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タイム・トラベル  作者: 真木
2/11

第二話 The good old country <前>

 イングランドで迎えた初めての朝は、あいにくと爽やかではなかった。


「ああ、降ってる」


 朝六時半過ぎ、もぞもぞと起き上がって窓の外を覗いたら、既に雨が降っていた。


 この国は雨が多いことでも有名だ。ある程度覚悟はしていたので、私は多少の諦めと共に朝食へと向かった。


 グランドフロアーにあるレストランに入って、私は朝食券を見せる。


『ここだよ』


 ウェイターのお兄さんは少し歩いてくるりと振り向くと、バイキング方式になっている料理を示して、あっさりと去っていった。


 どうやら好きな席に座って好きなものを取ればいいらしいと、私はトレイを手に取る。


 オレンジジュースをコップに入れて、無造作に積まれているトーストを一切れに一個のバターを皿に乗せて、さらになぜか四種類もあるシリアルの中から何だかフルーティなものを選んで牛乳をかける。


 ふとベーコンのいい匂いがするのに気づいて、引き寄せられるようにしてそちらに足を向ける。


 別のコーナーに湯気を立てているベーコンや卵があった。たんぱく質が欲しくてトングを探すけど、なぜかここにはそれがなかった。


『何か要る?』


 どうしようかな、とその場で止まっていると、カウンターの向こうから黒髪のお兄さんが声をかけてくる。


『これください』


『オッケー』


 私がベーコンを指さすと、お兄さんは気安く頷いて皿にベーコンを乗せた。


 山盛りにされて、ベーコンばかりこんなに食べられるかな、と不安に思った時だった。


『4ポンド50ペンス』


「え?」


 お金取るのかい、と軽く目を見開いて驚く。


 しかも4.5ポンドって、日本円に換算すると600円くらいだ。ベーコンばかりでそれはあまりに高くないかねお兄さん、と思わずじっとウェイターさんの顔を眺める。


 しかし、お皿に取ってまでもらって、それやめときますとも言えない。というか、やめるって英語でどう言えばいいのか咄嗟にはわからない。


『……ありがとうございます』


『いえいえ』


 結局ありがたくお金を払うことになって、私はがくりと首を垂れる。


 歩き始めて一度振り返ってみると、隅に値段表が書いてあった。どうやら温かいものは有料らしい。早速失敗してしまったと思いながら、私は重くなったトレイと軽くなった財布を持って席についた。


