はじめての取引
まずは『留年取消』をタップした。タップすると、薄いブルーの背景が、淡いピンク色に変わった。
次に、メニュー画面を少し下にスクロールさせて、『大学卒業』をタップした。タップ指先がかすかに震えている。当然だ。命がけの選択をしているんだから。
たった2つを選ぶだけで、ずいぶん、時間がかかった気がする。汗が頰に伝わっている。
「これで、確定ボタンを押せばいいのか?」
俺の問いかけに、鈴木は無言でうなづくことで答えた。表情は、いつもの笑顔だ。心なしか、少し嬉しそうに見える。
「なぁ、確定ボタンを押すと、どういう理屈で、俺の願いが叶うんだ?」
「おやおや、並木様は当社のビジネスの仕組みにご興味がおありのようですねぇ。就職希望であれば、上に相談しても構いませんよぉ」
死神は、就職してなるものらしい。生まれついての死神ではないのか。
鈴木は、口が軽いのか、雑談で結構、重大な情報を漏らしてくる。意外とワキが甘いタイプなのかもしれない。
「並木様からご依頼いただきますと、その情報を『執行部』の死神が現実になるように働きかけます。そして、『執行部』の仕事が完了したら、『審査部』が適切かどうかを判断して、適切ならば決済といった流れになります」
『執行部』と『審査部』か。なかなか合理的に分業してるようだ。ホントに人間の会社みたいだ。
もしかしたら、鈴木は給料をもらっているのかもしれない。そう思うと、何だか笑えてくる。
俺がこのまま、確定ボタンを押せば、情報が『執行部』に行って、そこの死神たちが願いを叶えてくれる。そして『審査部』の死神が余命を奪うということになるんだ。
断固たる決意をしたはずだったが、いざとなると、それが揺らいでくる。それに伴って、恐怖感がじわじわと湧いてくる。
「ふぅう……」
俺は大きく息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。
少し、間を取ったのは、自分の中の本心を確認したかったからだ。ただ本心も揺らいでいる。何が正解かなんて、誰にもわからない気がした。
その間、鈴木は何も言わなかった。まるで、俺がそうすることがわかっていたかのように見守ってくれている。
よし、決めた。俺は、このクソみたいな日々を変えたい。その気持ちにウソはない。どんな方法でも構わない。
今、俺の目の前にあるのはチャンスだ。人生一発逆転のチャンスがぶら下がっているんだ。掴まない手はないだろう。
そう思うことで、半ば強引に自分の気持ちに決着をつけた。そして、気が変わってしまう前に、確定ボタンを押した。
俺は目をつぶっていた。何も音は聞こえない。押し間違えたのかと思って、恐る恐る目を開けてみた。
俺の右手の人差し指が、確かに確定ボタンを押していた。
画面が切り替わり、『ご利用ありがとうございました』と表示されていた。そして、その下に小さく『並木様の余命、残り50年以上』と書いてあった。
何だ、俺はまだ50年以上も生きられるのだ。少しホッとした気分になった。
「並木様、ご利用ありがとうございまーすぅ。素晴らしいご決断でございましたぁ」
鈴木は、またパチパチと手首だけで手を叩いている。この叩き方も、鈴木のクセだろう。
「それでは、早速、取りかからせていただきまーすぅ。またのご利用、お待ちしておりまーすぅ」
そう言い残して、鈴木はまた煙のように消え去っていった。
1人になった俺は、洗面所に駆け込んだ。何で、そんな行動を取ったのか、自分でもわからない。
洗面所で、俺は鏡に自分の顔を映していた。見た目は変わっていない。色白の肌も、少し明るめの茶髪も変わりはない。
あかんべぇをして、目の下を確認した。医者がよくやるヤツだ。よくわからなかったが、いつもの健康的な赤色だった。
170cmの身長も特に縮んだようには見えない。俺は、何も変わっていない。それを確認して、ようやく、安心することができたのだった。




