私からあなたたちへ
投稿かうまくいかない理由、どうやら私のPCが原因みたいです。
それではラス前投稿します。
朝、起きて居間に行くと荷物が散らばり冷蔵庫が開けっ放し、タンスが荒らされているのです。
私は空き巣に入られたと思ったのですが、玄関などのカギはすべて掛かっており、しかも財布はテーブルの上にあったのです。
私は気味が悪くなり、実家に行き自宅であった出来事を伝え警察を呼んでもらい調べてもらったのですが、空き巣の犯行である証拠は出てこなかったのです。
身内の犯行?まさか、そんなはずはない。ではだれが?何の目的があって?家には私しか住んでいないのに?そう考えながら散らばったものを片付けて1日が終わるのでした。
その日の夜は怖くてなかなか眠れず夜を過ごしました。
翌朝、いつの間にか眠ってしまったようで目を覚まし。おっかなびっくりしながら居間に行くと何事もなくきれいなままでした。私はホッとしてこのまま何もなければいいと思いその日からいつもの日常へと戻ったのでした。
それから2週間が過ぎ、また異変がありました。今度は朝から実家の手伝いをしていた時です。なぜか自宅にいるのです。さっきまで実家にいたはずなのになぜ?しかも朝手伝いを始めたばかりで確か午前の7時だったはずが、今時計を見ると13時なのです。
慌てて実家に戻り様子を見に行くと突然私がいなくなっていて、いまみんなで私を探しているとの事でした。妹が携帯で探しに出払った人たちを呼び戻してくれました。
・・・嫌な予感がします。
また2週間が過ぎ異変はまた起きます。朝起きると泥だらけで眠っていたのです。
言い知れぬ不安と「もしかして?」という不安が頭をよぎりながら日々を過ごしていましたが、数日おきに異変は何度も続きました。
ある日、妹と長兄に頼みその日は私の家に泊まり込んでもらうよう頼み、その日実家の手伝いなど「いつも」を終えて就寝。
翌日私は目を覚まし周りを確認しましたが、何事もなさそうなので安堵、起床して居間に向かうとそこには疲れ果てた様な顔をした妹と長兄が待っていました。
私は不安に駆られながらも覚悟を決めて尋ねてみました。妹が夜中に台所から物音が聞こえるので起きて行ってみると冷蔵庫を開けて夕飯の残りや買い置きを貪るように食べている私の姿があったそうです。
妹は慌てて私を止めようとするが言う事を聞かず暴れたそうです。最後には長兄も参加して何とか落ち着かせて私を眠られる事が出来たと言う事でした。
私にはそのようなことをした記憶が全くありません。呼吸が荒くなり動悸が激しくなっていましたが深呼吸をしながら自分を落ち着かせながらある答えを導き出しました。
―異常行動、徘徊、「忘れた」ではなく「知らない」、決定的ですね。―
―”痴呆”です―
今は「認知症」とも言います。
少し前に一連の私の行動を思い出しテレビで見た番組での症状に似ており、念のためインターネットでも調べてプリントアウトもしておきました。そして該当する症状の文章に赤線を引き保管してました。
私は畑山家本宅に長兄達を集めてその資料をに見せながら自身におきている症状、そして病名を説明しました。
その説明を聞いた姉弟達は「そんなばかな!」「何故頼子が・・・」と言いながら私の身の上に起こっている現状を理不尽に思い悲しんでくれました。
翌日から私は即座に行動に移しました。
まず、病院へ行き数日掛けて入院しながら検査、診断をしてもらいその結果「認知症」であることが確定した。
結果を聞いた私は軽く眩暈を覚えながらも覚悟はしていたので次の行動に移りました。
まずは田舎の自宅を処分。これは親族たちに反対されましたが、私の頑なな気持ちに絆されて最終的には「どのみち自分の隠居場所で別宅が欲しかった」と言う事で弘樹くんが購入してくれた。
身の回りも必要なもの意外はすべて処分。貯金の残高も既に確認済み。
予め調べておいた特別養護老人ホームに連絡をして空きがあることを確認。直ぐにでも入居は可能であると言う事で、私は躊躇いもなく入居の申し込みをした。
話をどんどん進める私に困惑しながらも説得を続ける長兄を始めとする姉弟達、そして長兄達から報告を受け慌てて駆けつけてきたわが子たち。
「それくらいの面倒は見るから考え直してほしい」と何度も皆が言ってくれるが、私ははっきりとこう告げました。
「止めても無駄です。そもそも痴呆の介護はみんなが肉体的、精神的にも限度があります。今、私はこのように自覚があるけど、日を追うごとに間隔が短くなり、遂には毎日になるんです。1分でも目を離すと何をするかわからない。目を離す事が出来ないそんな日々をみんなは出来ますか?24時間365日何年続くかわからないんですよ?最悪となるとそこに下の世話まではいるんですよ耐え切れますか?」
皆は押し黙ります。「だがしかし!」と言ってくる人もいます。
「私は皆にそんな迷惑をかけるのは御免です。それならば専門のスタッフがいて交代で人員の監視も付く設備に御厄介になったほうが安全なんです。」
姉弟、家族、親類と何度も話し合って、ついには私の意見に折れる形となりました。
こうして、私は施設に自ら入居し最期の時を過ごす事としました。入居した部屋は意外にも広く浴室など普通に生活できる設備もあり、普通のアパートのような造りでした。
私は備え付けのタンスの上に一郎さんの遺影と位牌、家族達、子供達と一緒に撮影した写真を置き、自分で作った写真入れを首に掛け一郎の写真を入れました。
「これから日を追うごとに多分私は症状が悪化していって、皆様に御迷惑をおかけしますが宜しくお願いします。」
と看護師や介護士の方々に挨拶をすると困ったような表情を浮かべておりました。
―さあ、一郎さん2人きりになりました。しばらくはみっともない姿をお見せすることになりますが、我慢してくださいね?―
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
・・・・・・・あれからどれくらい時間が経ったのでしょうか?
