第二話 夢見た異世界
「……スメ・レワーリィ・アストレイ。……アル・コラナ・スメ・レワーリィ・アストレイ。ラ・ロウ・セ・アル・コラナ・スメ・レワーリィ・アストレイ」
耳元で、もうずっと声がしていた。低く、蚊の羽音のように近づいては遠ざかり、かすれては強くなる声。
「うるさいなあ」
渉のもごもごとした呟きに応えて、やけに熱っぽいどよめきが起きた。空気が震えるのを感じて、渉は気怠げに目を開けた。頭が鐘を打つように痛んだ。
渉はしばらくの間、自分がどこにいるのか、いや、そもそも自分がだれなのかすら、わからなくなっていた。ただ、かすかに聞こえていたひとつの名前だけが、やけに鮮烈な印象を残している。聞き間違うわけもない。それは――。
「アストレイ……だって?」
渉は目をこすり、大きく息を吸った。思いがけず冷たい空気が胸を満たし、全身の感覚が目覚める。暗闇の中、炎の柔らかな明かりが辺りを照らしていた。ぱらぱらと火の粉が飛んでいる。なんとなしに見つめた彼方には、大きな月があった。満月だ。同時に、背中に固い感触があるのを知って、自分が仰向けに寝ころんでいるのだと気がついた。冷たい床だった。ここはどこだろうと思いながら、ぼんやりと空を見つめる。屋根はない。きれいな星空だ。これまでに見たどんな星空よりも濃い星空。星と星が重なりあいながら、見渡す限りの天を埋め尽くしていた。
「アストレイ様」
バチッと薪の爆ぜる音に混じって、渉を、いや、アストレイを呼ぶ声がした。渉は弾かれるようにして体を起こした。月を見ている場合などではない。焦点の合わない目をこすり、薄闇に目を凝らした。
「アストレイ様」
間違いない。その声の主は目前の暗がりにいた。月と炎にぼんやりと照らされる三つの人影。だれが自分をアストレイなどと呼ぶののだろうか。くすぐったい心地よさを感じながらも、渉は目を凝らした。そうして、その正体に気がつくと同時に、短い悲鳴が喉を駆け抜け、にやけた口を割って出た。
そこにいたのは“人”ではなかった。首の上に、あるべき人の頭はなく、その代わりに妙に賢そうな犬の頭が据えられているのだ。それはまるで、ロストイマジンに出てくる《狗頭人》そのものであった。
コスプレ?
最初に思い浮かんだのは、それが健児のいたずらであるということだった。だが、違った。渉はまじまじと異形の存在を見つめた。ふさふさとした白い毛並みは頭だけでなく、首から下へも切れ目なく繋がり、それらが羽織ったマントの下へと消えていた。かぶり物にしては、やけに出来が良すぎる。だとしたら、これは夢なのだろうか。渉は痺れたようになって、ただ呆然と目の前の光景を見つめた。
真ん中の《狗頭人》は、渉とそう変わらぬほどの背丈で、手に杖を持っていた。顎から垂らす髭が長いのも、腰が少し曲がっているのも、歳のせいだろうか。一方で、その少し後ろに並んで立つ二人の《狗頭人》は、どちらも立派な体格をしており、その狼にも似た鋭い顔つきと一分の隙もない立ち姿は、どこか威圧的ですらあった。
ここはどこなんだ?
渉は、素早く周囲に視線を走らせた。自分を中心に、崩れかけた壁や巨大な石柱が立ち並んでいることに気がつく。もともとは屋根もあったのだろうか。足下には、いくつもの瓦礫が散乱していた。時折テレビで見る古代の神殿跡のようだ。神殿は円形をしていて、その中心に渉がいた。神殿内には、渉の他に三人の《狗頭人》があるだけであったが、よくよく目を凝らせば、神殿の外側にも、少し距離を置いて、点々と小さな炎の揺らめきがあった。神殿は小高い丘の上にあるのだろう。炎の傍らにある動く影を遠くまで見渡せた。とはいえ、それら影が人なのか、あるいは目の前の三人と同じく《狗頭人》であるのかまではわからない。ただ、ざっと数えてみても、三十、いや、四十からの気配がそこにはあった。
なにがおきているのか。目の前の連中はだれなのか。そして、ここはどこなのか。渉はゴクリとツバを飲んだ。と、年老いた《狗頭人》が、衣擦れの音とともに一歩前に進み出て、深く頭を下げた。かがり火に身にまとうローブが青く映えた。手にした杖の頂部には、フクロウの彫り物が据え置かれている。
「異界の勇者アストレイ様、我らが声に応じてはせ参じていただけましたこと、深く感謝いたします。ここは大地の西部、カラッサの森の星霊岩場でございます。この地で今宵、《門》が開くとの預言があり、我ら一同、ここからあなた様をお呼びいたしました。ようこそおいでくださいました、アストレイ様。一族みな、心より歓迎いたします」
意識は次第にはっきりとしてきていたものの、聞き慣れない単語が続いていたせいで、その言葉はほとんど理解できなかった。だが、どんな説明よりも、どんな思考よりも先に、ここが渉の知るどんな場所とも違うということを、肉体が先に感じとっていた。この世界の空気に触れた肌が、鼻の粘膜が、三半規管が、さざ波のようにざわめき、この異常な事態に声にならぬ叫びを発していた。
「どうぞお立ちくだされ。差し支えなければ、お手を貸しましょうぞ。異界の勇者よ」
「アル・コラナ・スメ・レワーリィ?」
渉はその言葉を小さく口の中で繰り返した。知らぬ言葉であるにもかかわらず、不思議とその意味が脳に染みた。
「異世界……の、勇者……」
確かめるように漏らした渉の言葉に、杖を持つ人物が大きくうなずいた。
ここは異世界。今、自分が立っているのは、いつもとは異なる見知らぬ世界。その意味することの、あまりのばかばかしさを、どう受け止めればいいのだろうか。
「だからいったでしょう」という母親の声が聞こえた。「ゲームなんてやってると、みんな頭が変になるのよ」
渉は自分を引き起こそうと伸ばされた手をみつめた。炎に映えるその手は渉の顔をすっぽりと覆うほどに大きく、指はゴツゴツとしていた。指先にある大きな爪は、ナイフのようにとがっている。犬人間の手は、やはり獣じみていた。
差し出されたその手を、渉は容易にはとることができなかった。未知の生物に触れるという恐怖もあった。だがそれ以上に、この世界のなにかを受け入れるということは、それがどんな些細なことであっても、我が身の破滅へと即座に繋がりかねないと思えた。
それを見越してか、差し出されたその手は、人慣れしていない犬や猫にそうするように、辛抱強く、自分からはそれ以上近づこうとはせず、じっと渉からの接触を待っていた。
異世界。ここは、異世界――。
その言葉が脳裏をめぐった。いつしかそれは、揺るぎない現実として渉の中に根づこうとしている。無理もない。月が、星が、風が、神殿が、爆ぜる炎が、犬人間が、それを支持していたのだ。渉は慌てて目を閉じ、耳を塞ぎ、息を止めた。それでも全身の細胞がふつふつと沸きたち、この異変を声高に叫んでいた。渉は歯を食いしばり、そうしたすべてを必死で吹っ切った。内に籠もり、自分の中で、この事態のその意味するものをどうにか理解しようとする。渉の思考は、これまでに培ってきた常識と、たったいま突きつけられている非常識との間を激しく行き来して、ほとんど目を回さんばかりであった。あり得ぬものはすべて否定してしまいたかった。だが、今自分が見知らぬ世界にいて犬人間と話をしていることは、紛れもない事実なのだ。
本当に、頭がおかしくなっちゃったんだろうか?
