押入れ
うだるような暑さから逃れるようにワンマン列車に飛び乗った。夏の駅のホームは金属の線路から直に熱が伝わってくるような気がする。乗り換えのために階段を上がって下りるだけなのに、湿気の混じった嫌な暑さが体中の毛穴から汗をかかせる。背中がかゆい。
私はいつものように列車の最前列の席に座ろうとすると、珍しく先客がいた。小中の間同級生だったA君だった。同じ班になった時はそれなりに喋ったが、遠方の大学へ行ったと聞いていた。最初は気づかないふりをしようと思ったものの、なんとなしに気になっていたら、座っていた彼としっかり眼が合ってしまった。彼は私を見て、驚いた顔になる。
「久しぶり。一色先生」
彼は軽く手を挙げて、隣の席を空けた。少し話そう、ということなのだろうか。気まずかったが、座らせてもらった。彼の身体から柑橘系の制汗剤の香りがする。私の汗の臭いには気づかないでいてほしい。
「一色先生って。まだそんなあだ名覚えていたんだ?」
私はそう言いながら、首に張り付いた髪を払った。何のためにシュシュで結んできたのかわからない。小中学生時のようにばっさり切ってしまったほうがいいのかもしれない。
「そりゃね。むしろ本名よりよく覚えてる。男っぽいペンネームだよね。……今でも小説、書いてる?」
「書いてるよ。趣味の域だけれどね。ペンネームも同じまま」
「一色妄郎?」
「そう。厨二っぽいでしょ。でも他に思いつかないから」
私は努めて平静な口調を心がけていた。大学では女友達ばかりと話しているから慣れない。とは言え、出発までの三分と到着までの七分の間、ずっと沈黙するのは耐えられなかった。私は次々に当たり障りのない質問を振った。
今日は何の用事だったのか。大学はどうか。サークルは。一人暮らしは。
A君はどれも淀みなく答えた。彼は昔から明朗快活で、誰とも話せる人だった。本ばかり読んでいた私とは違う。
「今日は暑いけど、駅からは自転車なの?」
「ううん。親に迎えに来てもらう。自転車は下宿先にあるから。一色先生は?」
「私は辛いけれど、歩いて帰るつもり。自転車壊れちゃってて」
「でも、今日はしんどいんじゃない? よければ、俺、親に連絡して車で送ってもらうように頼むけど」
すぐさま首を振る。
「そんなことしてもらうわけにはいかないよ。それに私、車に乗るのが苦手で」
「あれ、そうだったっけ?」
「ちょっとね、密閉空間って息が詰まるから」
「ああ、修学旅行で展望台登る時も、一人だけ地上で待っていたっけ」
「その後のお化け屋敷にも入れなかったから、班の皆には迷惑かけちゃったね」
「懐かしいな」
「そうだね」
話題が尽きてしまって、私はA君の視線を逃れるように、下を向く。すると、床には一匹の大蜘蛛が這いつくばっていた。六本の足を動かして、時折無軌道に移動する。それが段々と足元に近づいてきて、私は身体を縮こまらせた。今日はヒールが低めのサンダルを履いている。何か間違って、足から上ってきて、ひらひらのスカートの下からブラウスの下を這い、首元、顔、髪、頭を己の陸地のように徘徊するとしたら。私はぞっと血の気を失いながら、大蜘蛛を凝視する。ああ、嫌だ。気持ち悪くて、吐きそう。そのうち、口に入って、身体中を食いつくすのかもしれない。
「いやだな、もう」
A君は私の引きつった顔に気づいたらしい。蜘蛛をスニーカーで容赦なく踏み潰した。ぐちゅり。聞こえないはずの断末魔が耳の奥で響く。
私たちは共に終点で降りた。使われなくなったコンクリのホームを横目に、軽い段差を下って、くたびれた木造駅舎を通り抜けた。私は再び汗がじわりと服に滲んでいくのを感じて、めまいを起こしたくなる心持ちだった。帰ったら一番にお風呂に入りたいものだ。
「じゃあ、これで」
出口で軽く手を上げると、彼はスマホの画面を一瞥し、困った顔になった。
「いや、親が来られないらしくて。俺も歩いて帰るよ」
彼は私の隣に並ぶ。ますます妙な具合になった。互いの家の方向からすると、結構な距離の間一緒になってしまう。
「そっか」
曖昧な言葉で気まずい気持ちに蓋をする。高校生ぐらいの頃なら、素直に浮き足だっていた。だが二十年生きていくうちに、私の心はひねくれてしまった。親切心を特別な好意だと恥ずかしい勘違いはしたくない。
駅からの一本径を進むと、車の多い旧街道に出る。エンジンから吹き出す熱風のためか、一段と蒸し暑さが増す気がした。忌々しい蝉の声が上下左右もわからず響いてくる。私は水筒のお茶を一口含み、喉の渇きを癒した。
途中、庭先で水遊びをしている子供たちに出会うと、A君はぽつぽつと続けていた世間話を切り上げて、唐突にこんなことを言い出した。
