第二話 The good old country <後>
小さな村は、一時間くらいで一回りできた。
私は霧雨の中に佇むはちみつ色の家々を、一枚写真に撮って出発することにした。
「イングランド最初の観光、どうだった?」
車に乗り込んでまもなく、リチャードが切り出してきた。
「古き良き村だった。デニスの言った通り」
「ふむ」
リチャードは頷いて言う。
「ただね、古いだけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「黄色い看板と漢字を見かけなかった?」
そういえば、と私は首をひねる。
「あったね。あれって何?」
「中華料理屋さん」
こんな田舎に中華とは、と少し驚く。
「現代のイングランドは移民が多いからよくある風景なんだよ」
「そういえば……」
私はふと思い返して言う。
「デニスは、田舎の風景に異質な光景が混じるのを好ましくは見てなかったみたいだ」
「あの子は人種差別とかしないんだけど、正統とか純粋ってことにこだわりがあったからね」
リチャードはアクセルを踏みながら呟く。
「リチャードは?」
「うん、僕?」
「外から入って来たものはよくないと思う?」
忘れそうになるけど、デニスの兄ということは彼にも青い血の自負があるはずだ。
「君はなかなか答えにくいことをさらっと訊くね」
リチャードは苦い笑みを浮かべながら言う。
「あのね、智子さん。僕は社会で働いてるけど、その中で先祖代々イングランド人なんて一割もいないわけ。地下鉄に乗ってもごっちゃまぜ。混じりたくなくても、もうとっくに混じってるの。その中で、移民の是非を問うのは今更って気がするね」
そこでリチャードは口元を歪める。
「ただ、感情は事実に伴っていかなくて。差別は現にあるし、僕も気をつけてはいるつもりだけど……どこかで彼らによそ者意識は持ってるかも。それも差別といえるかもしれないね」
「なるほど」
「ごめんね。どうにも曖昧な答えしかできなくて」
私は少し俯いて、ひょいと顔を上げる。
「ううん。リチャードは真面目なんだよ。私は考えたこともなかった」
リチャードに振り向いて、私は続ける。
「私はリチャードが差別感情を持ってるかはわからないけど。リチャードがチャーハンもカレーも好きなことは知ってるよ。寿司もね」
一瞬リチャードは黙って、くすっと笑う。
「うん。お寿司大好き」
口調は子どもっぽいのに妙に優しく笑うから、私はなんとなく言葉を付け加える。
「……ただ、日本人がいつも寿司ばかり食べてるわけではないことは、お忘れなきよう」
「はいはい」
子どもをあやすように言ってから、リチャードはまた笑った。
「次の目的地に行く前に、どこかでお昼食べていこうか。何食べたい?」
「じゃあせっかくなので、有名なイングランド料理をお願いします」
「有名っていうとあれだね。了解」
車を東に走らせながら、リチャードは頷いた。
牧草地の間を道路が時折曲がりながら走っている。一本道で、枝分かれすることはめったにない。
その中で珍しく分かれ道があったので私が見ていると、リチャードが声を上げる。
「ここを北に行くと、ストラトフォード・アポン・エイボンだよ」
「ああ、シェイクスピアの故郷だっけ」
「そーそ。君は彼の作品でどれが好き?」
私は首をひねって考える。
「そうたくさんは知らないんだけど、『十二夜』は一気に読んだ」
「知らないわりにはマニアックなところを突くね」
「デニスが最初に貸してくれた本なんだ。私がシャイクスピアは難しそうって言ったら、『じゃあこの辺りから始めてみなよ。脚注は読まなくていいから』って」
そうしたら意外なほどさらさらと読めた。男装した女の子を中心としたおかしみのあるストーリーに、すぐに取り込まれた。
それに、リチャードは軽く頷く。
「なるほどね。デニスらしいな」
「どの辺が?」