混濁した思考は濁りを増す一方であった。頭蓋の中で、なにかがカラカラと音を立てて空転した。そんななか、幾度となく思い浮かびながらも、その都度捨ててきたひとつの回答が、次第に膨れあがり他を圧倒した。それは摩耗し、熱を失っていたが、それだけに“こなれた”扱いやすさがあった。肉体と直感がそれを否定していた。だが、疲れ果てた渉は、そこに屈した。
これは夢、なのだ。
渉はゆっくりと目を開けた。犬人間はまだそこにいて、手をさしのべていた。
いいさ、これは夢なのだから。すべてが夢ならば、さあ、なるようになれだ。
渉はゆっくりと体をもたげると、その手をとった。指先にゴワゴワと固い毛の感触があった。犬人間はわずかに目を細めて、微笑んだかのようであった。
「御安心くだされ。我らが勇者様よ。姿形は違えども、我らはあなたさまの僕。申し遅れましたが、わたくしは《狗頭人》の都、《アル・バルガリィ》の預言者、ヨムラと申します。左右に控えておりますのが、《バルガニアス》のアタとシーザでございます。あなたさまは我らが希望。あらゆる勇者の中にあって、最も強く、最も勇敢な御方と承知しております。さあ、偉大なるアストレイ様。立ち上がり、一族の者に、その御姿をお示しください」
ヨムラと名乗った犬人間は身を引いて、渉の前に道を開けた。途端に月が輝きを増した。渉は神殿の外に目を凝らし、ひれ伏す大勢の人影、いや犬人間たちの白い姿を見た。
「ようこそ。異界の勇者、アストレイ様」
ヨムラが高く杖を掲げたのを合図に、ひれ伏す犬人間たちが一斉に歓迎の言葉を口にした。くぐもった声が、ビリビリと夜気を震わせる。
犬人間。いや《狗頭人》。彼らはそれをノムルティといった。かすかな松明の炎と月明かりの下、《狗頭人》たちの視線は一点、渉のみを見つめていた。彼らはひざまずきながら、そっと面をあげて、事の成り行きを見守っているようだ。見ればヨムラもまた、白目のないその大きな黒い瞳で、じっと渉を見つめていた。だが、なにを考えているのか、犬に似たその面からは、どんな感情も読みとることができない。
勇者、と《狗頭人》たちはいった。その言葉に、この状況に、渉は《ロストイマジン》の導入を思いだしていた。あのゲーム世界では、プレイヤーの扮するキャラクターはすべて異世界の住人という設定であった。こんな風にお迎えがあるわけじゃないが、なにかの拍子にロストイマジンの世界に迷い込んだ人間が、戦士や魔術師としてゲーム世界を冒険をするのだ。状況としては、そっくりとしかいいようがない。渉は、胸にさげた《世界のカケラ》の存在を思いだし、学生服の上から触れた。自分もアストレイみたいになれるということか? 知らずと胸が高鳴るのを感じた。だが、それはあまりに突拍子もない出来事であった。いや、これが夢ならば、それも“あり”なのかも知れない。
ともかく、いつまでも呆然と立ちつくしているわけにもいかない。まずはこの、ヨムラと名乗った《狗頭人》に自分が置かれている状況を確認してみるのだ。渉はコホンと咳払いをすると、わずかに口を開いた。まさにそのときである。ドッと、大地が揺れた。犬人間たちに明らかな動揺が走り、一瞬の静寂の後に悲鳴が起こった。
「《蜥蜴人》だ! 敵襲だ!」
遠く闇から響く声。同時に、金属がこすれあうような“いななき”がして、遠くに点々と明かりが浮かびあがった。座していた《狗頭人》たちが一斉に立ち上がる。
「火を消すのだ!」
ヨムラが杖をふりかざして叫べば、それまで彫像のように直立していた二人、アタとシーザが一足飛びに渉の横を駆け抜けて、その背後のかがり火を蹴り倒し、燃える薪を散らした。神殿の外側でも、めいめいが火に土をかぶせ、武器をとり、あるいは走り出していた。
テキシュウという、その言葉の凶悪な響きとは裏腹に、渉は妙に意識が冷めていくのを感じた。目の前で起きていることが、本当にゲームのようだと思う。
渉は目の前に広がる光景をぼんやりと見つめた。眼下の犬人間たちはめいめいが剣や槍などの武器を手にし、迎撃の体勢を整えつつある。敵影は確認できないものの、激突は間近であった。一大スペクタクルというには、少々規模の小さな戦闘だが、それでも目に飛び込んでくるパノラマ映像は、十分に豪華なムービーシーンだといえた。CGなどではなく生の戦いということを加味して考えたならば、これはハリウッド映画にも匹敵するかも知れない。
そうして、この戦いの結末に関しては、渉にひとつの予感があった。相手がどれほどの規模の襲撃をしかけてきたのかにもよるのだが、正面からの激突となれば、《狗頭人》が《蜥蜴人》に勝つのは困難であった。ロストイマジンの世界において、この二つの勢力は拮抗しているとはいうものの、純粋な戦闘能力を比較したならば《蜥蜴人》が《狗頭人》を圧倒していた。一人の《蜥蜴人》を倒すのに、二人の《狗頭人》が必要といわれるほどなのだ。
「こっちが不利なのか」
そう呟いて、渉は唇を噛んだ。だが、悲観するほどのことではないだろう。これぞまさに王道のパターンというものなのだ。物語の最初に、主人公はあわやという窮地に立たされるが、無論、そんな導入のイベントで死んだりはしない。結局主人公は助かって、そこから逆襲の物語が始まるという寸法である。
「アストレイ様を!」
ヨムラの叫びが、渉の妄想をかき消した。同時に、駆けよったシーザが渉の腕をとった。
「なっ、なに?」
観劇を邪魔されたのも不満だが、それ以上に、強くつかまれた腕が痛んで、渉は非難の声をあげた。
「シーザとアタが身をお守りいたします。一刻も早くこの場を離れてください。アストレイ様には重要な御役目があるのです!」
ヨムラは叫び、きびすを返した。
「者ども、武器を持て! 応戦するのだ! 勇者様をお守りしろ!」
地響きはますますうなりを増し、狂暴な叫び声がそこに混じっていた。今では、闇の中に敵の姿をはっきりと確認することができた。その数は三十をくだらないだろうか。
《蜥蜴人》、《狗頭人》達が呼ぶところのレプラティの全身は黒い鱗で覆われている。その鱗が月光に照らされ白く輝いていた。一糸乱れぬ前線が怒濤のごとく押し寄せるなか、揺らめく白い照り返しは、夜の海の波頭を思わせた。対する《狗頭人》たちの反応も素早かった。四十を超える白い毛並みの集団が雪崩のように大地を滑る。手練れた動きであった。二つの戦線が距離を詰めた。沸き起こる雄叫び。怒号。いななき。大地を蹂躙した二つの軍勢は正面から激突した。無骨な金属が指揮棒のように振られ、歓喜と絶望の歌を奏でる。
「やっぱり……」
渉は思わず口にしていた。《狗頭人》たちはかなりの訓練された軍勢のようであった。だが、その戦線は、ゆっくりと、だが確実に崩壊しつつあった。黒い飛沫が白い絨毯にじわりと広がっていく。
渉の腕がぐいと引かれた。
「失礼を御許しください。このシーザが先導いたします。参りましょう」
《狗頭人》の一人が渉を引きずるようにして、走り出した。
「いくって、どこへ?」
「森に身を隠すのです。さあ、急ぎましょう」
