第四話 The bells announce the time <後>
私たちを乗せたバスは、有名なタワーブリッジの上を走っていった。
立派な石作りの橋は見上げるほどで、私はバスの二階からため息をつきながら眺めていた。
「ちなみにあっちがロンドン橋」
リチャードは指さして楽しそうに歌う。
「ローンドンばーし、落―ちたっ」
「橋の上で言わんでください、頼むから」
しかもさりげなく日本語版で歌うところが、この人のぬかりのないところだと思う。
「だって本当によく落ちたんだもん」
「はいはい」
風で舞い上がる髪を押さえながら、私はリチャードに頷いていた。
ぐるっと街を大周りして、私たちはセント・ポール大聖堂前で降りた。
また大きなものを作ったなと思いながら大聖堂を見上げていると、ふいにリチャードが後ろから近付いてきた。
「智子さん」
「な、なに?」
耳に口を寄せるように話すから、私は少しどぎまぎしながら振り返る。
「スリがいる。早く聖堂の中に入って」
「え」
私の心臓が跳ねる。
聖堂の前の階段には人がいっぱい座っていた。ガイドブックで見た時は、それはよくある光景で好意的な書かれ方をしていた。
でも確かに何人か奇妙な歩き方をしている人がいる。何かを探るように通り過ぎる人をうかがって、その後にくっついていく。
ゆらりと徘徊する、まるで目的が定まっていないようでどこか恐ろしい動きだ。
その内の一人と目が合って、私は咄嗟に目を逸らした。
走るように階段を上って、聖堂の中に飛び込む。
「大丈夫?」
後ろにリチャードしかついてきていないことを確認して、私は自分が息を止めていたことに気付く。
「スリって……現実にいたんだ」
少し上がった息で吐き出すように呟くと、リチャードは頷く。
「観光地には大体いる。イングランドは別に治安は悪くないけど、観光客狙いのスリや置き引きは日常茶飯事だ」
「そうだったんだ」
――どうしたの、デニス?
私は以前、東急ハンズでデニスが辺りを見回している時に尋ねてみたことがある。
――人が多いから、スリに注意しないと。
――スリなんていないよ。
私はきょとんとして、不思議なことを訊かれたように返した。
――見たことないし、私も家族も被害に遭ったことないし。大丈夫だよ。
――そうか。
そう頷いた時の、デニスの複雑な表情を思い出す。
日本にもいなかったはずはない。けれど私はそれを意識することなく、またそれでも暮らせていた。
「人の多いところでは鞄を前に持って押さえているといいよ」
「うん」
私は早速リュックを前に回してぎゅっと抱きしめた。
だけど荷物が気になって、せっかくの大聖堂を落ち着いて見ることができない。
誰かついてきていないか怖くて、人が少し触れただけでそわそわした。
天まで届くほどの壮麗なドームは美しかったし、日本語の音声ガイドもあったのに、結局私はほとんど大聖堂を素通りしてしまった。
「ごめんね。僕が脅かしたせいだね」
「リチャードが悪いわけじゃないよ。実際にあるものを私が知らなかっただけなんだ」
リチャードにも心配をかけてしまったようで、私は慌てて返した。
人気の少ない売店まで辿りついて、私はようやく少し息をつく。
「智子さん、こっち」
リチャードはふいに私を呼んで、隅で売られているポスターを広げてみせた。
「煙の中のセント・ポール大聖堂……?」
「大戦中の写真だよ」
周りは一面煙で灰色に染まっている中で、確かにセント・ポール大聖堂のドームが映っている。
「二度の世界大戦中、ロンドンも大変な被害だった。その中でこの大聖堂が残ったことが、ロンドン市民の心の支えになったといわれる」
「シンボルということ?」
「そう。この聖堂は何度も壊れては、再建された歴史を持つ」
リチャードは目を細めて、煙の中の大聖堂を見つめる。
「同じように、ロンドンの人々も何度も災厄に見舞われた。大火災、コレラにペスト、そして数えきれない戦争。多くのものが失われながら、そのたびに立て直してきた」
ロンドンに色々なものが混じり合っているのは、修復のためもあったのだろう。壊れては直して、そうやってどうにか生活の場所を作りだしてきた。