「あの子、悲劇より喜劇の方が圧倒的に好きだったから。シャイクスピアで一番好きな作品も、確か『真夏の夜の夢』だったし」
「ちょっと意外だ」
デニスはシェイクスピアの現存する本すべてを読んで、台詞すら空で言えるくらいだった。もっとマイナーなものを選んでくるかと思ったのだ。
「すごくパックが好きだったみたい」
「妖精パック? あの悪戯っ子でハチャメチャなことをする?」
「うん。彼みたいな存在になれたら、違う世界が見えただろうなって」
パックは登場人物たちを混乱させる困った子で、けれど憎めない、どこかかわいらしい妖精だったと記憶している。
「まあ、デニスとは似ても似つかない。あえて言うならリチャードみたいだ」
「そう? 僕、学校の劇でパック演じたことあるんだぁ」
「誰が選んだかわからないけど、はまり役だね」
私はふと思いついて、リチャードに振り向く。
「リチャードはどれが好きなの?」
「『ロミオとジュリエット』ー。やっぱさ、一度はバルコニーでロミオとジュリエットごっこするでしょ」
「しないよ。考えたこともないよ」
「えー、僕三回くらいやったよ。男友達でだけどさ。ちなみに全部僕がジュリエット役」
そんなことをわいわい言っている内に、また小さな村に着いた。
今度は石垣がなく、わりと大きな道路が通っている村だった。家はベージュかこげ茶の壁で、大きさはどこも同じくらいだ。人通りも多くて、雨だというのに皆傘もささずにさっさと歩いている。
リチャードについていって坂道を上っていくと、人魚の形をした看板があった。外にはメニューも置いてあるけど、字体が特殊だからあまり読めない。
「大丈夫。君が頼みたいものはちゃんとあるから」
「そっか」
こくんと頷いて、私はリチャードと一緒に店の中に入った。
カウンターの向こうに店員のお姉さんがいた。彼女はリチャードが近付くとちょっと身を乗り出す。
注文を取る間、お姉さんはにこにこしていた。私がここまで会って来たイングランドの人は親切だけどクールな印象で、お姉さんみたいに愛想全開な人は初めて見た。
「智子さん、次君だよ」
「うん」
私は前に進み出て、お姉さんに注文をした。
店員のお姉さんは気安く頷いて了解してから、ちょっと私に近付いて小声で言った。
『彼、あなたのボーイフレンド?』
男だし友達なのも間違いないが、この場合のニュアンスは彼氏という意味だ。
『友達のお兄さん』
『あら、それは複雑な関係ね』
『あ、はい』
私は頷いてリチャードが既にかけている席へと向かう。
「何話してたの?」
「うん。あなたと彼は複雑な関係かって」
「ハハ」
要約して答えると、リチャードは苦笑した。
「To two-timingって言いたかったんじゃないかな」
「何それ?」
「さあねぇ。それとも君との年の差が犯罪的だと言いたかったのかもねー」
リチャードにはぐらかされてごちゃごちゃ言っている内に、食事が運ばれてきた。
「こ、これがかの有名なフィッシュアンドチップス」
「ええ、イングランドのファーストフードですよ」
イングランド料理で真っ先に名前が挙がるというそれは、白身魚とポテトのフライがセットになっている料理だ。
「……大きい」
魚は大皿の端から端まであり、フライドポテトは山盛りで、つい私はのけ反ってしまった。
「普通こんなもんだよ。まあいっぱい食べなよ。君の背もちょっとは伸びるかもしれない」
こっちの人にとってはこれが標準サイズなのか。あまりの驚きで、リチャードの軽口に怒る気にもならない。
「いただきます」
見ているだけでは何なので、私はナイフとフォークで切り分けて食べることにした。
ぱく、とひとくち口に放り込んで、飲みこむ。
「意外だ。おいしい」
魚はカラッとあがっていて、ほどよい塩けの味わいだった。
「喜んでいいのか微妙なコメントだね」
「ごめん」
「いやいや。わかってるよ。これが余所でどんな評判かは」