シーザと名乗った《狗頭人》は容赦なく渉の腕を引いた。もう一人の《狗頭人》であるアタは、既に神殿を出て、丘をくだる途中であった。油断なく身構え、二人がやって来るのを待っている。渉も走り出したが、最後にもう一度、未練がましい視線を丘下の戦場へと送った。《狗頭人》たちの戦線はゆっくりと後退し、拡散しつつあった。あるいはその動きは、当初から予定されていた戦術なのかも知れない。結末を見られないのが、なんとも残念だ。
「アストレイ様!」
遠くからアタが叫んだのと同時に、空気を裂く音がした。再び前を向いた渉の足下の床に、気がつけば一本の矢が突き刺さっている。石を割り、地を穿ったそれは、獲物を逃した無念さにブルブルと身を震わせていた。
「くっ! ここも危険です。急ぎましょう」
シーザに急かされるままに渉は走り、神殿から外へと通じる石階段を降りた。
「怯むな! 勇者様をお守りするのだ!」
いつの間にかヨムラの声が、遠く雄叫びに混じっていた。
アタも駆けよってきて、渉の空いたほうの腕をつかんだ。渉は二人に引きずられるようにして、神殿のある低い丘を駆け降りた。少しスピードを緩めてと懇願するも、二人は非情であった。突然の全力疾走に、渉の膝はがくがくと笑っていた。そもそも渉は靴を履いていない。草露に、靴下を履いただけの足が滑った。バランスを崩し、体が大きく宙に投げ出されてしまう。転ぶまいと必死で身をよじり、足を突きだした。そして、力強く踏み込んだその先には、鋭い小石が転がっていた。
「痛っ!」
足裏から背筋に走る激痛に、渉は悲鳴をあげた。もはや崩れ落ちる体を支える気力もない。背中を打ちつける衝撃に続いて、視界がぐるぐると回った。丘を転げ落ちているのだ。
「うわっ、うわっ、うわあああ」
渉の切れ切れな絶叫がこだました。渉はそのまま丘の裾野までたどりつき、勢いを失ったところで、目を回してうずくまった。
「止まらずに! 森へ逃げ込むのです!」
アタが渉を助け起こしながら叫んだ。アタの指差す前方三百メートルほどのところに、月明かりを拒む暗い固まりがあった。深い森だ。そこへ逃げ込もうとしているのか。
「でも、足がっ」
渉は泣きそうな声をあげた。足の裏がジクジクと痛んでいた。血が出ているに違いなかった。なぜ自分が痛い目にあっているのか、それが理解できなかった。しかも勇者と呼ばれた人間が石ころを踏んで怪我するってどういうことなのか。これなら、矢傷でもこさえたほうがまだ格好がつく。渉は手に触れた草をむしって捨てた。
「だめだ間に合わん!」
焦れながら背後を振り返っていたシーザが短く叫んだ。そのシーザの見つめる先を、アタが見つめ、続いて渉が見つめる。
つい先ほどまで自分たちのいた丘の上で、竜にも似た騎獣のいななきが響いていた。揺れる炎が神殿の中に見え隠れする。
「コッチダ!」
不吉な甲高い声が響き、炎が石柱の間からこぼれ出てきた。騎獣たちの大地を蹴る音がビリビリと伝わってくる。
「見つかった! アストレイ様、お急ぎください」
アタに再び手を引かれて、渉は不平の声をあげようとした。だが、その犬の横顔は肉食獣の険しさを滲ませていて、渉は慌てて言葉を飲み込んだ。足から伝わる痛みが、夢にしては異様なまでにリアルだった。変なとこばかりがリアルで、面白みのない夢だ。渉は不満を呟きながらも、よろよろと走り出した。一方のシーザは、低いうなり声とともに、その場に立ち止まっていた。
「なにをしてる? 早く来てください、シーザ!」
異変を感じ、色めき立つアタの言葉にも、シーザは振り向かなかった。
「ここはわたしが引き受けた。先に行くんだ!」
そう叫ぶとシーザはマントを払い、腰の剣を抜いた。踊る炎が二つ、いや三つ、シーザに迫っている。
「一人では無理です!」
アタはシーザに駆けよるそぶりをみせるが、シーザの声がそれを留めた。
「来るな! お前は勇者様をお守りしろ!」
シーザは叫ぶと、剣を上段に構えて走り出した。
「安心しろ! すぐに追いつく!」
シーザの声は凛として揺るぎないものだった。
アタは一瞬のためらいの後で、渉の手をとり走り出した。シーザの行動は無謀だった。一人で何人もの《蜥蜴人》に挑もうなんて、望んで死ににいくようなものだ。渉はぼんやりとそんなことを思ったが、今はそれよりも、身に迫る大事があった。足がもうずっと痛んでいたのだ。どこかで手当をするとして、ばんそうこうかなにかはあるのだろうか。それに、こんなに走り続けたら絶対に脇腹が痛くなる。
ぜいぜいと息を切らせながら、渉はチラリと背後を振り返った。雄叫びをあげて剣を構えるシーザの姿と、シーザに躍りかかるいくつかの影が見えた。それら複数の影はたちまち絡みあい、大きなひと塊りの影へと変わる。どれがシーザでどれが敵なのかも、もはや見分けはつかない。ただ、時折掲げられる剣ばかりが、不気味に月に濡れていた。
寒かった。空腹だった。案の定、脇腹が痛かった。足はもう丸太のように重たくて、まるでいうことをききそうにない。下草の深い森の中を歩いたせいで、足の裏はもちろん、学生服から露出していた手や鼻の頭に、小さな擦り傷をたくさんこさえてしまった。
森の中は月の明かりさえも届かず、どこまでも深い暗闇であった。アタは闇の中でも多少の目は利くようで、木の根を避け、朽ちて倒れた大木を超え、森の奥へと入り込んでいった。渉もそれにつき従う。
森の奥までは、もはや戦いの物音も届くことはなく、不気味な静けさが満ちていた。何時間歩いたのだろうか。時間の感覚もわからなくなったところで、ようやくアタが立ち止まった。
「ここらでよろしいでしょう。追っ手の気配もありません。朝までここに潜みましょう」
アタの言葉を待つよりも早く、渉はその場に崩れ落ちていた。アタは木の根の隙間に、静かに腰を降ろした。あぐらをかきながらも、しゃんと背を伸ばしているのは、渉への敬意だろうか。一呼吸ついた渉は、アタに倣い適当な木を見つけて、それを背にして座り直した。森の土は湿っていて、尻がむずむずとした。学生服が泥だらけだ。膝のあたりなどは擦れて破れてしまっている。これを母親に見せたら、滅茶苦茶に怒るだろう。
「ところでさ、ここはロストイマジンの世界なんだよね?」
一息ついた渉は、腰を昇ってくる冷気に小さく震えながらいった。
「ロ……、ロスト……なんとかとは、なんでしょうか?」
渉の言葉に、アタは困惑の声で応えた。言葉が通じないわけではないのだが、共通の認識までは期待できないようだ。順を追って、ゆっくりと話しをしなければ、理解してもらえないことも多そうだ。渉はため息をついた。
月の明かりも通さない深い森の中では、アタの姿もかろうじてその輪郭が把握できるだけであった。短く浅く繰り返す呼吸は、まさに犬を思わせるものである。ただ、闇の中でこうして言葉を交わしている分には、人と少しも変わりがない。渉は話しながら、いくつかの情報を整理した。
「まず、君たちは《狗頭人》で、敵は《蜥蜴人》。この二つの勢力は、《大地》の覇権をかけた戦いを続けている。そうなんだね?」
「そのとおりです」
「で、その戦いを助けてくれる勇者が必要だった、と」
「はい。この戦いを終わらせるには、アストレイ様の御力が必要だとの預言がありました」