私は火の中で静かに立ち続けるセント・ポール大聖堂の写真を、しばらくじっとみつめていた。
クルーザーに乗った場所までバスで戻ってくる時は、一階に乗車した。
「お腹すかない? 君、お菓子しか食べてないでしょ」
「いや、ちょっと朝食べ過ぎたかも。あんまりお腹空いてないんだ」
途中でサンドイッチショップに入ったけど、私はその横にあるクッキーを食べることで精いっぱいだった。
風が冷たくなってきていた。特に川の上の寒さは肌が凍るようで、私は早々に窓のある一階の席に降りた。
「あっちがウェストミンスター宮殿。今は国会議事堂として使われてるの」
「針を束ねたみたいだね」
天に刺さるような無数の塔が立ち並ぶ、灰色のゴシック様式の建物だ。
「そしてあれがビッグベン。時計台ね」
縦長の四角い建物の上に時計がついていた。巨大な文字盤に、二つの針が時を示している。
「デニスはあまりロンドンが好きじゃなかったけど、ここはわりと気に入ってたみたい」
「うん」
――ウェストミンスターの鐘の音は、一度聞いておくといいよ。
確かデニスもそう言っていた。デニスがロンドンで好きだった、数少ない場所だったと思う。
橋の上から時計台を一枚写真に撮って、私たちはウェストミンスター寺院の方に向かう。
ここも人でごったがえしていた。露店や大道芸人がいる中を、バックパックの旅行客がひしめいている。
そこに、道の真ん中で小さな花を持っている若い女性がいた。
「あれ?」
私の方に気づいたかと思うと、花を持ってにこやかに歩いてくる。
どういうことだろう、と首を傾げたら、後ろからぐいと引っ張られた。
「No」
リチャードが厳しい顔で言い放って、私の肩を抱えるようにして歩いて行く。
同じように花を持っている人が何人もいた。それを、リチャードは振り払うようにして通り過ぎる。
交差点を渡って寺院の入り口近くまでくると、ようやくリチャードは私の肩から手を離した。
「あれが今ヨーロッパ中で大流行してる、花挿し詐欺」
「花挿し詐欺?」
「勝手に花を胸ポケットとかに挿してきて、高額な代金を請求してくる」
「……そんな詐欺があるの?」
馬鹿げてる、と私は思わず眉を寄せる。
「現実にあるんだ。絶対挿させちゃ駄目だよ」
にこにこしながら近付く人には悪意がある。今朝リチャードに言われた言葉を私は心の中で繰り返す。
ロンドンでは笑ってはいけないのだろうか。そんなことすら考えた私に、リチャードは苦笑する。
「怖いね。嫌だよね。でも君もわかってると思うけど、ロンドンの人みんなが怖いわけじゃない。あくまで一部だ」
「うん」
私は自分を奮い立たせるように頷いた。
考えを切り替えようと首を横に振って、ウェスタミンスター寺院の入り口に並ぶ。
入場料を払って中に入ると、そこはひんやりとした空間だった。
外と同じで詰め込まれるようにたくさん人がいる。けれど私が寒さを感じたのは、ここに存在するものの内容を知っていたからだ。
「ここは墓地なんだよ。王族から科学者まで様々な人々のね」
「……ん」
「入ってよかった? 君、そういうの怖いんでしょ」
「姿が見えなければ、まだ何とか」
置いてあるのは棺と彫刻だ。あの中に入っているかと思うと背筋は冷たくなるが、我慢できないほどじゃない。
灯りが少なく、ぼそぼそと話す人の声と足音で満ちていた。小部屋と棺がいくつも横に並び、色彩もくすんだ灰色が多い。
寺院、という呼び名は正しいと思った。聖堂や教会とは違う。ここは華やかな絵で天上の教えを描いて人々が集う場所というより、ただ眠る場所なのだろう。
「ウェストミンスター寺院っていうと、戴冠式のイメージがあるけど。どこにそんな大人数が入るの?」
せいぜい横に並べるのは四人くらいで、座る場所などほとんど見当たらない。
「それは別室。この辺はほぼ棺ばっかり」
そう言って、リチャードは顔を上向かせる。
「今日はまだ鳴らないな」
「ウェストミンスターの鐘?」
「戴冠式には鳴りっぱなしらしいんだけど。僕はそんなに聞いたことないや……」
