ハヤチ
ハヤチが生まれたとき、すでに親は消えていた。疾走したのではなく、文字通り物理的に消滅していたのだ。ハヤチは谷間に生まれた。兄弟はいなかったが、成長するにつれて連れ合いは増え、あるいは消えもした。気が合えば瞬時に合流し、一分もしないうちに消え去るものも珍しくない。勢いをなくし地面に果てるもの、建造物に激突し粉々になるもの、深い森に分け入り行方不明になるものもいる。しかし、多くは彼自身に飲み込まれた。
ハヤチに家はない。生まれ持った強靭な生命力で所かまわず動き回り、一か所にとどまることを知らなかった。気が向けば海を目指し、沖をゆく船の舳先をかすめ、波を荒立て、海鳥を翻し、それらの遊びに飽きると、また陸へと舞い戻る。自由奔放に振る舞っているようだが、ハヤチは、熱や気圧に翻弄される透明な存在だった。
ハヤチは水面の上である。ヒューという微かな音を立て、小さな渦が空中に浮き出た。その音と気配に気づいたのは、川床にいたヤマメだけである。頭上に殺気を感じたかと思うと、木の葉状のバーマークを揺らめかし、川下へと一瞬で向きを変えた。川底の砂礫が舞い上がり、濁った水の中に黄色い尾鰭が吸い込まれていく。
水が落ち着きを取り戻した頃、ハヤチはその触手を伸ばして岸辺の羊歯類を撫で回し、かさかさと音を奏でた。この渓谷は緑が深い。水辺から左右へと急角度でせり上がっている緑の崖は、まるで地球にできたワギナのようだ。崖の上部には靄がかかり、緑を背景にかろうじてそのゆっくりした動きが確認できる。水面はアクリルの艶を帯びて静止し、かえって人工的な印象を与える。
静かだ。
ハヤチは謎のような静けさに満足していた。動きを与えるものがないことに満足していた。地球に初めて生まれた生命らしきものは、自分の先祖であることを確信していた。やがてすべての生物の息の根が止まったとき、最期を見届けるのも、ハヤチの子孫であることは決まっている。この世は風で始まり、風で終わる。これほど気分のよいことはない。
いくつもの山を越え、平野部に出たあと、ひなびたローカル線に沿って遊んでいたとき、ハヤチは奇妙な空気を感じた。人という生き物のエーテル体が、そこここに充満している。人間たちは動かない。汚泥の中にうつぶせになる者、烏が小突くテンポにあわせピクピクと体を震わせる亡骸、クルマの中で溺れ死んだのか、ぶくぶくに太った緑色のコラーゲン。奇妙なエネルギーが行き場を失い留まっている。
ハヤチは強い力で一掃する。悪臭とエーテル体を。しかし、自らの体の異変にも気づいた。二百種類以上の微量元素が混濁している。ハヤチは怒りに震え、トリチウム、セシウム137、ストロンチウム90、ヨウ素131……一切合財をはらむと南南西に方向を変えた。神として君臨する自分の領域を犯したやつに、数十年、数百年の先まで思い知らせてやると。
事故から三日後のことだった。




