第三話 The labyrinth of museum <前>
イングランド旅行三日目は、ロンドンの美術館や博物館を見て回ることにした。
昨日よりは遅めの七時半くらいに起きて、朝食を取ってからゆっくりと支度をする。
地下鉄に乗ってホルボーン駅で降りる。そこから地図を見ながらぼちぼちと歩いた。
「あ、こっちから回るのか」
窓から見た風景と、実際に歩いていた様子ではずいぶんと違った。
たとえば、ロンドンの街中は工事中だらけだった。あちこちに柵や札が立てかけられていて、ヘルメットを被ったお兄さんたちが作業している。だから私は何度も回り道をしなければならなかった。
建物が古いからか、それとも政策的なものかと考えながら、私は信号待ちをしていた。
「あれ?」
しかし信号は赤だというのに、みんな平気で交差点を渡っていく。しかもその前で車が止まっている。
どうやらこちらの歩行者はあまり信号を気にしないようだ。そして基本的に歩行者優先で、集団で渡ればわりと車が通してくれる。
「……郷に入れば何とやら」
私もロンドンの人に混じって、左右をきょろきょろしながら交差点を渡ることにした。
その後全く反対方向に進んでいたことに気付いたり、分離帯に取り残されたりしながら、私は何とか目的地に辿り着いた。
今日最初の目的地は、大英博物館だ。
「入れる……みたい」
神殿のような建物の裏口をみつけて、私はそこから入場した。
「『入場料金は要りませんが、寄付を1ポンドほどするとよいでしょう』、か」
ガイドブックの記述を読んで、私は小銭が放り込まれているボックスの前までやってくる。
1ポンドは今ないから、50ペンスで許してもらおう。七角形の銀貨で、他の硬貨と同じく片側には女王陛下の横顔が映っているものだ。
お賽銭のような気持ちで放り込んだコインは、チャリン、といい音を立ててボックスの中に落ちた。
まだリチャードとの待ち合わせの時間には早いからと、私は少し先に中を見学することにした。
「あ、日本展がある」
壁に刻まれている案内表示にJAPANという名前をみつけて、私はそちらに足を向ける。
「右」
矢印の方向に従って、私は通路を折れる。
「斜め右」
しかし、矢印はどんどん私を人気のない場所へと誘い込む。
「上? うわっ」
私は矢印の方向を見て、思わず絶望の混じった悲鳴を上げた。
「……なぜこんな場所に作った」
極めつけに五階分くらいの階段を上って、私はへろへろになりながら日本展に足を踏み入れた。
やっぱり日本ってマイナーな国なんだな。そりゃ小さい国だけど君の国とサイズ的にはそう変わらないんだぞと少しいじけていたら、視界が開けた。
そこは床の間をイメージしたような空間だった。木目調の壁と天井で、控えめな淡い灯りが整然と並んだ展示物を照らし出す。
もちろんそれは演出の意味もあるのだろう。だけど私は少しこの博物館に愛着を覚えた。
隅っこではあるけど、私の国のものを大事にしてもらっている。それはありがたいと、ぺこりと頭を下げたくなった。
まだ開館して間もない時間だし、元々そうメジャーな場所でもないだろうから、人の数は片手で数えられるくらいだった。
「すごい。縄文から江戸まで時系列順に」
簡単ながら日本の歴史が年表で書いてあって、奥に行くに従って時代が新しいものが展示してあるようだ。
縄文時代の土器から始まって、平安時代の巻物のところまで歩いてくる。
「源氏物語の絵巻だ。初めて見る」
今ロンドンにいることも忘れて、私はじっくり眺めた。
日本の宗教事情、仏教と神道とキリスト教が混じっていることなども資料を通して紹介されていたりした。
『さむらいー』
ヨーロッパ系の小学生の男の子が、戦国時代の全身鎧をいろんな角度から物珍しそうに見ているのが微笑ましかった。
昔の携帯ストラップ、根付けが案外かわいらしいと思いながら通り過ぎて、私は足を止める。
日本展で一番大きなコーナーは、江戸時代の浮世絵だった。
「ふむ」
そこだけ一室まるごと使われていて、枚数もざっと数えて三十枚くらいはある。浮世絵は海外では評判が高いということを聞いていたので、私も時計回りに歩いて回ることにした。
確かにじっくりみつめてみると、浮世絵はその精密さ、奇抜さに目を引かれる。昔の人はよく木彫りでここまで細かい線を自由自在に表現できたなと感心してしまう。