リチャードは珍しく静かだった。どこか沈んでいるようにも見える。
「どうかした?」
いつもはリチャードが言う言葉を、私の側から投げかけてみる。
「いや、気にしないで」
リチャードは表情を動かさないまま、軽く手を振った。
やっぱり変だと思いながら、私はそれ以上問いかけることができなかった。
奥まで来ると、天井に細かい彫刻がしてあるのを鏡で見ることができた。ただ、それもやはり色は薄かった。
高い天窓から鈍く光が差し込んでいた。
「メアリ・スチュアート。処刑されたスコットランドの女王もいるんだ」
「レディ・ジェーン・グレイもね」
淡々と、埋葬されている人々の名前を追う。
「チャールズ・ディケンズ。トーマス・ハーディ」
ダーヴィンやニュートンまで埋葬されていた。キリスト教とは相性が悪いように思えるのだが、宗教については詳しくないのでわからない。
中庭はおそらく春なら少し華やいで見えるのだろうが、真冬では木々も枯れ果てていた。
どちらともなく黙り始めて、私たちは寺院を出た。
石畳の道に入ろうとして、私は足を止めて振り返る。
「リチャード」
本当にどうしたの、と問いかけようとした時だった。
鐘が鳴り始めた。
「え?」
キーンコーンと、私もよく知る音階で鳴り響く。
「学校のチャイムの音だったの?」
ウェストミンスターの鐘は、私が小中高と毎日聞いていた学校の鐘の音だった。
澄んだ軽やかな音に包まれて、私は思わず微笑みたくなった。
「……智子さん」
ふいにリチャードが押し殺したような声で言葉を発しなければ、私は頬を上げていたはずだった。
「ここに来た時から、言おうかどうかずっと迷っていた。言えば間違いなく、君の楽しい気分を吹き飛ばしてしまうから」
私はリチャードを見返して少し黙る。
それから一つ頷いた。
「デニスにかかわる話なら、どんなことでも聞かせてほしい」
「……」
リチャードは少し俯いて一度目を閉じた。
彼が迷っているのがわかった。私はリチャードと半歩離れた場所から、じっと彼が口を開くのを待つ。
「デニスが亡くなる一週間前のこと」
ぽつり、と雨粒が一滴落ちるようにそっとリチャードは話し始めた。
「少しの時間なら外出していいって医者にいわれたから、僕はデニスにどこへ行きたいか訊いたんだ。そんなに遠くは行けないけれど、連れて行くよって。そうしたらデニスは、『ウェストミンスターの鐘を聴きに行きたい』と」
ここはデニスのロンドンで好きだった数少ない場所だ。たぶん私の知らない色々な思い出が詰まっているのだろうと、私は頷く。
「デニスはもう自分で歩けなかったから僕が車椅子を押して、寺院に入ったんだ。デニスはずっとぼんやりしてて、無言だった。気分が悪いのかと訊いたけど、それも聞こえてないみたいだった」
だいぶ弱っていたのだろう。痛ましい思いがして、私も俯く。
「だけど、鐘が鳴ったら。デニスは笑ったんだ」
リチャードが苦しそうに唇をかみしめる。
「『ああ、時間だ。智子が帰ってくる』って言うんだ」
「……私?」
一瞬、時が止まったような思いがした。
「君の家は学校の近くで、君は高校が終わるとすぐに帰ってきたんだろう?」
「うん……大抵デニスの方が大学から先に帰ってて、リビングで新聞を読んでて」
私は記憶を思い起こしながら、手が震えるのを感じた。
「どうしてか、いつも……」
いつもデニスはリビングにいた。新聞なら毎朝読んでいくのに、デニスは自分ではテレビもつけないからリビングにいる必要もないのに、決まってそこで座って新聞を読んでいた。
――ああ、智子。
それで私がリビングに入ると、たった今気づいたように目を上げて言うのだ。
――おかえり。
「デニスは、『智子は帰ってすぐに今日あったことを話したがるから。毎日怒ったり泣いたり忙しい。よく体力がもつな』って」
私が家に帰ると、デニスは紅茶を一杯淹れてくれた。それを飲みながら好き勝手なことを話す私に、デニスは言葉少なく頷いていた。
「……僕は」
リチャードは声を震わせて続ける。