その割に、いまここにいるのが、「アストレイ」ではなく「渉」だというのが、いい加減なところであった。大体、自分が本当にアストレイなら、あの程度の《蜥蜴人》など、一人で殲滅することもできるのだ。渉はシャツの下から《世界のカケラ》を引き出すと、その不格好な水晶を見つめた。闇の中では少しも輝かないが、それで十分であった。もっとも日の光の下で見つめたとしても、石自体が白く濁っている上、カッティングもされておらず、原石をなにかでたたき割ったような、そんな雑な作りであったから、さほど見栄えのいいものではない。それでも渉は、そこにアストレイを感じた。
水晶を強く握りながら「アストレイ」と口の中で呼びかけた。もちろん《世界のカケラ》がそれに応えることはないのだが、そうすることで渉は、アストレイの姿をはっきりと思い浮かべることができた。今日は、その息づかいや、鼓動、体温までもをはっきりと感じることができる。もしかすると、このロストイマジンの空気がそうさせるのかも知れない。
アストレイ。世界を変える勇者。強靱な肉体と卓越した剣技と人知を超えた魔力を備えた存在。
「どうせならアストレイの夢を見たかったよ」
敵をあしらう勇姿を想い、渉はフンと鼻息を荒くした。拍子にクシャミが出た。
「森は冷えます。これをお使いください。少しお休みになるといいでしょう。朝まではまだ時間があります」
アタは立ち上がり、羽織っていたマントを脱ぐと、それを渉の腕へと押しつけた。マントの下には革製の鎧を着込んでおり、腰には剣が提げられていた。
渉はローブにくるまりながら、もうひとつクシャミをした。
「たき火とかできないの?」
その言葉に、アタは静かにかぶりを振った。敵に居場所を知られる危険は犯せないという。
「お腹が空いたんだけど」
「申し訳ございません。雨露をしのげる御寝所も御食事の準備もしてはいたのですが、まさか奴らにこうも早く居場所が知られようとは。敵に悟られぬよう、わずかな軍勢でお迎えにあがったのも、ああなってしまえば果たして上策であったのか。いずれにせよ我らの不覚でした」
アタはそういって、不安げに、歩いてきた森の奥を見つめた。
「なにか見えるの?」
「いえ。ただ、無事に逃げられたろうかと思いまして」
渉の脳裏に、剣を構えたシーザのシルエットが浮かんだ。そのシーザに襲いかかるいくつもの影。シーザはきっと負けただろう。複数の《蜥蜴人(レプラティ)》に一人で戦いを挑むなんて、正気とは思えない。
「みな、無事だといいのですが」
そういって、アタは深く息を吐くと、二人の間に重苦しい沈黙が漂った。
まだまだ聞きたいことはあったが、疲れが渉の舌を重くした。瞼が自然に下がってくる。そもそもこれは、思ったよりも陰気で、つまらない夢のようだった。寒いし、痛いし、それにもうくたくただ。ここらが、潮時かも知れない。
「朝まで動かないなら、少し寝るね」
渉はぶっきらぼうにいうと、体を横たえた。
「どうぞお休みください。わたしが番をしています」
アタの言葉をよそに、渉は目を閉じた。もぞもぞと体を動かし、寝心地の良い姿勢を探す。だが、木の根は固く、地面は冷たい湿気を蓄えていた。それでも、押し迫る眠りを追い払うことはできなかった。《世界のカケラ》をシャツの中に戻し、意識が薄れていくにまかせた。
つまらない夢なら、もう見なくてもいい。目が覚めたなら、いつものようにオンラインの世界で心ときめく冒険をしよう。そこでなら、紛れもなく、自分は勇者アストレイでいられるのだ。
森の中にうっすらと明かりがさし、にわかに小鳥の呼び合う声が頭上を行き交った。渉が目覚めたとき、アタは昨日と同じ格好のまま、じっと渉を見つめていた。
渉は目をこすった。頭を振って、眠気を払う。それでも、やはり今自分が寝てるのは木の根の隙間で、やはりそこにはアタがいた。目は覚めたのに、夢は続いていた。しつこい夢だ。寝て起きて、それも全部夢でしたなんて、なんとも面倒な夢。渉は静かな不安に肝を冷やした。もしこれが、夢じゃないとしたら、もしもこれが、本当に起きていることだとしたら。渉は、そこに答えがあるかのように、期待の眼差しをアタに向けた。だがアタは、黒い瞳で、ただ見つめ返すばかりであった。
《狗頭人》を陽光の下で見るのはこれが初めてであった。硬くピンと張った白い短毛は全身を覆い、突き出した鼻は黒い。じっとしていても、頭頂に並ぶ三角の耳が、時折神経質にピクピクと動いていた。首から下は人間の造りにも似ているが、足の関節のつき方などは、犬を思わせるものだった。本当に犬人間だ。渉はゴクリとツバを飲んだ。
「そろそろ出かけたほうがよろしいでしょう」
アタが口を開くと、長い舌が見えた。口の中には、鋭い犬歯が生えそろっている。
「どこへ?」
「まずは昨日の襲撃跡へ戻ろうかと思います。危険はありますが、現在の状況がわかるかも知れません」
アタが立ち上がったので、渉もそれに続こうとした。だが、体がひどく強ばっていた。羽織っていたマントが朝露にしっとりと濡れている。渉のぎこちない動きに、幾筋かの水滴が流れ落ちた。アタの全身も濡れていたようで、ブルリと身を震わせて、毛についた水滴を振り払っていた。
二人は、早朝の森を無言で歩き始めた。夜の闇を行くよりはずいぶんと楽な行軍ではあったが、渉のむき出しの足はさらに痛んだ。見ればアタも靴は履いていないようだ。
「痛くはないの?」
渉はいった。
「足だよ」
きょとんとするアタに、渉は続けていった。その瞬間、渉の足が、落葉の下に埋もれていた朽木の幹を踏み抜いた。昨夜小石で傷つけたのとは逆の足だ。
「いーたーいっ!」
渉の悲鳴に、アタは慌てて駆けよった。そうして、渉の血の滲んだ足を見て、鼻と目の間に深いシワを寄せた。
「擦り傷がひどいですね。この薄絹だけで歩くのには慣れていないのですか? どうして黙っていたのですか?」
「だって聞いてくれなかったし、アタも靴を履いてなかったし……」
アタは、《狗頭人》の足の裏には太い毛と厚い肉の塊があって、靴などいらないのだといった。
「《丘小人》たちには靴を履く習慣があります。わたしたちだって、場合によっては靴を履きます。どんなことでも構いません。御要望があれば、遠慮せずにお申し付けください」
そういいながら、アタは周囲を見回した。そうして、すらりと伸びる黒い幹の木を見つけると、よかった、と呟いた。幹の表面は滑らかで、下枝は少なく、梢の付近に網目のように枝が集中する、一風変わった木である。渉にも、その特徴的な姿には見覚えがあった。
「それは、もしかして、《弓引の木》?」
「はい。靴、とまではいきませんが、当座はこれでしのげるでしょう」
アタは、ナイフで木の皮を剥ぐと、渉の足裏に樹皮をあてがい、マントの端をちぎった布でしっかりと縛りつけた。
「ありがとう。歩きやすくなったよ」
渉はその場で足踏みをして、足裏の感触を確認した。弓引の木の樹皮は、まるでゴムのような質感だ。
「勇者様の世界にも、弓引の木があるのですね」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、たまたまね」
ロストイマジンの世界にも、その木は登場していた。その幹は丈夫でしなやかな弾力があり、弓や鎧の材料によく用いられていたのだ。