――浮世絵は明治期に大量に国外に流出してしまった。だからまとまった数を見るのは、日本でも難しいかもしれないね。
デニスがそう言っていたのを思い出しながら、私は浮世絵の最後のコーナーに辿り着く。
「あれ?」
一瞬、私はその絵を見て首を傾げた。今までの絵は一人の肖像画が多かったのに、それは男女二人だったからだ。
しかも全身図だった。なんだか変なポーズ……と思って、はっと息を飲む。
「えっちぃ絵だよねぇ」
「……っ」
唐突に人の体温と声を首元に感じて、私は立ち竦む。
目だけを横に向けると、リチャードが私の首に後ろから腕を回して頭の上に顎を置いていた。
「ほうほう。細かいところまでよく描けてる」
「み、見ちゃ駄目だっ、リチャード」
私はばっと体を反転させてリチャードから絵を隠そうとする。
「これは春画なのっ。日本の恥っ」
つまり江戸時代のエロ本だ。これがなぜ大英博物館にあるのかは謎だが、はっきり言って人に見せたくない。
「そーお? エロスは隠さなくていいのに。僕の知ってる美術館では、女性の局部の絵とか普通に置いてあるし」
「うう、とにかく離れよう……」
私が顔を真っ赤にしてあわあわしていると、リチャードはくすりと笑って肩を竦める。
「まあ僕も初めて見た時はびっくりした。直視まで三十分かかっちゃったよ」
「三十分も見ないでください」
精神的ショックから立ち直ろうと苦しみながら、私は日本展の外の廊下に出る。
「それにしても、「大英博物館で昼11時くらいに会おう」っていう約束だったのに、よく私が日本展にいるってわかったね」
考えてみればアバウトすぎる約束の仕方をしたのに、あっさりみつけられてしまって驚いた。
「んー。君のことだから、メインのエジプト展か自分のところの日本展にいるだろうと当たりをつけてだね」
そこでリチャードはにやっと意地悪く笑う。
「そして怖がりの智子さんでは、一人でミイラは見られないに違いないと」
じろっと睨んでもリチャードは全然動じなかった。何か悔しい。
「さて、さくさく行くよ。全部見てたら一週間かかるからね、ここは」
リチャードの言うことはあながち間違ってはいないので、私は気が進まないながらもメインの展示室へ足を向けることにした。
「地下鉄ちゃんと乗れた?」
「うん。リチャードに教えてもらった通りに、オイスターカード買って10ポンドチャージしてもらった」
日本でいうSuicaみたいなものがロンドンにもある。まあ、中部圏に住む私にはTOICAと言った方が馴染み深いけれど。
「乗り越ししちゃうと罰金っていうところが、この国の怖いところだと思う」
「まあまあ。これ以上国鉄に値上げされても困るから」
「そういえば、イングランドの経済も課題が山積してるってね」
私は階段を降りながら首を傾ける。
「昨日の夜にニュースを見てたら、税金の値上げで生活が大変だって言ってた。それくらいしかわからなかったけど」
「大体あってるよ。それたぶん、付加価値税のことだね。日本の消費税みたいなもの」
「ああ、前にリチャードがメールで書いてた。他に、法人税の引き下げの話とか」
「そーそ。よく覚えてるね」
結構何でもありだったリチャードとのメールのやり取りを思い出す。
「リチャードって大抵のことには丁寧に答えてくれるから、つい私も何でもかんでも訊いちゃって」
「ううん、どんどん訊いちゃっていいよ。僕けっこう楽しんで教えてるから」
そこでちょっとだけ苦笑を浮かべて、リチャードは言う。
「ただ、君は気持ちを訊くのは苦手みたいだね」
「え? ごめん、不愉快なメールとかあった?」
「いや、僕ではなくて」
ぽんと、リチャードは私の頭を軽く叩く。
「でも人の気持ちを訊くのは誰だって難しいよね。今のは気にしないで。忘れていいよ」
私は明るく言葉を切ったリチャードをみつめて、ふと考える。
――怖いな。何を考えてるのかな。
デニスに初めて会った頃、私は彼をみつめているだけだった。彼と話すのはほとんど私の母の役目で、食卓で一緒になっても私は一言も話さない日が続いた。
――智子さん。教えて頂きたいことがあるのですが。
ある時、デニスがそっと切り出してきた。
――大きな雑貨店に行きたいのですが、どこかご存じですか?
