第一話 リアルな世界
邪悪なものが目を覚まそうとしていた。その気配に、あらゆるものが静止し、声を失った。風も止んでいた。並ぶ大樹の枝ひとつきしまず、木の葉一枚そよがない。太陽ばかりがギラギラと輝いて、影が不自然なほどに濃く、大地へと押しつけられていた。
巨大な城塞都市《リン・ベルミカ》の大門の前には、見慣れぬ人だかりができていた。その一人一人が、世界でも名だたる戦士であり、魔術師であり、僧侶であった。あまねく世界を旅し、幾多の魔物を討ち滅ぼし、奇蹟と神秘を欲しいがままににしてきた歴戦の勇者たちである。だが、これから起きようとしていることは、彼ら勇者たちをしてさえ、ただの傍観者でしかいられぬものであった。申し合わせたように、ある一点を中心として、ぐるりと巨大な円を描く勇者たち。その視線の集まる先にあるのは、虚空に浮かぶ、この世のものならぬ穴である。厚みはなく重さもなく、それでいて、どの角度から見ても“空間を蝕む闇”として確かにそこに存在しているのであった。
その穴の前には、一人の戦士が颯爽と立ちはだかっていた。戦士の名はアストレイ。人の限界を超え、世界を変える力すら手にした男。あまたの勇者がしのぎを削るなかにあって、比類無き真の勇者と呼ばれる、孤高の存在であった。
邪悪な臭気が穴の向こうから湧き出てきた。それは実体を備えた闇の触手となって、食虫植物のように獲物の気配を求めて蠢いた。遠くアストレイをとりまく勇者たちは、身にまとう鋼鉄を鳴らしながらジリジリと後退りした。危機に際する本能から、知らずと武器を構え、守りの魔法を準備する者もいる。アストレイは足下にじゃれつく触手を蹴り飛ばしながら、周囲のざわめきを冷めた目で見ていた。それはまだ、始まりですらないのだ。
やがて遠い雷鳴のような轟きのあとで、大地が揺れた。異界へと通じる穴――《門》は、想像を超えた質量が通過しようとするその衝撃に悲鳴をあげていた。一陣の冷気が《門》から吹き出てきて、土ぼこりを舞いあげた。思いだしたかのように木々がざわめき、城壁を成す石がビリビリと震えた。
人の輪にざわめきの波紋が拡がり、押さえきれない恐怖の叫びが、そこかしこであがった。同時に、《門》の向こうから甲高い吼え声が響いてきた。金属的な大音声だ。だれもがその異様な音に、つかの間恐怖すら忘れて痺れたようになっていた。勇者アストレイもまた、不敵な笑みを顔にはりつけてはいたが、手の平が染み出る汗でべとつくのを感じていた。
とてつもなく邪悪なものが、《門》の向こうから顕れようとしていた。勇者アストレイが、神々の助力を得て開いた《門》。それは、《最果ての迷宮》の最奥へと繋がっていた。アストレイは呼び出そうとしていたのだ。あらゆる世界で最も邪悪にして最も強力な存在を。まだだれも見たことのない、危険ななにかを。それはただ、自分が何者よりも強いことを、神々に証明するためだけに――。
甲高い咆吼は、ヘビのようにうねる地面の脈動と高らかに響きあった。人の輪のあちこちでほころびが生まれ、この決戦を見届けようとする決意が、わずかにも鈍った者たちは、互いに手を取り合って城壁の向こうへと避難した。だが多くの勇者たちは、油断なく身構えながらも、そこに踏みとどまることを選択した。そしてついに、そうしたすべてをあざ笑うかのごとき戦慄の影が、《門》を飛びだしてきた。《闇の古代竜》である。
ドラゴンは、その圧倒的な質量で《門》を破壊した。そうして空へと舞いあがり、暗黒に濡れる両翼を大きく広げた。厚い皮の翼に太陽が隠されて、地上は一瞬にして暗がりに覆われた。黒い鱗が不気味に煌めき、目は赤黒く燃えていた。うなるように開いた口には、邪悪な歯がずらりと並び、不気味な光りを放っていた。その口の奥では、長く赤い舌が、呼吸にあわせて渦を巻いている。