やっぱり、これは夢なのだ。弓引の木はそう信じるに足りる材料のようであった。仮に自分が、本当に異世界にやって来たとして、そこが自分の大好きなロストイマジンと同じ世界だなんてことがあるだろうか。それは到底あり得ないことに思えた。すなわち、この世界のすべてが、自分の夢の中の出来事でなければつじつまが合わないことにななる。
とはいえ、ここがロストイマジンの世界だとしても、ゲームの世界とはやはり違う点も数多くあった。辺りに生える木ひとつ、花ひとつとっても、渉の世界とは似て非なるものばかりであったが、そうしたすべてがゲームに登場してきたわけでもない。
ふと渉は、自分が吸い込まれた、あの暗闇のことを思いだした。あそこに落ちて、自分はこの世界に来たのだ。だとしたら、あの時点では、既に夢を見ていたということになる。
「健児、約束の時間にこなかったからなあ」
そう呟いて、渉は唇をとがらせた。
要するに、自分は健児を待っているあいだに、ついうっかり、うとうとと寝入ってしまったということなのだ。
そう。すべては夢。
この夢の一部始終を健児に話したら、きっとひどく驚くだろう。健児の反応を思って、渉は小さく笑みを漏らした。だが、そんな渉の心を、一陣の冷たい風が吹き抜けた。この夢は、本当に覚めるのだろうか。
そのときである。アタは犬歯をむき出しにして、小さくうなり声をあげた。渉はビクリとして小さく悲鳴をあげた。
「御声をたてぬよう、気をつけてください。奴らの臭いが風に混じっています。恐らくは昨日のものでしょうが、用心に越したことはありません」
アタは自分から決して離れぬよう渉にいうと右手で腰の剣を抜いた。そうして、鼻を高くあげて、周囲の匂いを繰り返し嗅ぐ。
「行きましょう」
アタはそういって歩き始めた。だが、その歩みは鈍い。数歩、歩くたびに鼻をひくつかせ、耳をそばだたせては、慎重に周囲の様子を探っていたからだ。
そうして二人は、むっつりと押し黙ったまま、森の中を進んだ。
森を出たのは正午近かったのかも知れない。太陽は丘の向こう正面に位置しており、その光を背景に黒く崩れかけた建造物が重苦しく浮かびあがっていた。そこが昨夜の神殿であるのは間違いがなさそうだ。神殿のあるなだらかな丘に続く平原では、そのところどころで燻る煙が上がっていた。そこにあるのは引き倒されたテントや荷車などのようだ。
アタは無言だった。渉も口を開こうとは思わなかった。用心深く周囲をうかがってから、二人はそろそろと森を出た。陽光はさんさんと降り注ぎ、緑は鮮やかであった。空は青く、鳥たちか気ままに歌っていた。いかにも牧歌的な光景である。黒煙がなければ、そこが戦場跡であることを疑ったかも知れない。神殿に近づく渉らの気配に、草むらに群がっていた鳥たちが慌てて空に舞った。そのまま近くの木の枝に止まると、物欲しそうな視線を眼下に送り続けている。
鳥たちは、なにを漁っていたのだろうか。
その疑問に対するあまりにも当然な答えを、渉は思い浮かべることもできなかった。軽率だった。些細な好奇心に後押しされて、渉は足を進めた。先を歩いていたアタが、茂みの中をのぞき込み、突然呻いた。なにかがそこにあった。それが引き返す最後のチャンスであったかも知れない。だが、渉はそれを見た。そこには、パックリと腹を割かれた《狗頭人》の死体が横たわっていた。
「シーザ……」
アタの長い口から、低い声が漏れた。
渉は、慌てて視線をそらせた。だが、想像を絶する映像は、深く脳裏に刻み込まれた。口を大きく開けた顔は、虚ろに空を見つめていた。白い体毛が、赤黒く血に汚れていた。
コレハイッタイ、ナンナノダ。
風が吹き、焦げた匂いが鼻孔を刺した。その中に混じる異質な匂い。唐突に、それが血と肉の匂いなのだと知った。渉は言葉にならない叫び声をあげた。その場にうずくまり吐いた。昨夜からなにも食べていないおかげで、吐瀉物は少ない。それでも、繰り返し吐き、胃液は喉を焼き、鼻の粘膜を刺した。
アタが、渉の背に軽く手をおいた。
どれだけそうしていただろうか。顔をあげるのが怖かった。だが、目をそらせば、それですむというものではなかった。
「大丈夫ですか?」
アタの心配そうな声にも、渉は答えることができなかった。
だが、絶え間ない吐き気は、不意に去った。脳のどこかが、突然に沈黙した。感情が消えてしまった。渉は立ち上がり、焦点の定まらぬ目で、ぼんやりと周囲を見つめた。そのまま、なにかにとり憑かれたように歩きだした。
丘のふもとには、全身が黒い鱗で覆われた、蜥蜴の顔をした死体もあった。そのガラスのような大きな目が、青く空を映していた。
「《蜥蜴人》の亡骸です」
アタがささやくようにしていったが、その声は渉には届かなかった。
渉は丘を駆け上った。そうして、神殿の中心部に立って、昨夜と同じように平野を見おろした。いくつかの死体が点々と大地に横たわっていた。その多くは《狗頭人》のようであった。うつぶせの背から、折れた槍の穂先が突き出ている死体があった。なにかをつかもうと手を伸ばしている死体もあった。折れ、重なり、力なく垂れる命のない塊たち。
違う。
違う。
渉の中で叫ぶ声がした。
今ではそれを、認めるほかなかった。
――これは、夢なんかじゃない。
アタは、渉を石柱の影に座らせると、生存者がいないか確認をしてくるといって、忙しく立ち去っていった。だがそれは長くはかからなかった。野営地をくるりとめぐったところで、肩を落として帰ってきた。
「行きましょう」
やがて渉の元にやってきたアタは短くいった。
「行くって……どこへ?」
「みながやられたわけではありません。後は捕まったか、あるいは逃げ落ちたのでしょう。無事な者がいれば、こんなときのための集合場所が決めてあります。さあ、行きましょう」
アタが渉の手をとって引き起こした。
「行きたくない」
渉はその手を振り払った。
「なんなんだよ、これは! 夢なんだろう? 夢だっていうのに、どうしてぼくは目が覚めないんだ。どうして、あんなものを見せつけられなくちゃいけないんだ! こんなところ、もうたくさんだっ!」
渉の言葉にアタは目を丸くした。驚きのためか、頭にのった小さな耳がピンと立っていた。
頬をなでる風の冷たさで、渉は自分が泣いているのだと気がついた。死の感触が空気に踊っていた。視界の端にちらつく、たくさんの死が、自分を責めているように思えた。うめき声がそのまま固まったような顔。見開かれたままの目。なにかを求めて突き出された手。怨嗟の声が聞こえる気がして、渉は身を震わせた。自分はこれを、映画のようだと喜んでいたのだ。
座り込んだ渉の目に、一本の矢が飛び込んできた。昨夜、渉の足下に突き刺さった、あの矢だ。それは、固い矢じりを深く、石の床に埋め込んでいた。
渉は唐突に、その矢が自分を射抜くことだってあり得たことに気がついた。鋭い鉄の矢じりが胸をえぐり、肋骨の隙間を抜けて、肺を、あるいは心臓を貫いたかも知れない。そうなれば、自分ももの言わぬ死者たちの仲間入りをしていただろう。その凄惨なイメージは、昨夜にはまるで思い浮かべることのできなかったものだ。渉は慌てて首を振った。違う。あの矢は、自分に当たるべきではなかったのだ。だってそうだろう? ぼくに関係のない世界の出来事で、どうしてぼくが死ななきゃいけないんだ?