――何を探しているの?
――それは……特に決まっていませんが。
微かに困った様子を見せたデニスは、今思えばおそらく私とコミュニケーションを取ろうと懸命に話題をみつけようとしていたからだろう。
――ぶらぶら歩きたいんだね?
私はにこっと笑った。見たこともない外国から来たこの少年も、私と同じようなことを考えるんだと思ったから。
――じゃあね、名古屋の東急ハンズに行こ。見てるだけで楽しいんだよ。
その時、話してみればこの人のことも理解できるかもしれないと感じた。実際、その後いろんなことをデニスと話した。
だけど私は結局問うことができなかった。……デニスは今嬉しいのか、悲しいのか。どんな気持ちなのかと。
デニスが答えてくれたかはわからない。それでも、素直に訊いてみればよかったのかもしれない。
博物館内は果てしなく廊下が続いているように見えた。さすが世界最大の博物館の一つだと思う。
長い階段を下っていくつもの廊下を曲がって、私たちはエジプト展に足を踏み入れた。
そこはこの博物館の目玉であるだけあって、人で溢れていた。通路を通るのも人に断らないといけないくらいだ。
「さて、どうしよう。手でもつなぐ?」
「そんな子どもじゃない」
おどけて手を差し出したリチャードにむっとして、私は先にてくてく歩きだす。
「何隠れてるの、智子さん」
けれど数歩のところで、私はリチャードの後ろにこそこそと戻った。
「み、ミイラが……」
「どうして君はそんなにミイラが怖いの?」
「だってこれ、死体なんだよ」
「死体なんだから襲ってきたりしないよ」
私は展示品と目を合わせないようにしながらその場で足踏みをする。
茶色く変色した包帯がちらっと見えただけで、私は身を縮こまらせる。
何千年も昔のものが残ってるのはすごいと思うけど、あの中にご遺体さんが入っているかと思うと背筋が冷たくなる。
「ま、デニスも怖がってたけどね」
「え?」
「まだデニスがプライマリーに上がって間もない頃かなぁ。ここに一緒に来たんだけど、僕の服の袖ぎゅっと握ってぷるぷるしてた」
意外さに私が何も言えないでいると、リチャードはふっと懐かしむように目を細める。
「『リチャードはこわくないの。この人、もう死んじゃってるんだよ』ってね」
「死が、怖かったのかな」
「うん。僕らはまだあの子に病気のことを伝えてなかったのに、どこかで感じ取っちゃってたのかな」
リチャードはくしゃ、と顔を悲しそうに歪める。
「とうとう泣き出しちゃって。僕は宥めるためにデニスを抱っこした。でもそれはデニスのためだけじゃなかったのかもしれない。何もしてやれない自分の顔を見られたくなかった」
目を伏せて唇を噛むリチャードを見上げて、私はそっとその頬に手を当てる。
私にもそれくらいしかしてあげられない。そう思って俯いていると、リチャードはひょいと私の脇を持って抱き上げた。
「わ」
「でも抱き上げたら、デニスは笑ってくれた」
リチャードは目を開けて、くすっと笑いながら私を見上げた。
「君も笑ってくれると、僕は嬉しいんだけど。これだけじゃ駄目?」
「私、そんなに子どもじゃないから」
「そうかぁ」
残念そうに呟くリチャードに微かに笑ったら、彼は口の端を上げる。
「あ、今ちょっと笑ったでしょ」
「笑ってない。それより下ろしてよ」
「はいはい」
足に床の感覚が戻ってほっとしていたら、リチャードが難しい顔をした。
「うーん」
「どうしたの?」
「君、ちゃんとご飯食べてる?」
「毎食食べてるよ」
リチャードは首を傾げながらぼそりと言った。
「身長にも胸にもいかないなら、どこに消えてるんだろう……」
「しみじみと言うな」
その辺りもリチャードが私の気分を落ち込ませないために言っているのだろうと何となく感じていたから、それ以上追及することはしなかった。
「あ、下にもエジプト展あるみたい」
