初決済
恋をしたのなんて、いつ以来だろう。しかも、一目ぼれなんて、人生ではじめてかもしれない。
基本的には、疑り深くて、若干、人間不信気味な俺。それが一目ぼれなんて、自分でもビックリする。
大学へと向かう足どりも、自然と軽くなる。心も身体もうきうきしている。
昨日まで、灰色にくすんでいた街も、今日は色彩に溢れて見える。
すべては気の持ちようなのかもしれないが、ここまで変わるものなのだろうか。
いつもなら30分以上かかる大学までの道のりも、今日は20分そこそこで着いてしまった。
多分、表情もにこにこしていたはずだ。
教務部に着くと、何だか、みんないつも以上に忙しく動き回っていた。
受付で山岸さんの名前を伝えると、昨日と同じ女性が奥からやって来た。
「並木さん、本日はわざわざ、ありがとうございます。こちらへどうぞ」
そう言うと、昨日と同じ革張りのソファーに通された。昨日と同じ場所に腰をおろすと、山岸さんが向かいに腰かけた。
昨日と同じく、バリバリと仕事をこなしそうな雰囲気だが、どこか昨日よりやわらかな印象を感じる。
「並木さん、昨日の今日で、大変、申し訳ないのですが……」
そこまで話すと、山岸さんは申し訳なさそうに目を伏せ、言葉を切った。
「実は、橋口教授が一部の生徒の成績に手を加えていたことが発覚しまして……」
昨日、あれだけきっぱりと、俺に留年を伝えた山岸さんが、話づらそうに言葉を選びながら話している。
「一部の女生徒を卒業させるために、並木さんに与えられる卒論の評価と、その女生徒の卒論の評価を入れ替えていたのです」
俺は、山岸さんが何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「えっと、それはどういう?」
「ですから、並木さんの卒論は不可ではないということです。当然、留年も取り消しということになります」
「カッシャーン!!」
俺の頭の中に、レジのトレーが開くような音が響いた。コンビニのバイトで聞き慣れた音だから、間違いない。
あまりに突然の話なのと、意味不明の音で、俺は指でこめかみを押さえて、うつむいた。
「並木修一郎様、言葉だけで失礼しまーすぅ。鈴木でございまぁす」
今度は、鈴木の声が頭に響いてきた。
「先程の音は、決済が完了した合図でございまーすぅ。どうか、お気になさらずにぃ。それでは、失礼いたしまーすぅ」
なるほど。この話の急展開は、鈴木のところの執行部の仕業なのか。俺の留年が取り消されたから、決済されたという訳だ。
この一瞬の間に、俺の寿命がいくらか縮んだ。そう考えると、背筋がゾッとする。
山岸さんは、俺の様子を見て、具合が悪くなったと勘違いしたようだ。心配そうに、俺の顔を覗き込んでくる。
「並木さん、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です。ちょっと、ビックリしただけですから」
「そうですよね。驚かれますよね……」
山岸さんは、申し訳ないのと心配なのとが相まって、何とも複雑な表情になっていた。
「えっと、俺は卒業できるんですよね?」
「はい、もちろんです」
鈴木のところの執行部は、かなり有能なようだ。きっと、卒業式の日には、またあの決済の音が聞こえるだろう。そして、俺の寿命が、さらに縮むのだ。
痛みも何もない。ただ、頭の中に音が響くだけ。どれだけの寿命が縮んだのかもわからない。
ここに来て、はじめて、俺は自分のしたことの重大さに気がついた。
いくら腰が低くて、笑顔でも、鈴木は死神なんだ。これからは、なるべく関わらないようにしよう。そう決意した。