第九七羽 時計の電池編
2年D組の教室の前に着いたタンチョウは調達した脚立を壁に立て掛けて中の様子を窺っているヤマセミに合図した。
彼は手ぶりで教室の中が依然変わりない事を教えてくれた。
タンチョウは扉の間から中の生徒たちの様子を窺った。彼ら彼女らは一様に机にかじりつくように身を入れて化学の小テストの対策をしていた。
扉をかたりと音を立てて動かしても一人として顔を上げなかった。タンチョウが通れるほどドアを開いた。
そして彼は意を決して中へと入って行った。
黒板の中心の真上にある円形の時計は電池の切れた様子などなかった。しっかりと歩みを進めていた。2本の針はたった60歩で一周してしまう。
その歩みを人為的に止めてしまう事は憚られたが依頼となればタンチョウはやるに躊躇いを消している。
実に簡単だった。脚立を教壇の上に開いて置くとそこへ上った。ちらりと背にした生徒たちを上から眺めもしたがタンチョウの事を気にしている様子は微塵も感じられなかった。
時計を外すと埃が舞った。ゆらゆらと大きな埃が綿毛のように落ちてゆく。風の吹かない教室の中では微かな流れもそれほどないのでただ落ちてゆくだけだった。
タンチョウは時計から単3電池を2つ外すと脚立を下りた。
「何をしているのかね?」
タンチョウが下りてすぐに入室した草野が訊ねてきた。
意表を突かれて驚いたが表情をマスクと眼鏡が隠してくれていた。それでいくらか冷静になるとタンチョウは事務員になり切って草野を相手にした。
「時計の時間が狂っていたので戻していました。念のため電池も取り換えようと思います」
「そうか、もうすぐ授業が始まるから早くやってしまってくれ」
「分かりました」
タンチョウを事務員と思い込んでいる草野を騙すのに少しだけ心が痛んだ。
小テストは難しく授業態度は厳しかったが学期末の最後の授業の時や授業以外の時間では人が違うと思われるほどすこぶる優しくなる人なのである。それを知っているからこそタンチョウは心が痛むのである。電池を戻そうかとも考えた。
だが、やはり彼は思い返して仕事に従事するのを選ぶのだった。
タンチョウは脚立を抱えると電池がポケットに入っているのを確認して2年D組を出た。
ヤマセミは実行前よりもいくらか離れた場所に立っていた。タンチョウを待っている様子でひどく急かしている。
ヤマセミと目を合わせて一度だけ頷いて作戦の成功を報せるとヤマセミは一足先にその場を離れて行った。
タンチョウは速足で階段を登って行った。屋上まで来るとロッカーの鍵を開けて袋を取り出すと持っていた他の何もかもを置いて着替え始めた。
不審な、眼鏡をかけてマスクをしたまるで変装してますと言わんばかりの今日限りの事務員の後をつけているような奇特な者はいなかった。
この変装姿を写真にでも納めておきたかったタンチョウだが、そんな事をする余裕は今になって表れて来たので誰に頼む事も出来なかった。
ヤマセミはもちろんそんな頼みは聞きはしない。「アホが」と一蹴されるだけだろう。そしてやはり今回の仕事はタンチョウにとって楽しい物だったと実感するのであった。