失礼ながら、まずくて有名な料理だと聞いていた。それはもう、目を覆うほどの批判の数々があちこちに氾濫していた。
「ちゃんと店を選べば美味しいということが理解して頂けたでしょうか」
「よくわかりました」
イングランド料理とコックさん、ごめんなさいと私は心の中で呟く。
さすがに大きすぎて全部は食べ切れなかったけど、フィッシュアンドチップスも、一緒に出てきた紅茶もおいしく頂いた。
「リチャード」
「なぁに?」
お会計をする前に、私はそっと小声で気になっていたことを問いかける。
「ここってチップ要る?」
「ううん。ここはいらないよ。まあ別に払いたければ払えばいいけど」
どういう区別をしているのかは不明ながら、リチャードは軽く答えた。さすがチップに慣れた国の人だ。
お会計を済ませて、ダウンコートを着込んでから席を立つ。
『……』
リチャードが店員のお姉さんに何か言って、お姉さんが諦めたように手を上げたのが見えた。
「さっき、店を出る時何て言ったの?」
その後、近くのお店でお母さんへのお土産である刺繍キットを買ってから、ふと私は思い出して訊いてみた。
「彼女と駆け落ち中だから僕のことは諦めてって言ったの」
「……なんかもう、どこから直していいのかわからない」
恥ずかしくて二度とあの店に行けない。
そう思いながら、私は坂道の上から、雨でけぶる淡い家々の光景を目に焼き付けていた。
午後からはさらに東に行って、オックスフォードに来た。
「オックスフォード大学という大学はなくて、各カレッジの総称がオックスフォードなの」
「ふむ」
「そして」
つい、とリチャードが見上げた先を、私も見る。
「この街全部が大学」
高い建物が辺り一面に立ち並ぶ、日本でいう官庁街のような所だった。
官庁街と違ったのは、どこもかしこも古いということだ。数百年も前の建物が崩れずに残っている。石畳は隅々まで整備されて縦横無尽に走っている。
コッツウォルズがはちみつ色だとしたら、ここはグレーの街だった。それは石畳の色で、私にはそこに重厚な歴史の重みが詰まっているように見えた。
博物館も服のお店もあった。生活に必要なものだけじゃなくて、学生の趣味や楽しみも満たすようだった。
「デニスもリチャードも、オックスフォードのカレッジ出身なんだっけ」
「うん。デニスは入学してすぐ日本に留学しちゃったけど。……あ、危ないよ」
リチャードは私をくいと引っ張って寄せる。その後を、すごい勢いで走り抜けていく自転車があった。
「ただ、オックスフォードのプライマリーにも通ってたから、思い出は多い街だっただろうね。おや」
通りかかった聖堂の周りで、楽器のケースを持って集まっている小学生くらいの子どもたちがいた。
「これから演奏会かな。おお、緊張してるね。がんばれー」
目を細めるリチャードと同じように、私も子どもたちを見て微笑ましい気持ちになった。
制服を着てちょっとおすましした子どもたちを見ていると、デニスにもあんな頃があったのかなと思う。
「デニスはどんな学生だった?」
「ひたすら優秀な子だったよ」
ため息橋と呼ばれている石作りの建物を見上げながら、リチャードは呟く。
「神童っていうのは彼のことだろうね。期待をかければかけるほど、彼はそれに見合うものを返したんだ。子どもながらに英国の誇りだと言われたくらいだ」
私たちは緩く曲がる大通りから、脇の細い道に入った。
「デニスが唯一周りの期待を裏切ったのは、日本へ留学したことだ」
私はつとリチャードを見上げる。彼は慌てて手を振る。
「ち、違うよ。日本を馬鹿にする気はない。ただ珍しい選択だったとみんな思ったんだ」
「いいよ。周りの人たちの気持ちはわかる」
国内最高峰の大学に入学して今まさにエリートコースへ入ろうとしている少年が、突然極東の小国に行くと言い出せば誰だって驚く。
――デニスはどうして日本に来たの?