「子どもってのはさ、その時、自分がどんなに残酷なことをしたのかわかっていないと思うんだ」
「それは真面目な話?」
「うん」
彼は私を見て、頷いた。汗で湿った髪をかきあげようとしてやめる。
「ほら、子どもってさ、小さな生き物で遊ぶだろ? 蝉の抜け殻を探したり、カブトムシの幼虫を育てたり、手の上でダンゴムシを転がしたりさ。でも、それだけで終わるわけじゃなくてさ、平気でバッタの足をもいだり、カマキリの鎌に手を伸ばしたり、チョウチョの触覚をちぎったりする。小さな生き物にも命があるんだよって教えられるけれど、小さな生き物は遊び道具でもあるから、絶対壊しちゃうんだ。子どもは壊すのだって、楽しい遊びだから。残酷なイタズラを簡単に思いつくんじゃないかってさ」
「それはそうかもね」
私も近所に同い年の子どもがいなかったから、ほとんど一人で遊んでいた。公園や庭での土いじりは、夏の暑さにも冬の寒さにも負けないほど私にとっては楽しい遊びだった。
「でもさ、大人になったら、子どものころのことなんて忘れてしまう。どんなイタズラをしたって、大人は許してくれるし、ほとんどの場合、それでいいのだと思う。ただどうしたって、誰にでも写真のように鮮明な子どもの記憶というものがある。それが自分の思い出したくないひどいいたずらの記憶だったら、ぞっとする」
「それは嫌だな」
私が肯定すると、彼はそれに背中を押されたのか、こんな話をしてくれた。
「今日みたいな炎天下の日だったと思う。時間はたぶん、夕方だった。アスファルトの照り返しがひどくって、どうして足元が熱いんだろうって思ってた。ほら、ちょうどこの街道沿いを少し外れたところに、平屋建ての集合住宅があっただろ? すごいぼろぼろで、壁に亀裂が入っている、灰色のやつ。夏には雑草が生い茂っていて、ほとんど誰も住んでいないからさ、俺とかもよく秘密の遊び場にしてた。俺は幼稚園ぐらいかな、たぶん。
その頃の俺にはよく一緒に遊ぶ子がいたんだ。髪の長い……女の子。いっつもワンピースを着ている感じだったけれど、追いかけっこや、かくれんぼに平気で付き合う活発な子だったと思う。町内をぐるぐると走って競争していても、俺いつも負けてた。ただ、その子は俺が他の子と遊んでいる時には会わなかった。俺が近くの公園で一人で遊んでる時にだけ現われたんだ。名前は、聞いたのかもしれないけどさ、覚えていない。二人だけで遊んでいたから、ねえ、だけ全部済んじゃうからね。どこに住んでいるかもしらなかったよ。今でも、その子は本当にいたのかなって思う……。
あの集合住宅の周りってさ、誰も住んでいなさそうな荒れた家ばっかりだった。ほとんど山に近かったから、昼間もあの一帯は薄暗かったよ。面している道も、ほとんど誰も見なかったし。あそこでは道いっぱい遊べた。注意する大人にも会わずにすんだ。俺とその子の遊び場だったんだ。だからこそ、俺たちがいずれあの家々そのものに入り込もうとするのはほんとうに自然の成り行きだった。その子とよく隠れんぼをしていたけれど、いつもかも隠れる場所が同じになってしまっていたからね。最初は建物の角、次に塀の内、あとはもう、建て付けの悪い玄関の扉を開けてしまって、中に入り込んで、ってね。ほこりまみれの狭い畳の部屋で、壁にはいくつもの染みとへこみがあったと思うよ。あと、開けようとするとガタガタ揺れるだけでちっとも開かなかった押入れがあった。左から三番目の部屋の中が、俺のとっておきの隠れ場所だったってわけ。まあ、すぐにあの子にもばれちゃったけれど。
そこで話は最初に戻る。俺はその夕方もかくれんぼをしていたんだ。いち、にい、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう、って数えている間に、その子の足音は後ろの集合住宅に吸い込まれていった。俺はひゃくまで言い終わると、左から三番目の部屋に入ったんだ。部屋にはいつものように何もない殺風景なところだったけれど、一段と、蝉の声が静かになった気がしてた。それで畳には、ゴキブリの死骸が踏みつぶされていて。この死骸は以前にもあったんだけれど、その時は踏みつぶされていなかったから、きっとあの子がここで間違えてふんじゃったんだ、と思った。だから部屋の物陰を探したけれども、誰もいなかった。だれもいないんだ、まちがえたかな。俺はそう考えて、部屋を出ようとしたら、突然、ダンダンダン、と凄まじい音がしたんだ。木を叩く容赦ない大きな音だった。それが開かずの押入れから聞こえてきたんだ。そのあとすぐに、女の子の泣き叫ぶ声が聞こえた。俺はすぐにあの子だと確信した。押入れに入り込んだのはいいけれど、出れなくなっちゃったんだって。子どもなりの精一杯の力で、押入れの取っ手に指をかけて力を込めた。何度も何度も頑張った。あの子はその間もひたすらに泣いていた。何を言っていたのかは覚えていないが、とても必死だった。