「アストレイ様……」
恐る恐るアタはその名を口にした。
「ちがうっ! ぼくはアストレイなんかじゃないっ! ぼくは勇者なんかじゃなくて、ただの子供なんだ! ケンカもできない弱虫なんだ!」
はじかれたように渉は叫んだ。その剣幕にアタは毛を逆立てた。アタには渉の言葉の意味がまるで理解できないようであった。もどかしさが激情に火を注ぎ、渉はそれを治めることができなかった。
「帰してよ! ぼくを、元の世界に帰してよ!」
渉は声をあげて泣いた。
「では、ワタル様とアストレイ様とは、まったく別の存在というわけではなくて、だけれども、ワタル様とアストレイ様とは違う存在である、ということなんですね」
「そういうこと」
渉はそっけなく答えた。もう、何度同じことを説明しただろうか。だが、前を歩くアタのさかんに首をひねっている様子を見るに、十分に理解していないのは明らかであった。
アタと渉は、再び森の中を歩いていた。どこにも行きたくないとはいっても、それは無理な話だ。渉にしても、今や頼れるのはアタだけであった。アタが行くというのなら、例えそこがどこであろうと、ついていくしかないのだ。
さんざん泣いたおかげで、気も多少は楽になっていた。渉を支えるのは、なるようにしかならないという、なかば開き直りなのだが、それでも足を進める力にはなる。
「だから、そう、演劇……みたいなものだよ。この世界にだって、劇ぐらいあるでしょう? ぼくは、ロストイマジンという舞台で、アストレイという役を演じてたの。アストレイはたしかに勇者だったけれども、それは物語の中でのことだし、ましてやぼく自身は、勇者なんてガラじゃないわけ。どう? これでわかった?」
「なるほど……、そういうことでしたか。今度は、とても分かりやすい説明でした。その、ロストなんとかとか、ゲームだとか、そういうのはちょっと理解できませんでしたが」
アタはしきりに深くうなずいた。
「わかってくれて嬉しいよ。要するに、ぼくじゃなんのお役にも立てないってわけ」
そういいながら渉は、そのことが少々口惜しくもあった。ロストイマジンとそっくりの世界。アストレイが実在してもおかしくない世界。その世界にあって、みんなから勇者と期待されていて、それでもやはり、自分にはなんの力もないということを認めなければならないのだ。とはいえ、すべては命あっての物種である。こんな危険な場所にいつまでもいていいというものではない。戦争が本当にあって、死がすぐそばにある世界。この世界は、一介の中学生には荷の重すぎる世界なのだ。
「だからぼくはね、一刻もはやく、元の世界に帰してもらいたいの。わかるでしょう?」
渉はいった。
「その件については、しかと承知しました。預言者ヨムラならば、それも可能でしょう。さあ、そのためにも合流を急ぎましょう。間もなく日が暮れます」
西の空が茜に染まる頃、渉とアタは、山肌にポッカリと空いた洞穴にたどりついていた。その前には、三十人ほどの《狗頭人》たちが、車座に身を寄せ合っている。遠目にも、傷つき、疲れ果てているのが見てとれた。
「勇者様だ!」
渉たちに気がついた歩哨が声をあげた。その声に、陰気に沈んでいた集団がにわかに活気づいた。ぱらぱらと立ち上がると、我先にと駆けよってくる。渉とアタは、たちまち、集団の中心に取り込まれた。
「アストレイ様、御無事でなによりでございます。アタ、よくぞ勤めを果たした」
ヨムラは杖を高く空に掲げると、小さく祝詞を口ずさみ、二人の無事を祝福した。
渉はアストレイの響きにピクリと眉を上げたが、渦巻く興奮の中では、とてもそれを否定する気にはなれなかった。まずは、この場の空気をどうにかしなければならない。すがるようにしてアタの横顔を盗み見るが、アタは数人の仲間と無事を喜び合っており、渉の困惑にまで気が回らないようであった。
「昨夜の野営地を見てきました。十四名の遺体を確認いたしました」
やがて、真剣な視線を向けるヨムラを前に、アタが神妙にいった。
「シーザはどうした?」
「兄は、残念ですが……」
アタは答えた。
「シーザが……。惜しい男を亡くした」
ヨムラの大きな耳が、目を覆わんばかりに、力なく垂れた。同時に、人垣の向こうに立つ巨躯の戦士が戦斧を胸に抱き厳かに天を仰ぐ姿が、渉の目に映った。
「シーザは我らを逃すために、単身敵に立ちはだかりました。シーザの手にこれが握られておりました」
アタは黄金の鎧飾りを取り出すと、高く衆目の中にかざした。二匹の竜が交差する図柄が打ち出されている。
「敵将、ギリオトリアの紋章です」
アタの言葉にざわめきがおきた。方々で起きる囁きや、その反応を見るに、ギリオトリアとは《蜥蜴人》の戦士の中でも名の知られた存在のようであった。だが、そんなことよりも渉は、アタとシーザが兄弟であることに驚いていた。そんなそぶりを、アタはまるで見せていなかった。それはきっと、自分への気遣いからなのだ。
「シーザは尊敬できる戦士だ。いかにギリオトリアであろうと、一対一の戦いでシーザが後れをとることなどはなかった。相手は三人だった。不利な戦いに、シーザはすすんでその身を投じたのだ。勇敢な戦士だった」
先ほどの、戦斧を持つ巨漢の戦士が声高にそういった。
「ありがとう、《エストルニィ》のアガルマ」アタはいった。「ですがシーザだけではありません。多くの同胞の命が失われました。その死は大きな痛手ですが、勇ましき戦士たちの魂には神の恩寵があります。彼らは英霊となり、神の側に使える勇敢な戦士となるでしょう」
方々から、アタの言葉に賛同する声があがった。巨躯の戦士――アガルマは肩を震わせていた。泣いているのかも知れない。
「遺品をいくつか持ってまいりました。都に戻ったならば、遺族に渡してください」
アタは腰につけていた小袋をヨムラへと差し出した。
それを確認するヨムラの口から、亡くなった者の名が、一人、また一人と連ねられていった。その言葉に、無念の声を漏らし、苦しげに顔を振る姿をそこかしこに見ることができた。
死の悲しみは、決してアタだけの問題ではなかった。あの地で散ったいくつもの命。その命のひとつひとつに、母親がいて、幼子がいて、友人がいた。彼らは、仲間を失ったのだ。
