引退騒動
しばらくすると、いつものようにバカ話がはじまった。チアキ先輩が、俺らを気遣ってか、笑わせようとしてくるのだ。
病室に笑いの花が咲いた。
この日は、それぞれ家に帰ることになった。みゆきは店の手伝いがある。西野も会社に行かなくてはならない。俺だって、バイトに行って、チアキ先輩の穴を埋めなければならないのだ。
チアキ先輩は、容体が安定したら、チアキ先輩の自宅近くの総合病院に転院するらしい。そうなったら、毎日でもお見舞いに行ける。
少しずつだけど、もと通りの日常が戻って来つつあった。
「チアキ先輩、元気そうで良かったです」
帰りの電車で、みゆきが明るく言った。
「そうだね。一時は、どうなるかと思ったけど、本当に良かったよ」
俺は、みゆきに答えながら、西野の様子を見た。彼女は、まだ少し元気がない。あれだけのことがあったのだから、当然といえば当然だけど、やはり心配だ。
「西野も疲れたんじゃない?ゆっくり休んでよ」
「ありがとう」
俺は西野に話を振ってみたけど、反応はイマイチだ。
「ねぇ、並木くん」
「なんだよ」
「チアキさんは、格闘家としては、年齢は上の方なんでしょ?」
「俺もあまり詳しくないけど、そうだと思うよ」
それだけ聞くと、西野はまた黙りこんだ。
「なんだよ、西野」
「ん、今回の件があって、年齢的にも、そろそろ引退なんじゃないかなと思って……」
引退。チアキ先輩が引退するなんて、考えてもみなかった。元気になったら、また当たり前のようにリングに上がって、大暴れをする。そう思っていた。
でも、西野の言う通り、引退してもおかしくない年齢なのだ。
「俺から格闘技を取ったら、何が残るんだよ」
チアキ先輩が、口グセのように言ってた言葉がよみがえる。その時は、「清掃員が残るでしょ」なんて、突っ込んでいたけど、今は冗談でもそんなことは言えない。
西野に何か言わなくてはと思うものの、言葉にならない。
結局、西野には何も答えられないまま、電車は最寄駅に着いた。
「じゃあ、またね」
そう言って、去って行く西野の後ろ姿は、どこが寂しげで、はかなく見えた。
「チアキ先輩、引退しちゃうんですかね?」
2人きりの帰り道。不意にみゆきが口にした。
「わかんない。チアキ先輩は、引退しないような気がするけど……わかんないよ」
この前の試合、最後はあんなことになったけど、1ラウンド目の最後は、明らかに相手選手から押されていた。それが、年齢によるものなのかはわからないけど、素人目に見ても明らかなくらいに攻め込まれていたのだ。
「続けて欲しい気もするけど、もうあんな姿は見たくないしね」
「そうですね」
「西野はきっと、引退して欲しいと思ってるはずだよ」
今回、西野には本当にツライできごとになってしまった。これから、西野がチアキ先輩になんて言うのか、想像できない。
でも、西野の性格を考えると、引退して欲しいと言うだろう。
「それじゃあ、私はここで」
「あ、うん。みゆき、お疲れ様でした。ゆっくり休んでね」
「はい。修くんも、休んでくださいね」
みゆきのお母さんの店の前で、みゆきと別れた。
少しずつ、戻って来つつある日常。そんな中、チアキ先輩の去就だけが不透明だった。
翌日。チアキ先輩が休んだ分は、代わりに社長が来てくれた。久しぶりの現場らしいけど、仕事ぶりは丁寧で早い。
そして、休憩時間。社長から、話しかけられた。
「並木くんは、この前の松丸くんの試合は見に行ったの?」
「あ、はい。行きましたよ」
「そうか。松丸くんは、どうなんだろうね?」
「どうって言いますと?」
俺の質問に、社長は答えにくそうに口を開く。
「ほら、大変な試合だったみたいだしね。そろそろ、引退なのかなってね」
チアキ先輩の試合は、ネットニュースなどでも話題になっていた。試合結果は、チアキ先輩の反則勝ち。相手選手はファイトマネーの没収と罰金が科せられた。
テレビ中継もあったので、運営を批判する声は大きく、炎上状態になっていたのだ。
「彼がはじめて面接に来た時は、すごいのが来たなぁって思ったよ。でも、仕事は真面目だし、すごくいい子だからね。私も、彼を応援してるんだよ」
「そうだったんですね」
「彼が試合会場で使ってる応援のノボリは、私がプレゼントしたんだよ」
まさか、社長がチアキ先輩のファンだとは思わなかった。
「実はね、一度だけ、試合を見に行ったんだよ。応援席には行かなかったけど、後ろの方で見てたんだ。でも、血まみれになって殴り合ってるでしょ?もう、見てられなくてね」
面接の時、ニコニコして恵比寿様みたいな人だと思ったけど、本当にいい人だ。
「松丸くんは『社長にでっけぇ夢を見させてやりますからね』って言ってくれてたんだけどさ」
「チアキ先輩らしいですね」
「うちは、子どもがいないから、松丸くんを実の息子みたいに思えてきちゃってね。だから、試合の日には奥さんと一緒に神社にお参りに行ってたんだよ」
社長がそんなことをしてたなんて、全然、知らなかった。
「もし、彼が私のために無理をしているようなら、もう十分だからって伝えて欲しい。私はもう、沢山の夢を見させてもらったよってね」
「わかりました」
社長の話に涙がこみ上げてきた。ここ最近、ずいぶん、涙もろくなったと思う。
「実はうち、契約先も増えてきたので、事務所を増やそうと思っていてね。松丸くんが引退するなら、その事務所を任せてもいいと思ってるんだよ」
社長は、チアキ先輩の引退後の生活まで、ちゃんと考えてくれていた。その優しさに、ただ頭が下がるばかりだった。
明日、お見舞いに行った時、社長の話を伝えようと思った。