 朝食は、まあおいしかった。ベーコンが少し重くて全部は食べられなかったけれど。


 今度はちゃんと無料かどうか念入りに確認してコーヒーを飲んでから、レストランを後にした。


部屋で歯をみがいていると、ノックの音が聞こえた。


「おはよー。よく眠れた?」


 リチャードはグレーのセーターにジーンズというラフな格好で、靴もスポーツシューズを履いていた。昨日は仕事帰りだったらしくスーツ姿だったけど、これが彼の私服らしい。


 限られた服しか持ち歩けない貧乏旅行者としては、彼くらいのほどほどに崩した格好の人といる方がありがたい。


「トラッドは着ないんだね」


「んー? いや、持ってはいるけどさ」


 伝統的なトラッドスタイルで、常に上質な革靴を履いていたデニスをちらりと思い出して言うと、リチャードはにこっと笑う。


「堅い服は堅苦しい時に着ればいいの。楽しみたい時は楽しめる格好が一番」


「それもそっか」


 私はこくんと頷いて、洗面所に向かおうとする。


 ふと私は顔を押さえて言う。


「あー……リチャード」


「なぁに?」


「ちょっと待って。今からその……塗装工事をするから」


 メイクというには気恥ずかしいほどの下手さ加減なので、やや小声で言ってみる。


 リチャードは少し考えて、ぷっと吹き出す。


「ははっ。いーよ、ごゆっくりどうぞ。塗装工事」


「うん、ごめんよ」


 ぷぷっと笑いながら、リチャードはベッドサイドに頬杖をつく。


「君もメイクするようになったか。そうだね、もう大学生だもんね」


 洗面所に戻る私の後ろの方で、リチャードが感慨深げに呟くのが聞こえた。


「よし。工事が成功したところで行こうか」


 大急ぎでメイクした後、バックパックを持って部屋を出た。


『ありがとう。よい旅を』


「せ、センキュー」


 コンシェルジュにキーを預けると、インド移民系のお兄さんはにこやかに手を振っていた。


 駐車場まで来て助手席に乗り込むところで、私は短く声を上げる。


「レクサスだ」


「あれ? 知ってるの?」


 眠かったから昨日見た時は気づかなかったけど、リチャードの車は日本車だった。


「日本車ってイングランドでは評判いいんだよー。僕もこれ、お気に入り」


「ふーん」


「ロールスロイスとか乗ってきてほしかった?」


「いや。君は私をどこへ送迎するつもりなの」


 私にどう反応しろというのか。傷つけるのが怖くて近寄ることもできやしない。


「……あれ?」


 でもレクサスも高級車だったような……と一瞬疑問がよぎったけど、いつまでも立っているわけにはいかないので助手席に乗り込む。


 朝のロンドンは昨日とは少し印象が違っていた。薄暗くて、雨が降っているからかどこか閉塞的だった。


 抑えた色調だから目立つものも少ない。建築規制をして同じような建物なのも、今日は妙に味気なく感じる。


 暖房が効いて、あまり揺れない車内から見ると、まるで現実味のない光景だった。おもちゃの家を覗き込んでいるような、そんな気分になる。


 そういえばいつも騒々しいくらいのリチャードも何も言わないな……と考えていると、頭の裏側から眠気がもたげてきた。














 デニスは三年前の夏に日本に留学して、私の家にホームステイしていた。


 私は十六歳、デニスも同い年。ただデニスは非常に優秀だったらしく、飛び級して既に大学生だった。


――ごちそうさまでした。おいしかったです。


 ブルーブラッドを自負して、何をするにも礼儀正しく慎ましやかだったデニスは、来日時から既に流暢な日本語を操っていた。


――明日から島根に行ってきます。明後日の夜に戻りますが、夕食は要りません。


――島根って、どこに行くの?


――出雲大社です。


 高校生の私は出雲大社の歴史的意味も知らず、きょとんとしていた。


 二日間もかけて田舎の神社に行くなんて、物好きな外国人もいたものだと思っていた。


 夕食後にデニスの部屋を訪ねたら、彼は塵一つ落ちていない床にたくさんの資料を並べて見下ろしていた。


――これ、全部出雲大社の資料?


――そうだよ。


 足の踏み場もない紙の束に、私は部屋に入ることもできずに立ち竦む。


――観光に行くなら、京都とかを見ればいいのに。


――京都は「都」だ。


 眉一つ動かさず、デニスは座ったまま私を見上げる。


――僕の求めるものじゃない。古き良きものが日本にはたくさんあるから、僕はこの国に来たんだ。


――古き良きもの?


――そう。心の故郷があるところ。それがあるのは田舎だ。


 デニスの言うことはいつも難しくて、私はなかなか理解できなかったのを覚えている。


――わからない。どういうこと?


 だから思った通りのことを答えた。頭の軽い子だと思われても仕方ないくらいのあっけなさだったと思う。


――そう……。


 けどデニスはそんな答えばかりする私を嗤ったりしなかった。その意味で、彼は真に高貴な人間だったのかもしれない。


 禁欲的な眼差しでデニスは細かい字が無数に印刷された資料を見下ろしてから、つと顔を上げる。


――智子。君の故郷は?


――私はここだよ。今住んでるところ。デニスは?