「元気になったらどこへでも連れていってやるから。デニスの好きな場所へ、日本だってまた連れて行くからって、言ったんだけど」
必死で告げたリチャードのその時の声が、聞いてもいないのに蘇るようだった。
「デニスは、『僕は日本の隅々まで旅したつもりだったんだけど』」
そして、デニスの声も耳の近くで聞こえてくる気がした。
「……『今は智子と行った、東急ハンズしか思い出せないんだ』って、笑うんだ」
でも鐘はとっくに終わっている。余韻すら、もう残ってはいない。
私は顔を覆って泣いた。いくら拭っても、目から溢れてくるものが止まらなかった。
「デニスは君のことが好きだったよ」
えぐ、と私は目を押さえてしゃくりあげる。
「想いが伝えられないくらい、好きだったよ……」
風の冷たさも日差しの暖かさもわからなかった。
リチャードがそっと私の頭を撫でてくれた、その気配だけを感じていた。
夕方、リチャードは私をホテルまで送っていこうとしてふと声を上げた。
「そういえば昼、あんまり食べてなかったけど。お腹空いてないの?」
「あ、うん……」
私は咄嗟に言葉を濁したから、リチャードは余計に気になってしまったのだろう。
「念のために訊くけど、昨日の夜は何を食べた?」
ちょっと迷ったけど、私は嘘を言うわけにもいかずにぼそりと言う。
「コッツウォルズで買ったチョコレート」
「一昨日の夜は?」
「コンビニみたいなところで買ったドーナツ」
「……じゃあ君、最初の日の昼以外まともなもの食べてないんじゃん」
私は慌てて顔を上げる。
「いや、ただお腹が空かなくて。胃腸が悪いとかダイエットしてるとかそういうわけじゃないんだ」
それにサンドイッチだって食べたし、朝も一応食べてるし……と言いわけじみた言葉を重ねたけど、リチャードはきっぱりと首を横に振る。
「いけません。今日の夜こそはしっかりしたものを食べてもらいます」
「しっかり……」
「はい、行くよ」
有無を言わさず、リチャードはバス停に向かって歩き出す。
私がバスの運転手さんに乗車券を見せると、彼はにこっと笑う。
『笑って』
「え?」
涙はちゃんと拭ったはずと思いながら頬を触るけど、運転手さんはまるで私の心の内を見通したように言った。
『ここの人たちが笑うことは少ないけど。やって来た君たちに笑ってもらうために、バスを走らせたり案内したりしてる人がいっぱいいるんだよ』
私はぎこちなく頬を動かす。ちゃんと笑えているかどうかわからなかったけど、運転手さんは満足そうに首を傾けた。
『よい旅を』
『……ありがとう』
それからバスに乗って、私たちは中心街から少し離れたところで降りた。
「漢字がある。ここ、チャイナタウン?」
「そ。この辺なら君が食べやすいものもあるでしょ」
少し独特の湯気の香りをかぐと、凍ったようだった胃腸も動いたような気がした。
表で餃子を作っている店を選んで、私は水餃子を注文する。
「あ……」
温かいスープと馴染みのある餃子を口にした途端、私の体に熱が戻った。
かきこむように大急ぎでスープを飲む。おいしい。腹の底からそう思った。
「お米もどうぞ」
「ありがとう」
リチャードが取り分けてくれたチャーハンも食べた。ぱらっとしていてこれもおいしかった。
心地よい満腹感が訪れた時、リチャードの携帯が鳴った。
『Hello?』
私にごめんと言って席を立つ。それからいくらもしない内に、リチャードは戻って来た。
「ごめん、智子さん。どうしても明日会社に行かなきゃいけなくなった」
「そっか」
私は頷いて少し笑う。
「大丈夫。元々一人旅行のつもりだったんだし、準備はしてあるよ」
「ほんとごめんね。明日一日で終わらせて、明後日には戻るから」
「いいよ。がんばってね」
リチャードは心配そうに私を覗き込んで言う。
「僕が見てなくてもちゃんとご飯食べなよ。危ないところには近付かないこと。何かあったら携帯に連絡して」
「うん」
こくこくと頷いて、私は思う。
明日はこの旅で一番の目的で、一番気になっていた所に行く。
――僕がイングランドで一番好きなところだ。
遺跡ストーンヘンジに、旅立つ。




