Prologue 悪魔との出会い
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
空は焼けつくように赤い。いつも聞こえる鳥の鳴き声や喧騒は聞こえない。鉄のような臭いが鼻について、息をするのも苦しくなる。目眩がする。吐き気がする。息を吸うたびに後頭部が割れるように痛い。その中で、跪きながらもどうにか前を向いている自分がいる。
場所は古びたアパートの廊下。床には赤茶けた跡があったはずだが、もう見えない。どろりとした液体が床を侵食していおり、やがてはその液体が波となって自分に襲いかかってきそうである。その血みどろの中で、二人の死骸が横たわっている。一人は知らない女の人。そして、もう一人は——。
「終わりましたね」
耳に残る、粘り気のある声。二人の死骸を踏み越えて、そいつは自分の元へとやって来る。夕日が逆光になって顔は見えないが、葬式に参列するかのように真っ黒なスーツと、顔が隠れそうなほどに長い髪と、骨が浮き出たような長い鼻。そして、顔を裂くように左右へ伸びた口から、この場所に似つかわしくないほどに白い犬歯が覗いている。見上げることしかできない自分には、そいつがあまりにも大きな存在に見えた。
「……終わった?」
「ええ。これでカードを持つ者が最後の一人になりました。殺戮は終わりです」
「どうなるの? これから」
「最後の一人と悪魔が契約するのです。お忘れですか?」
その言葉を聞いて、自分は足元に転がる黒いカードを見た。白い二重丸の中に、一筆で書いたような白い逆五芒星の印。さらにその星の中には「土」の白文字が刻まれている。そのカードを手に取り、表面についた血を綺麗に拭うように指でつるりとなぞると、そいつがクスッと笑い声を漏らした。耳障りな声だ。皮の手袋をした手で口を覆っているが、その笑みが指の隙間からこぼれ落ちている。
そいつが、一歩近づいて来る。すぐに自分は逃げようとしたのだが、腰が抜けてしまって動けないことに初めて気づいた。このままそいつに殺されるのか。恐怖と、一種の諦めのような想いを抱いてそいつを睨み付けると、目の前に手が差し出された。
「帰りましょう」
「……」
「この人たちとはこれでお別れです。私の言うことを聞いた良い子のあなたは、もう家に帰る時間。……いいですね?」
どうしてだろうか。その手に優しさを感じてしまった。我が子を迎えに来たような優しさを。父を亡くしてしまった自分にとっては、愛おしさすら感じる優しさを。
そいつは悪魔だ。みんな、みんな、そいつのせいで死んでしまった。
悪魔だ。そう、悪魔だ。そいつこそが、まごうことなき悪魔なのに!!
それでも自分は、ただこの場から立ち去りたくて。全てを忘れてしまいたくて。家に帰ってベッドで寝て、また目が覚めたら「夢だったんだね」と腑抜けた声で笑ってみせたくて。
そして、悪魔の手をとって。
立ち上がったその日から、自分に悪魔が住み着いたのであった。
忘れてしまいたかった十年前のあの日のことを。今でも、ずっと、ずっと覚えている。