もうほとんど夜に近い頃合いになって、急にカタン、と押入れの扉と溝が噛みあった。俺はよかったね、とか慰める言葉をかけようと、押入れを開けたけれども、そこにいたのはさ、怖い絵本で出てくるような、怖い生き物だったよ。その子は派手に千切れた髪を手に持って、顔を伏せて、頭からほこりと蜘蛛の巣を被って、黒い髪が灰色がかっていた。今でも思い出すと、身震いする。あの子が俺に気づいて、そっと顔を持ち上げたときに、その小さな顔を覆いながらじっと息をひそめていた大蜘蛛が……こちらを向いて、笑ったような気がしたんだ。また元気のいい子どもが来たぞ……。なんでかわからないけれど、俺はそう思ってしまったんだ。俺さ、無我夢中だった。俺、あの子を見捨てたんだ。あの子がまた泣き叫ぶのを無視して、ご丁寧に扉を閉めて、わざと建てつけを悪くするように足元を蹴って。ダンダンダン、とあの子が泣きながら扉を叩いているのも無視して、俺は逃げ出したよ。
それ以来、俺はあの子と会っていない。集合住宅には近づこうともしなかった。家でひたすらゲームばかりして、親に怒られてさ。思い出さないようにしていたんだ。あの子は大丈夫、俺が閉じ込めたってどうにかして出てこられたんじゃないかな。たかだか押入れに短時間押し込められたくらいのことだし、と言い聞かせてね。
でもさ、同時にあの蜘蛛はどうしたんだろ、とも思う。あの子の顔に張り付いた蜘蛛が妙に印象に残っている。蜘蛛って自分の巣にかけた獲物を食べるのに大きさはさほど関係ないから、あの子が蜘蛛の巣にかかって、頭からむしゃむしゃと食べられそうになっているように見えたんだ。いや、もちろん、そんなわけがない、非常識だってわかってる。それでも俺はあの子が蜘蛛に食われた、俺が見殺しにしたんだっていう思いがある。
さっき、子どもの虫への残酷なイタズラの話をしたのを覚えてる? あれって、全部俺のことだ。俺がバッタの足をもいだり、カマキリの鎌に手を伸ばしたり、チョウチョの触覚をちぎったりしたよ。ダンゴムシをすりつぶしたりね。一体どうなるんだろう、という無邪気な好奇心だけだった。その中でも蜘蛛は一番面白い生き物だったよ。足が何本もあるからさ、何本まであれば歩けるのだろうって、むしってみたり、その眼を鋭い草で突いてみたりした。そのうち、殺した生き物に祟られるよ、って親が言っても平気だった。
あの子の顔に大蜘蛛が這っていたとき、俺ははじめて虫を怖いと感じた。蜘蛛が、仲間を殺されたのを恨んで、俺にやり返しにきたんだ。俺が悪いことをしたから。もしかしたら、俺の代わりにあの子にやり返しているのかもしれない。そう思うと、その子にも申し訳なくて、俺は外で遊ぶのがいやになったんだ。
……じゃあ、またこれで。次に会うのはいつだろう。今日は付き合わせてしまってごめん。なんだか感傷的な気分だったんだ。どうしてか、こういう話をしたくなってしまったんだよ……」
――あの古びた集合住宅の中の一室には、今も一人の女の子が住んでいる。蜘蛛に食われてしまった可哀想な女の子。夏の夕方にそこを開ければ、顔に蜘蛛を乗せたまま、泣いている。でも、誰も気づかれない。彼女は誰からも見捨てられてしまった不幸な女の子なのだから。
私の書いた原稿から顔を上げた友人は呆れた表情をしている。
「相変わらず君は嘘をついている」
「うん。さすがに最後の部分は付け足しだよ。でも、彼の話は本当のこと。この間偶然会って聞いちゃった」
「そうじゃないでしょう?」
「何のこと?」
「君の嘘について」
彼女は苛立たしげに息をつく。あぁ、やっぱり彼女はわかってくれる。
一番の理解者であり、私が知る中でもっとも賢い友人は暴き立ててほしいと願った思いを簡単に口にする。
「閉所恐怖症で、蜘蛛嫌いの一色先生。苦い後悔を抱えたままの彼に何も言わないままでいるつもりなんだ?」
「うん」
私は子どものように無邪気に頷いた。
「後悔しているようでも大して気にしていないでしょ。ばっさり髪を切ったぐらいで忘れてしまうんだから。私は忘れられないのに。彼、今度奨学金もらって留学するんだって。すごいよね。将来有望だよね」
「そうかもね」
彼女は投げやりに相槌を打ってから、ふと、
「ねえ、もしかしたら、彼、君にその話をわざわざ振ったってことは思い出したのかもしれないよ?」
真剣な声音だった。私はまじまじと彼女の聡明な瞳を眺め、呟いた。
「それでも許さない」
幼い「私」は確かにあの時一度死んでしまったのだから。