渉は、死者を悼む|《狗頭人》たちの姿に胸の痛みを覚えた。だがそれと同時に、自分がとてつもなく質の悪い冗談の犠牲者のようにも思えた。見知らぬ集団の葬式の中に呼び出されて、さあ悲しめといわれても、それは無理な話なのだ。結局のところ、この異世界がどこかにある、ひとつの現実なのだとしても、やはり自分のあるべき現実ではないという思いが胸にわだかまった。
渉は、アタの手を引いた。
「あのことを、みんなに説明してほしいんだけど」
渉のその言葉に、アタは深くうなずいた。居ずまいを正し、コホンと咳払いをする。
「預言者ヨムラよ、勇者アストレイ様について、お伝えすることがございます」
アタのその言葉は、これまでのどんな言葉よりも、一座に強い緊張をもたらせたようであった。多くの目が渉を盗み見て、あるは言葉を続けるアタへと熱く注がれた。
そわそわと身を揺する渉を横目に、アタは驚くほど正確に、渉の置かれている立場を伝えた。アタが最後に、なにかつけ足すことはございますかと渉に向き直ったときも、渉はただ首を横に振るだけでよかった。いや。もしなにかをつけ足したいと思っても、その場は既に、なにかをいいだせるような雰囲気ではなかった。
ある者は叫び、ある者は卒倒し、ある者は呻いた。ざわめきは収まらず、怒りとも絶望とも悲しみともわからぬ混濁したなにかが、一座の中に生まれ、その場を押しつぶさんとしていた。やがて、じっと口を閉ざしていたヨムラが、杖を掲げて頭の上で数度、ゆっくりと振った。その仕草ひとつで、方々に飛び交っていた声が、ピタリと治まった。
「ワタル様というのが、あなたさまの真実の名でしたか。我らの不作法をお許しくだされ。しかしながらこのヨムラ、ここに至っては、我らの探し求めた勇者様とは、まさにワタル様のことであったと確信いたしております」
ヨムラのその言葉に一座が湧き、渉はあんぐりと口を開けた。
「初めから説明しなければならないでしょう。王都でわたしの授かった預言には、選ばれし異界の勇者を北の《聖域》の中心地、《神々の座》にまで無事お届けしたとき、悪しき神は滅び、この長き戦乱は、我らの勝利に終わるとありました。ワタル様を無事《神々の座》まで御案内することが我らの役目にございます」
「いや、だから、ぼくは人違いなんですよ」
なにをどう誤解したならば、そんな発言につながるのだろうか。渉は混乱する頭を必死に回転させて、どうにかそれだけを口にした。
「いいえ。我々は《水鏡》を通して、幾多の魔物をうち倒す勇者様の影をしかと拝見したのです。火を吹く竜も、雷呼ぶ邪霊も、勇者様の敵ではございませんでした。まさに鬼神のごときその強さを、わたしはしかと、この目で確認したのです。とはいえ、水面に映る幽かな影を見たのみといえばそれまで。それがアストレイ様であったのか、ワタル様であったのか、あるいは過去の姿か未来の姿かもしかとわかりませぬ。しかしながら、アタの言葉によれば、アストレイ様はワタル様の演じる存在であり、ワタル様の御指示で動かれる傀儡とのこと。ならばワタル様こそが、真の勇者ということではございませぬか。いいや、アストレイ様のことは別にしても構いませぬ。《水鏡》がアストレイ様を映しだしたのも、すべてはワタル様を呼び出すためであったと考えることもできるのです。神の御意志がそこにあったのですから、間違いなど起こるはずもないのです」
予想のできなかった展開に、渉は開けた口を閉じることができなかった。
ヨムラはさらに説明を続けた。彼らの住む、大地には、時折異世界から《来訪者》がやってくる。それら来訪者は、毛も鱗もない、いわば渉のような人間であるらしい。そして来訪者の中には、この世界の常識を覆すような力を持つ者も多く存在しており、これまでも世界に大きな変革をもたらしてきたというのだ。したがって、来訪者にはすべからく、勇者たる資格があるのだという。
「ますますロストイマジンだよ、それじゃ……。ひどいパクリだ」
渉のやけくそな呟きもヨムラには届かなかった。
「我ら《狗頭人》は、《蜥蜴人》との戦いにおいて、かつてないほどの劣勢に追いやられております。それもひとえに、《蜥蜴人》に組みする来訪者、忌まわしき《黒騎士》が現れたためです。《黒騎士》は恐るべき戦士です。わずかひと月あまりのうちに、数え切れないほどの同胞を殺し、いくつもの町を焼きました。蜥蜴どもが勇者と讃える《黒騎士》に対抗することができるのも、この戦いを終わらせることができるのも、ワタル様を除いて他におりませぬ。どうか我らに力を貸してはくださいませぬか」
ヨムラの言葉の最後の一音が消えた後には、立ちのぼる静かなる熱意が、渉の答えを待って、その場に渦巻いていた。
「む……無理ですよ。だから、ぼくは、勇者なんかじゃないんですってば」
ヨムラの口がうなるように歪み、その拍子に鋭い犬歯がこぼれ見えた。渉の喉など簡単に裂いてしまいそうだ。だが、それに怯むわけにはいかなかった。
「ぼくは戦士でも勇者でもありません。悪いけど協力はできません。それがお互いのためなんです。だから、その、他の人にあたってもらえますか……」
渉の言葉に、狗面の一団はそれとわかるほどに落胆した。だが、ヨムラが手にした杖の尻で地面を叩くと、再びピリピリとした静けさが辺りを支配した。
「ごめんなさい……。でも、ぼくにはできないんだ。勇者なんかじゃない。魔法が使えるわけじゃないし、剣だって持ったこともない。ケンカだって弱い、本当に弱いんだ。だから、鏡だかなんだかはわからないけれど、ぼくがここに呼ばれるなんて、こんなのなんかの間違いなんだ。だってそうだろう? 見たらわかるじゃないか。ぼくは学生服を着て、まだ子供で、腕も細くて、とても戦えるようには見えないだろう」
繰り返される渉の言葉は、十分とはいえないまでも、やがてわずかな理解を得た。再びざわめきがおき、今度はヨムラもそれを制止しなかった。渉は下を向いていた。表情に乏しい犬人間たちではあったが、それでいながらも、その居並ぶ顔のひとつひとつに浮かんだ明らかな失望の色は、渉をも憂鬱にさせるものであった。
「たしかにアストレイは、ぼくの操るキャラクターなんだけど、それはゲームでのことなんだ。現実じゃなくて、空想の、夢の中の存在なんだよ。アストレイなんてどこにも存在していないし、それに……ぼくじゃアストレイにはなれない」
