶと、詩音が話し出すのを待ちながら真美のことを考えていた。
今、目の前にいる詩音の様子もちょっとおかしいが、様子がおかしいといえば真美の様子もおかしいのである。
真美といえば桔梗高校二年生の中でトップクラスの優等生。いつも朝の予鈴が鳴る十五分前ぴったりに登校して、授業で居眠りをしたことなど一度もなく、成績は学年でもトップクラス。宿題ももちろん忘れない。桔梗高校はどちらかと言うとだらしない生徒の方が多いので、先生の中には「皆さんも渡瀬さんのように学生らしく由緒正しく」と言い出す人までいるのである。
その絵に描いたような優等生の真美が、最近はよくボーッとしている。話しかけても、返事がワンテンポ遅れることが多い。授業でも、指名されたときに慌てて教科書を開いていることがある。放課後になると教室の窓からグラウンドを走る陸上部の練習を眺めていることがある。「陸上部の中に好きな人がいるのか?」と疑って和希は陸上部員の名簿を調べたが、真美と接点がありそうな人物は見つからなかった。そもそも、見ていたものが陸上部の練習とも限らないのだが。
——何か困ったことがなければいいんだけど。
と、和希が考えている間も詩音が黙ったままでいるので、和希の方から話を始めた。
「俺にこそ相談したいって言うけどさ。告白したい相手って、俺の知っている人?」
「知っている人」
再びの沈黙。人の足音とほのかに聞こえるジャズの中で、和希の頭の中は大騒ぎを起こしていた。
誰なのか全くわからない。全くわからないと、逆に誰でもあり得るような気がしてくる。さっき自分がフられたばかりであるが、もしかしたらあれが嘘で、本当はここで告白されるのではないかという考えすら湧いてくる。それくらい、わからないのである。
それでもなんとか、ああだこうだ言いたくなる気持ちを和希が抑え込んでいた甲斐があって、詩音はようやく口を開いた。
「私さ、実は——」
---
同日、午前十一時。外は雲が減って良い天気になってきている。
詩音は話したいことを全て話し悩みを解決することができたようで、今日一番の笑顔を見せている。普段からこういう顔をしていれば、もう少し色んな人と友達になれただろうにと、和希はその横顔を見ながらお節介を焼きたくなるような気持ちになっていた。
喫茶店を出て、和希は駐輪場に停めていた自転車にまたがった。
詩音はこれから塾に向かうという。参考書や筆記用具などが色々入った鞄を肩から下げて、詩音は和希に軽く頭を下げた。
「ありがと、和希。和希に相談して良かった。私、心の整理がついたよ」
「それは良かった。もし失恋したら、もう一回この喫茶店に行こう」
「それはちょっと……。ふふっ、いや、ありがと。失恋したらって言わずにまた行こうよ。良い店だったでしょ」
「まぁね。俺も、一つ世界を知ったって感じ」
最後に詩音がもう一度頭を下げて、今度は大きく手を振って、踵を返した。どこか軽やかな足取りだ。詩音自身が言っていたように、心の整理がついたことがよくわかる様子をしている。和希はその背中が見えなくなるまで見送ってから、反対方向へ進むべく力一杯ペダルを踏んだ。
空は澄み切ったよように晴れている。太陽が眩しい。これからのことが順風満帆に進むことを暗示しているかのようである。
そう、空はこんなにも綺麗な、五月九日だったのだ。
——失恋したらって言わずにまた行こうよ。良い店だったでしょ。
現実は残酷だ。この約束が果たされる日は一生来ない。
同日の晩、桔梗町の公園で詩音の死体が発見されたのである。