 そこで少しだけ目を細めて、デニスは呟いた。


――僕は……コッツウォルズのボートン・オン・ザ・ウォーター。亡くなった祖父の家がそこにあったんだ。


 デニスがそう言ったものだから、私は次の日に図書館に行ってコッツウォルズの本を探した。


 田舎の図書館だったから書架には並んでいなくて、司書さんに相談して書庫から関係する本を出してもらった。


 そして私が見たのは、どこか懐かしい気配のする色合いの家々だった。


 作りも色彩も日本人の私には全く馴染みがないはずなのに、そこは確かに故郷の香りがしていた。
















 ぽふぽふ、と頭に不思議な感覚がして、私は目を開けた。


「……リチャード。何してるの?」


「なでなでしてる」


 リチャードは右手で運転しながら、左手で私の頭を触っていた。


「危ないでしょ」


「それは事故という意味で? セクハラという意味で?」


「両方だ。ヘンタイドライバーめ」


「わー、ごめんなさいー」


 おどけて両手を上げるリチャードに、私は目を怒らせる。


「こら、ハンドルから手を離すな」


「だって智子さん、全然僕の相手してくれなくて寂しいんだもん」


「二十六の大人が寂しいんだもんなんて言わないの」


「いくつになっても寂しいものは寂しいんだもんー」


 これでデニスより七つもお兄さんだなんて信じられない。リチャードは実に正直に感情を口にする。


 けど窓に向きなおって、私は腕時計の針が指す時間に気づく。


「あと十分くらいで着くよ」


 ホテルを出発しておよそ二時間以上経っている。その間、おしゃべり好きのリチャードはずっと黙って私が眠るままにさせておいてくれたことになる。


「あの……」


 時差ぼけとかでだるい私を気遣ってくれたのかな、と思って、お礼の一つも口にしようとした時だった。


「今、雨止んでるから窓開けていい?」


「いいけど。寒くない?」


 リチャードはなぜか含み笑いをして、ウインドーを下ろした。


 がくん、と私は前のめりになる。


「……なっ」


 ジェットコースターの一番高いところに来たような気分だった。


 急斜面の坂の真上から、私たちを乗せた車は勢いよく滑りだす。


「ちょっ、ブレーキはっ?」


「ははっ。そんな野暮なもの踏む奴いるの?」


 ブレーキと野暮の関係性を考える間もなく、車はほとんど落ちるようにして坂を走っていく。


「危ないよっ」


「聞こえなーい」


 ピイ、と口笛を吹いて、リチャードはくすくす笑う。


 窓から風がビュンビュン入ってくる。寒さなんて感じている暇はない。窓を開けたがった理由はこれか、と私はリチャードを睨む。


 時間にして数分のジェットコースターを終えて、私はがくりと肩を落とす。


「イングランドって山がない代わりに丘が多くてね。その丘を切り開いたからこんな愉快な地形になってるの。わかった?」


「思い出したような解説をありがとう」


「喜んでもらえて嬉しいな」


 そんなことを言い合っている内に、車は小さな村の駐車場に着いた。


「ボートン・オン・ザ・ウォーター村に到着―」


 リチャードが手を広げて、それからこいこいと手招きする。


 そんなリチャードと高い石垣に誘いこまれるように小道を行くと、視界が開けた。


「……ふふ」


 立ち並ぶ一戸建ての家々を見た瞬間、思わず私は微笑む。


「なぁに、智子さん?」


「童話の中に来たみたいだなぁ、って思って」


 ここは、子どもの頃絵本で読んだ世界のような村だった。


「ピーターラビットとかクマのプーさんとかが、その辺から出てきそう」


 実際は、ピーターラビットは湖水地方、プーさんはアッシュダウンフォレストがモデルだと調べて知ったけど、つい似ていると思ってしまうのだ。


「まあ、イングランドの小さい村ってことに変わりはないかな」


 リチャードもそのことはもちろん知っているだろうけど、私の言葉に頷いてくれた。


 道路を挟んだ向こう側に小川が流れていた。その両端を緩く弧を描きながらつないでいる橋で、私は手すりに頬杖をつく。


「物語はもう覚えてないんだけど、かわいくて綺麗な絵だった」


 どちらも子どもの頃大好きだった絵本だ。


 木々の間に小川が流れて、こじんまりとした可愛い家が建っているだけの風景なのに、見ていると優しい気持ちになる。


「あれがコッツウォルズ地方の名物、はちみつ色の石壁?」


「そうだよ。どこの家も大体この色なんだ」


「はちみつっていうよりは、バターみたいだけど」