そういって、渉は唇を噛んだ。
「来訪者を見た目で判断するような者はここにはおりません。幼子のように見えて、恐るべき力を持つ者もいるからです。しかもワタル様は預言によって現れた御方です。この世界の歴史をどこまでひもとことうとも、そのようにして呼びされた来訪者はおりません。まさしくワタル様こそ、勇者となるべき御方といえるのです。とはいえ、もとよりこれは、我らが世界のこと。ワタル様には露ほども関係のないことにございます。ワタル様の御立場もしかとわかりました。無理強いをできることでもございません。ただ、お許しください。わたしどもの力では、ワタル様を元の世界にお戻しすることはできません。ワタル様をお呼びした昨夜と同じように、神の預言を待ち、恐らくはしかるべき魔具を授かった後、星々の配置が適した夜に送喚の儀式を行う必要があるでしょう。そのためには、まず我らが都へと向かうのがよろしいでしょう。ここは前線に近く危険な場所です。ギリオトリアの軍勢に狙われているとあってはなおのこと。その点、都ならば備えは万全です。身を清め、神殿にて次なる預言を待ちましょう。どうか御心配なさらぬよう。これより我ら、ワタル様を無事にお帰しするために、全力を尽くします」
ヨムラは力強く宣言した。
そこは白と黒の世界であった。床も壁も天井も、白と黒のタイルが交互に並ぶ巨大なチェッカーボードを思わせる造りであり、書棚や脇机や椅子など、生活の匂いを感じさせないわずかな調度品も白と黒の一対で揃えられていた。
「貴様も《来訪者》を呼ぶ力を得ていたとはな。ふむ、どこまでもバランスが保たれるではないか」
部屋の主の一人である、黒いローブの魔術師が嘲笑の笑みを浮かべながらいった。見つめる先には、水晶の止まり木に落ち着く一羽のオウムがいた。見つめられてオウムは、その部屋では不自然に鮮やかな翼を羽ばたいて、居ずまいを正した。
「もちろんです。バランスこそが、このゲームの要です」
オウムは橙色のクチバシを天に掲げて、甲高い声を張り上げる。
黒の魔術師の正面には、オウムの止まり木と同じく、水晶であつらえられた巨大なテーブルがあった。とはいえそれは、食事をしたり本を読むためのものではない。テーブルの表面は、あるところは大きく盛り上がり、あるところは窪み、さながら大地の様相を呈していた。そこには、山があり谷があり、川と海と平野があって、森があった。世界を模して作られた、巨大な箱庭であったのだ。そしてその上には、点々と精巧なミニチュアが置かれていた。その多くは白色の《狗頭人》に黒色の《蜥蜴人》である。同じミニチュアはひとつとしてない。どれもが、仕草や衣装を違えていた。
いま、黒き魔術師の視線の先には、深い森と洞穴があった。そこにくたびれた《狗頭人》のミニチュアが三十体ほど固められていた。さらには、箱庭全体を見渡しても一際異彩を放つ、毛も鱗もない人形、水晶から削り出された人型のミニチュアが、その中央に配置されていた。武器も鎧も身にまとわず、粗末なマントを体に巻き付けている。
「さてさて、お互いの手駒が揃い、いよいよこれで面白くなった。とはいえ、両軍に来訪者が加わるのは、かつてない事態だよ。ふむ、これは先が読めないねえ」
黒魔術師は顔をあげ、《ゲームボード》の向こうにいる、白いローブの魔術師を見つめた。白き魔術師はその視線を無視し、たくわえた顎髭を手でさかんにしごきながら、静かに盤面を見つめていた。やがてゆっくりと目をあげる。
「減らず口をたたいとる暇があるなら、せいぜい次の手を考えるがいい。すぐにお前の番じゃ」
白魔術師は、唇の端をもごもごと動かしていった。
黒魔術師は肩をすくめると、椅子に深く腰掛け直し、サイドテーブルに用意してあったグラスを手に取って、ゆっくりと口元に運んだ。
「もちろん、そうさせてもらうさ。だが、胸の高まりが抑えられんのだ。忘れていた高揚感が蘇ってくる。久方ぶりに血が沸くではないか。今や感じるぞ、永き友よ。我々の別れのときは迫っている。ゲームの終わりが近いのだ」
黒の魔術師は琥珀色の液体――芳醇な香を蓄えた蒸留酒――を口に含むと、ゲームボードの上に立つ、武装した二十人からなる《蜥蜴人》の軍団に視線を集中した。昨夜、渉たちを襲った一団は、その瞳に確固たる意志と殺意を秘めて、深き森の奥へと入り込んでいる。
黒魔術師は満足げに微笑んだ。さらに、北方の切り立った岩山の山頂で、雲に隠れて翼を休める巨大な竜へと視線を向けた。火山の吹き出す炎の中から生まれた凶悪な巨竜は、その背に不気味な黒い仮面で顔を隠した《黒騎士》の人形を背負っている。巨竜はやがて、雲を蹴散らしながら飛び上がり、ぐるぐると岩山を旋回し始めた。そうして、目標を定めると、力強い羽ばたきとともに、矢のように空を裂いた。その目指す先が、白い水晶の勇者であることは間違いがなかった。
「おやおや、わたしの手駒が《守護獣》を目覚めさせたようだね。勤勉なのは結構なことだ。今のところ、我が軍勢はよく働いてくれているよ。貴様の動き次第だが、このままだと来訪者、いや、勇者同士の激突もすぐに見られそうだな」
その瞬間、オウムの足下で、止まり木に添えられていた振り子が揺れて、カチリと音をたてた。
「白の魔術師に告げます。時間です。魔力を注いでください」
オウムは陽気な声でいった。
「タイムリミットがきたようだよ。さあ、早くしてくれたまえ」
黒き魔術師は、余裕の表情で顎をしゃくると、白き魔術師の手番を促した。その所作に、白き魔術師は鼻を鳴らした。
「胸が高まるのは、わしも同じよ。騙し合いばかりのゲームにも少々飽きがきたところじゃ。だが決戦には、時期が早すぎるようじゃな。北へ向かえば、おのずと両者は相まみえるじゃろうて。なにも焦ることはない」
白き魔術師は小さく呪文を唱えた。すると、森の周囲に散らばっていた雨雲がゆっくりと動いて、森の上へと群がっていった。湖や川からも水蒸気が立ちのぼり、次々と小さな雨雲を生み出しては、雲の覆いを巨大に育てあげていく。洞窟で休む《狗頭人》達の姿が静かに覆い隠されていった。
「このペテン師め……」
黒き魔術師は静かに笑った。