神殿のような建物の中、展示物が至るところにあった。ガラスケースに入っているものだけでなく、階段の上にモザイク画が飾られていたりもした。
案内表示を見ながら、私たちはもう一つのエジプト展に来た。こちらは彫刻が中心で、大きな吹き抜けのような空間に無造作に展示物が置いてあった。
「せっかくなのでロゼッタストーンも見て行こ。こっちだよ」
リチャードが手招きする先についていくと、少し照明の落ちた空間があった。
「あれが?」
「うん」
人が固まっているしライトアップされているのですぐにわかった。
ただ、人が壁のようにひしめているので、背のそれほど高くない私では展示物を見ることができない。
ちら、と横を見ると、小さい男の子がお父さんに肩車してもらっていた。
「僕もやってあげよっかー?」
「結構です」
私の視線の先に気づいたリチャードに丁重にお断りしてから、私はようやく動いた人の前に出る。
ロゼッタストーンは、見た感じは何の変哲もない石板だった。細かい字が一面に刻まれていて、私には何が書いてあるのか全く読めない。
しかしこれがあったおかげで、もう失われていた古代の言語を読み解くことができた。過去の中で忘れられていた時間と今がつながった。
――歴史的意味を知らなければ何の価値も見出せないものがけっこうある。ロゼッタストーンはその典型だ。
そうだね、と私はデニスの言葉に頷く。
知らなければその価値に気づかない。そういうものが、博物館には溢れているのだろうと思う。
「さぁて。そろそろお昼だけど」
「あ、出発する前にちょっと待って」
白い吹き抜けのロビーまで来て、私はインフォメーションに小走りに近付く。
『すみません』
『はい』
ミイラは怖いけれど、ここまで来たのだから見ておかなければいけないものがあると思ったのだ。
『ツタンカーメンってどこですか?』
白い肌のまだ若い係員さんは、私の言葉にあっさりと返した。
『いや』
さらりと、お兄さんは言葉を続ける。
『それはエジプトだよ』
『あ、そうなんですか……』
『ミイラならあそこを上がってすぐだけど』
ミイラはもういいです、と思いながら、私は引きさがる。
『ありがとうございました』
かかなくていい恥をかいてしまったと、私は頭を軽く押さえて後ろに下がる。
「ぷぷっ」
案の定、リチャードは私を見るなり可笑しそうに声をもらす。
「『それはエジプトだよ』、ね。すばらしく的確で無駄のない言葉だ」
「くっ、いいよ別に。おもいきり笑えば」
「それがね、あんまり笑えない事情もあるんだぁ」
出口の方に歩きながら、リチャードは話し始める。
「ツタンカーメン王の黄金のマスクはね、以前はここにあったんだけど、エジプトに返したの。悲しいかな、大英博物館のほとんどが他国のものだからね」
「あ……うん。確か、ロゼッタストーンも」
「そう。それも略奪品」
私たちは外に出て階段を降りて行く。
「ここになければ価値が理解されずに失われてしまうから残しておくべきとか、そもそも僕らが研究して価値がわかったのだから返す必要はないという意見もあってね。美術品の返還問題っていうのは世界的に議論になってる」
正面玄関の方から出ると、大英博物館の全貌がうかがえた。
近代的なロビーとは違って、そこは古代ギリシャの神殿のようだった。膨大な時代の収まった巨大な箱の外観にふさわしい。
「僕らの国にはかつて大きな力があったから、ここまでの博物館が作れた。だけど、遠くない未来にここは小さくなっていくんじゃないかな。僕はそれでいいような気がするけどね」
私は枠にすべて入りきらない大英博物館の建物を、一枚写真に撮った。
「あ、でも」
そこでリチャードは悪戯っ子の顔になって、私を見下ろす。
「浮世絵は対価を払って日本から買ったものだから。たぶんあの春画は、これからもあそこに展示されるよ。やったね」
「うう……」
嫌なおまけ情報を教えられて、私はがくりと肩を落とした。