私もデニスの優秀さはすぐに理解していたから、不思議になって訊いたことがある。
――似ているんだ。僕の国に。
デニスは短く答えて静かに目を閉じた。
――どうしてだろう。どちらも島国だから? 同じくらいの緯度だから? どれも正解である気もするし、違う気もする。いくら調べても、考えても、答えは出ない。
「智子さん、怒ってる?」
ふいにしゅんとした声が聞こえて、私は顔を上げる。
「どうして?」
「僕が日本を悪く言ったから」
横を見ると、リチャードが気落ちした様子で私を見ていた。
私は笑って首を横に振った。
「気にしないで。ちょっと考え事してただけ」
「ごめんね」
「いいよ」
英語圏の人は簡単に謝らないって聞いたけど、そうでもないなと思って見ていた。
リチャードはしばらくしょんぼりしていたけど、私が何度か声をかけている内にいつもの調子を取り戻していった。
「ちょっとごめん。会社から電話」
「うん、ごゆっくり」
リチャードの携帯に電話が入ったようなので、私は彼が電話している間にガイドブックを開いた。
オックスフォードは予想以上に広い街だ。行きたい場所をきちんと決めて地図を見ながら進まないとわからなくなりそうだ。
『どうしました?』
私がガイドブックを斜めにしたりして考え込んでいると、アジア系の大学生らしい男の人が声をかけてきた。
『ボドリアン図書館に行きたいんですが』
『ああ、それはね』
お兄さんは私にもわかるようにゆっくりと、単語を区切って説明してくれた。
『何か用ですか?』
ふいにリチャードが間に入って来て、私は怪訝な顔をしながらもお兄さんに言う。
『ありがとうございました』
『よい旅を』
黒い瞳のお兄さんはちら、とリチャードを見ながらも、にこやかに去っていった。
「人通りの多いところでぼんやりしてちゃ駄目でしょ。ナンパされるよ」
「イングランドの人はナンパしないよ」
「するよ。イングランド人の半分は男だよ。女性だってするし」
「私にはしないよ」
「しーまーす。いいから気をつけなさい」
一体何の話だと周りから見られてるだろうなと思いながら、私はとりあえず頷いた。
とにかく、私たちは高い門をくぐってボドリアン図書館に向かった。
「う。高い」
「せっかくだから入ろうよ。ちょうど時間だし」
見学ツアーは結構いい値段だったけど、ここまで来たことだし入ることにした。
『はい、行きますよ』
英語ガイドなので何を言っているかはあまりわからない。ただ時々リチャードが訳してくれるのでなんとなく把握できる。
本棚に古い本がぎっしりと詰まっている。実際に学生が机で勉強していて、私は音を立てないようにそろそろと歩いた。
ふいに立ち止まって、私は天井を仰いだ。
天井には色鮮やかに絵が描かれていて、柱まで装飾されていた。ランタンで照らしたら、ここは本当に中世そのままの光景が再現できるのだろう。
――ボドリアン図書館には、よく行ったよ。
この中でデニスも勉強したのだな、と思う。
――文字となって無限の時間が残っているんだ。じっと本をみつめていると、時間さえ遡れる気がした。
デニスは時間をさかのぼりたかったのかなとも考える。
彼には時間がなかった。いくら天才でも、超えられないものがあった。
どれほど歯がゆかっただろう。私は天井から目を逸らして俯いた。
「智子さん?」
「あ」
気づけばツアーが終わっていて、私は現在の自分を取り戻す。
「あっちがラドクリフ・カメラ。地下で図書館とつながっててね。中は図書の閲覧室になってるの」
ドーム状の均整のとれた建物が目の前に見えていて、私は頷く。
リチャードの案内で、いろいろな建物を紹介してもらいながら歩いた。オックスフォードのカレッジにはそれぞれ聖堂や図書館がついているらしいとも聞いて知った。
脇道に入るとどこか別の世界に入っていきそうな気がした。それは面白そうで、どこか恐ろしい。私はリチャードとはぐれないように横を歩いていた。
大通りに出て、リチャードはつと向かい側を指す。
「あれがアリスショップだよ。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のね。入ってみる?」
「かわいい店だね。うん、行ってみよう」
赤く塗られた、ドールハウスみたいなお店に私たちは足を踏み入れる。
二人で手を広げたらいっぱいくらいの小さなお店には、所せましとばかりにアリスにちなんだグッズが売られていた。
「子どもの頃はアリスの物語が怖かったな」
「そうなの?」