眠りから目を覚ました私はベットに横になりながら辺りを見回しました。まだ起きたばかりのせいか頭がボーっとしてます。ベットから体を起こそうとした時、身動きが取れません。手足が縛られていたのです。私は声を掛けます。
「看護師さーん、介護士の方ー、誰かー誰かいますかー?」
直ぐに廊下からパタパタと音がして看護師らしき人物が部屋に入ってきて私に声を掛けてくれます。
「頼子おばあちゃんどうしたの?何か用ですか?おむつが濡れましたか?」
柔らかい口調で言って顔を近づけ、私の様子を見てくれます。
「ええと、大丈夫です。わたしおむつしてたんですね・・・と大丈夫そうです。ところで私正体を失ってからどれくらい経ちましたか?あとすいません。出来れば手足の固定を外してもらえませんか?」
とお願いをすると大きく目を開き「え?何で?信じられない・・・」と小さくつぶやいていました。
とりあえず手足の固定を外してもらい体を起こしました。改めて部屋の中を見回すと、写真や壁に貼られている手紙などがいくつもありました。
入居当初の頃の記憶がいくつかありますが、あれから記憶がない時も息子たちや家族が来てくれていたのでしょう。持参した写真よりも増えているようです。
「すいませんが手鏡をおねがい出来ますか?それと子供たちや兄弟が来たのはいつか分かりますか?」
「はっはい!ちょっと面会記録など調べてきますね」
と看護師さんはアワアワしながら部屋を出て行きました。
―ハタケヤマヨルコ、夫はイチロウ、長女リンコ、次女ランコ・・・・・・・・・―
頭の中で自分自身や身の上などを思い出し、噛みしめながら手足は思い通りに動くかも確認をした。
ふと壁にあるカレンダーを見ると私が記憶している年月日から2年と数か月経過していることを確認しながら「もうそんなに経ったのか」とはあ~っと溜息を漏らしました。
そうして色々と確認しながら考えていると看護師さんがメモを片手に戻ってきました。
「お待たせしました。ご家族の方々とご兄弟の方々は半年に1回のペースで来院してます。記録では先月に来てましたからあと5か月後位ではないでしょうか?」
と答えてくれました。
―もしそうだと間に合わないかもしれないわね。―
「看護師さん、明日でいいから便箋とペンをお願いできますか?」
「ええと、そういうのは規則で決まっていて・・・」
「あら、そうなの?じゃあ自分で購入するのは大丈夫かしら?」
「それなら大丈夫です。それでは・・・・・」
私は多分正気に戻った事を伝え、それから看護師さんに私が出来る可能な物を色々尋ねて、自分が今出来る事は、おおよそは何とかなることが分かりました。
そして持ってきてもらった手鏡で自分の姿を見てみると思わず溜息が出ました。
「ああ、もうこんなにしわくちゃになって・・・私が覚えている自分の顔の記憶とまるで違うわね~」
今は夜の21時48分。とりあえず看護師さんに礼を言い退室してもらった。
「明日は「ボケて」いなければ良いけど」と不安を覚えながら眠りにつきました。
翌朝、目を覚まし時計と年月日を確認。あれから睡眠時間以外は時間が経過していないことを確認ホッとしました。
再び自分の体調などを確認しながらふと首にかかっているお守り袋?らしい物を手に取り、袋の中身を確認すると一郎さんの写真。そして一枚のメモが入っていたのでみると”机の引き出しを見なさい”と私の字で書かれていた。
引き出しを確認(どうやら足腰はしっかりしているらしく歩行が可能でした)すると1冊のノートがあり開いて読むと、私の正気を失う直前や、1時的に正気を取り戻した時の頃の確認メモや日記が記されていた。
「読んでいくとわかるわね。思い出せない記憶があるもの。この写真入れも最初に作ったはずなのに覚えてないものね・・・・・」
ノートの中身を読んでいくうちに自分に何が起きて行っているのか、不安である気持ちが延々と書かれていた。
そのあと食堂へ案内されて朝食を取り(介護は不要と伝えると介護士の女性はとてもびっくりしていた)部屋に戻ると売店の店員が便箋と水性のボールペンを持ってきてくれました。
そしてあの時看護婦さんから言われていたメモリーカードも持ってきてくれていたので購入代金を支払って、私は行動に移るのでした。