 金色に近い色をしている家々の壁を見ながら、私は考える。


「でもそっと光ってるところは、はちみつに似てるね」


 黄金や宝石とは違う、淡くてささやかな光の色だった。


――懐かしいっていう気持ちは、切なさに似てるよね。


 私は一息ついて目を細めた。


 デニスの言葉の意味が今少しだけ理解できた。望郷の心は確かに切ない。


 幼い頃に好きだった光景は、ずっとそのまま残しておきたいと願う。それは他に代えることのできない宝物だから。


 リチャードと小川の脇道を歩いていると、雨が降って来た。


「傘ささないの?」


「うん」


 私が慌てて傘を広げているのに、リチャードはのんびりと答えた。


「持ってないもん、傘。僕のことは気にしないで」


 そうはいっても濡れてしまう。私は一つ頷いてリチャードに持っていた傘を押しつけた。


「これ貸すから。差しなさい」


「え、じゃあ君どうするの?」


「私にはこれがある」


 私はバックパックから雨カッパを取り出して被った。


「さあ行こうか」


「こういうのなんだっけ……ああ、そう」


 リチャードは私を頭からざっと見回して呟く。


「座敷わらし」


「私とレインコートに謝れ」


「だって」


 くっくっと笑って、リチャードは私に傘を差しかける。


「二人で入ればいいだけでしょうが。さあご機嫌を直して、お嬢さん」


 何だか気にいらなくて私がむっつりしていると、リチャードは少し先の小さな看板の店を指さす。


「お兄さんがチョコレートでも買ってあげよう」


 入った店は日本でいう駄菓子屋さんのような所で、小物とお菓子が売っていた。そしてそのお菓子の棚の半分がチョコレート菓子だった。


「心なしか高い」


「チョコレート税がかかってるからね」


「え、なんで?」


「んー、肥満防止だったっけ?」


 リチャードも忘れたようで、少し首を傾げていた。


「まあいいや。せっかくだから自分で買う」


 結局私はチョコレートでコーティングされたクッキーを買った。


外に出て、霧雨の中、私たちはまたぼちぼちと歩く。


「あ、ちょっと寄っていい?」


「もちろん」


 私は途中で郵便局に寄って、そこで絵葉書を買った。


「誰に送るの?」


「田舎のおじいちゃんとおばあちゃん」


 日本にいた時は現実にあるとは思えなかったような、まさに絵のようなコッツウォルズの風景を選んでみた。


「ええと……郵便の送り方は、と」


 ガイドブックを開こうとした私から、リチャードはひょいと本を取り上げる。


「普通に文面と住所を日本語で書いて、あとは大きく『BY AIR MAIL』。それを窓口まで持って行って切手買って貼って、ポストへ放り込む」


「自分で調べるのに」


「ふん。僕がいるのにガイドブック開く智子さんが悪いんだ」


 ちょっと拗ねた感じでリチャードが口をへの字にした。


「わかったよ。今度から訊くから」 


 私はリチャードをなだめて、数歩分しかないこじんまりとした郵便局の奥へと向かう。


『エアメールです』


『67ペンスよ』


 銀縁眼鏡のおばちゃんが切手を取り出しながら言う。


 私は財布を開いて、たら、と冷や汗をかいた。


 イングランドの小銭は数字が記載されていないものが多い。しかも、慣れない硬貨なものだからさっぱり区別がつかない。


「えと」


 たぶんサイズ的に大きいものの方が価値も大きいはず。そんなことを漠然と思いながら、私は小銭を手のひらの上に出す。


おたおたしながら私がいくつかの小銭を差し出すと、おばちゃんは明るい声で言う。


『あら。よくできたわね』


「おお。確かに67ペンスだ」


 横からリチャードも覗き込んで頷く。


『ありがとうね、お嬢さん』


「ど、どうも」


 手をひらひらさせて代金を受け取ったおばちゃんに思わずお礼を返して、私は窓口を離れた。


「どうしたの?」


「……リチャード」


 切手を貼って絵葉書をポストに入れてから、私は難しい顔をする。


「東洋人ってそんなに幼く見える?」


「まあ、一般的にはね」


 リチャードは私の頭をぽふぽふ叩いて言う。


「でも君が幼く見えるのは、君が童顔だからだね」


「真実だからって言っていいことと悪いことがあると思わないかな?」


「君が訊いたからじゃんー」


 それからまた、街を川沿いに歩いた。眠気を誘うくらいのんびりとした、緩やかな時間だった。

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