「うん。なんだか不気味で」
挿絵の絵葉書を眺めながら、私はぽつぽつと話す。
「マッド・ハッターとか、なんでこんなこと言うんだろうと思ってた」
「君の感覚は正直だよ。アリスの物語は「ナンセンス」だから」
私が首を傾げると、リチャードはゆっくりと返してきた。
「理解できない。意味不明。ちょっと視点を変えると、ディスコミュニケーション」
「ディスコミュニケーション?」
「君の国の人が作った言葉だがね。コミュニケーションがそもそもできないことなんだ。アリスの迷い込んだ世界は異世界で、何もかもがアリスの常識とは違う。だから会話がどこまでも平行線になってしまう」
「難しい……けど、何となくわかる」
私は少し考えて、じっとリチャードを見る。
「つまり、言葉は通じてるのに心が通じない感じ?」
「そうともいえるかもしれないね」
「なるほど」
「よしよし。よく考えた」
頭を撫でられて、私は頭の端で思う。
デニスとは言葉は通じていたけど、心は通じただろうかと、ぼんやりと考える。
不思議なことにデニスは私の考えていることをぴたりと当ててみせたけど、私はなかなか彼のことがわからなかったものだ。
「ちなみに、大人になってからアリスを見てどう思った?」
「うーん、相変わらず違和感はあったけど」
指を立てて、私は自信満々に言った。
「ジョ○ー・デップがかっこよかったから、あんまり気にならなかった」
「あはは。違いない」
それから二人で門をくぐって、ひときわ立派な聖堂の建物に入った。
「はい。ここはオックスフォードのエリート生が集うカレッジ。クライストチャーチ」
「デニスの入学したカレッジだね」
入ってすぐに中庭が見えた。サッカーどころか野球くらいできそうな、だだっ広い芝生が広がっていた。
「確かイングランドのクライストチャーチって、あの魔法学校の映画のロケ地だったよね」
「ああ、著作権の関係上名前を言えないあのファンタジー?」
君好きだったよね、とリチャードが言うと、私はこくこくと頷く。
「だったらさっきの図書館も写真に撮ればよかったのに。ロケ地だし」
「ガイドさんが早くてその暇がなくて」
「じゃあ今度こそ写真に収めなよ」
私は石作りの階段の下に来て、思わず震える。
あのシーンだ、と心が飛び跳ねる。
「リチャード、こっちこっちっ」
私は階段を駆け上がってリチャードを招く。
「ここに校長先生が立っててね、そこにトムがいるの」
「なかなかマニアックなシーンをチョイスするな」
「撮って。このポジションで」
興奮してカメラを渡す私に、リチャードはくすりと笑う。
「仰せの通りにしますよ。ハーマイオニー」
リチャードがカメラを構えた瞬間、ふと私は我に返る。
表情が凍って、床に目を落とす。
「どうしたの?」
私の変化にリチャードも気づいたようで、カメラを外して階段を上ってくる。
「……ごめん。すぐ戻るから」
私は早足で階段を下りる。
中庭を横目に聖堂の中に入った。人のいない奥まで来て、ぺたんと床に座る。
さっき、私は何をしていたんだろう。
ここにはデニスの姿を探しに来たのに、自分の楽しみばかりでいっぱいになっていた。
必死でみつけなければいけない。時はどんどん流れてしまう。デニスが古い時に押し流されてしまう。
もう一度、君をみつけることができたなら。今度こそ私は……。
床の冷たさも感じないままに、私はじっとそこにうずくまっていた。
「離れちゃ駄目だよ。会えなくなったらどうするの」
すっと、リチャードが目の前に屈みこんだ。
「何を考えているの。話してごらん」
緑色の鮮やかな目で、リチャードはじっと私をみつめる。
「私、はしゃいで、笑ってて」
「うん」
頷くリチャードに、私は続ける。
「でもデニスは二度と好きだった本も読めない。綺麗な建物の中に立てない。笑えない」
私は口元を歪める。
「私は何をしに来たんだろう……」
呆然と呟いて俯いた。
ふいに頬に温もりを感じた。
「君は好きなものを見て、好きなように過ごせばいい」
リチャードが私の頬を両手で挟んで、覗き込むように私を見ていた。
「悲しくなったら泣けばいいし、楽しければ笑えばいい。何もかも、君の思うようにすればいい。君は生きてるんだから」
にこ、と笑って、リチャードは首を傾ける。
「ただ、僕は君を楽しませる。笑わせる。僕はそのために君に会ってるんだから、それも止めないでよね?」
私の手を取って、リチャードはそっと言う。
「まだ見せたいものがたくさんある。行こう」
どこかで鐘の音が聞こえていた。