「あらまー、今ドキの技術ってそんなことにまでなっているのねぇ~。そんな小さいのに何でもできるようになってるなんて便利になったわね~。それにこのメモリーカード。これってもう「カード」というより「チップ」よね。」
「そうなんです。畑山さんが今持っているデジカメよりもこのスマホの方がきれいに映って、しかも動画・・・ビデオも撮影できるんですよ!」
三日後、事前にナースセンター?にいる看護師の人たちに頼んで「この間の看護師」に是非頼みたいことがあるので時間を取ってほしいと頼んだ。そして言われていたメモリーカードを購入して今、挑もうとしています。
「それではメモリーカードをお借りします。・・・しょっと。よし!大丈夫ですよ。それじゃあいきますよー!3・2・1・・・・・・・・・・・」
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
先日お母さんが亡くなった。
享年74歳、誰に看取られることもなく1人で亡くなった。
私たち姉弟に分け隔てなく接してくれたお母さん。時には厳しく、時にはやさしく私達にとってはかけがえのない母さんでした。
お父さんにはいつでもデレデレして「おとうさん❤」と言ってはいつも抱き付いていてお父さんは「子供たちの前ではずかしいから」と言いながらもまんざらではないような顔をしていてラブラブな夫婦だった。
そんなお母さんに変化が現れたのが、お父さんが亡くなって1年くらいが過ぎた頃おじさんからの電話で「どうも様子がおかしい」と連絡は受けていた。
私は鈴子姉さんと連絡を取って近いうちにお母さんの所に様子を聞きにいってみようと相談した2ヶ月後、突然「老人ホームに行く」と連絡が来て驚いた。
急きょ休みを取って会いに行き理由を聞くと「認知症」を患ってしまったと告白してきた。
私は老人ホームだけには行かないでほしい。私が例え会社を辞める事になっても構わない。私が最後まで面倒を見るからと懇願したが、願いは受け入れてもらえなかった。
何度も話し合った。逝くときは私達のそばにいてほしいからと言っても拒絶されてしまった。
せめてもと入居日には付き添って行った。お母さんは覚悟を決めた顔をして「よし!」と言って、私達と別れる時は微笑みながら「大丈夫ですよ。」と言って私達を帰した。
あの時はしばらく涙が止まんなかったなあ。
お母さんが老人ホームに入居してから半年が過ぎた頃様子を見に行った時は愕然としたものだ。
あのお母さんが、私の知るお母さんが見る影もなく変貌していたのだ。
私達と別れてから一気に症状は進み、もはや自分が誰かも、私たちが誰かも理解できていなかったのだ。
あれから何度もおじさんも私も、みんな愕然としつつも諦めずに話しかけたものだった。
そうしたある日亡くなったと施設から連絡があった。
どんなに寂しかっただろうか、やはり私が預かるべきだった!なんて愚かで人でなしなんだ!と私は自分自身を激しく罵りそして後悔しながらお母さんを迎えにいった。
私が一番らしくあとから鈴子姉さんと弟たちがやってきた。
ベットに眠るお母さんは東京にいた時に私達姉弟と一緒に撮った写真とお父さんの写真を抱きしめ、静かにそして優しく微笑んでいた。
看護師さんが言うには亡くなる6日前から正気に戻っていたらしい。なぜ連絡をくれなかったか看護師に聞くと頑なに連絡をしないでほしいと私達へ連絡をされること拒否したそうです。
葬儀のためお母さんから抱きしめている写真を取ろうとしたらしっかりと抱えられて取れないという。そんなに家族が大事なら連絡位してくれ!とも思った。
通夜が行われる前にお母さんの荷物を整理していると1通の手紙とその中からメモリーカードが出てきた。
あて先は「子供たちへ」とお母さんの字で書かれていた。
私は手紙を開き母からの最期のメッセージと確信して読むのでした。
最期までお読みいただきありがとうございます。
何度か投稿しては予約が消えてバックアップも消失
それでも投稿したくて何度も投稿
そうしているうちに「あれも」「これも」と内容を増やしてしまい
最終話までに今回も含め2話も増やしてしまいました。
すいませんでした。
それでは今度こそ次回は最終話「最初で最後の愛してる」
10/16の8時に投稿します。