だれもがつかの間、呆けたように闇のドラゴンを見つめた。それは巨大で、力強く、なによりも美しかった。あらゆる冒険を乗り越えてきた勇者アストレイにしても、驚嘆なしに、その怪物のかもし出す死を呼ぶ美しさを見つめることはできなかった。だが同時に、泡立つ歓喜が勇者の鼓動を臨界まで速めた。この化け物を、己が足下にひれ伏させるのだ。
ドラゴンは力強く羽ばたきながら旋回し、グングンと上昇した。巨体に似合わぬ軽々とした飛翔であった。このときになって始めて、安全な距離をとっているとたかをくくっていた見物の勇者たちも、死がだれの上にも平等に降り注ぎ得るものだと知った。遥か上空から獲物を探すドラゴンの瞳が、勇者アストレイをただ一人の敵と認めるどんな保証もないことに気がついたのだ。
だが、勇者アストレイは弓と矢を手探りで取り出すと、空の闇にめがけて矢を放った。魔力の込められたその矢じりは風を裂き、吸い込まれるようにドラゴンの胸元へと突き刺さる。苦痛の呻きが雷鳴のように大気を震わせ、雲を散らした。
「勇者アストレイがここにいるぞ!」
轟きよりも高らかにアストレイは叫んだ。
黒い猛禽は、白く輝く剣を構えた忌々しき敵の姿を捕らえた。その目が、怒りのために溶岩色へと染まる。《闇の古代竜》は牙をむき、岩をも沸騰させる地獄の炎を吐きだしながら、勇者アストレイに向けて急降下をした。
「ウォオオオオオオオッ!」
ドラゴンのものとも、アストレイのものとも分からぬ雄叫びが、空と大地に響きあった。決戦の火ぶたが、ここにきられたのだ。
憂鬱な朝が、今日もまたやって来た。学生服に身を包んだ桜井渉は、背負った眠気に押し潰されそうになりながら、通い慣れた通学路をとぼとぼと歩いていた。ふと立ち止まり、交差点の反射鏡に映った自分の顔を見て、その青白さに驚く。
「低血圧なんだよ……、基本的に」
渉は頬をなでた。おまけに昨日は夜更かしをした。目の下にくっきりと浮き出た隈がその動かぬ証拠だ。
「パソコンのやりすぎかな。なんか目もシバシバするし、肩はこるし……」
バキバキと音をたてて肩を回した。頑固なコリをいくらかでもほぐそうとするのだが、長い時間をかけて積み重ねられた疲労は、そう簡単にとれはしない。いっそ生活を根本的に改善し、早寝早起きを心がけ、適度な運動をし、パソコン机にしがみつく時間を減らしたりしたらいいのだろう。そんなことはわかっている。同時に、そんな生活は無理なこともわかりきっているのだ。絵に描いた餅どころか、絵に描いた満干全席。とうていあり得ぬことだった。歪んだミラーに映った自分の、そのいかにも頼りない「もやし」のような体が、動かぬ証拠である。
「ふわぁあ……」
渉は思いきり大きな欠伸をひとつすると、気怠げな歩みを再開した。そんな渉のテンションを知ってか知らずか、突然その耳に、頭に響く甲高い声が割り込んできた。
「おっはよう! 昨日はすごかったな。本当に一人で倒しちゃうんだもんっ。見てて興奮したぜ! オレ、渉のことマジで尊敬するよ」
声変わりの途中のかすれたソプラノの声で、小倉健児は口早にいった。健児は酒屋の次男坊で、渉とは幼稚園からの知り合いである。
「ああ、おはよ」
渉は頭痛を逃そうと、眉間をつまみながらいった。
「でも、結構ヤバかったんじゃないか? あいつの息にはさ、《炎への耐性》がほとんど効かなかったみたいじゃん。いきなり三桁のダメージ喰らってたから、もう絶対ダメだって思ったもん」
健児は激しい身振りを交えながら、昨夜の渉の奮闘を再現した。興奮冷めやらずといった感じで、その声がやけに甲高い。渉は時折うなずきながらも、口を挟むタイミングをつかめず、黙々と歩いた。ようやく遮ることができたのは、健児の話が三度目のループに入ったところである。渉の寝ぼけ頭にも、どうにか血が回り始めた。
「はいはいはい、まあ、《竜殺し》を《賦与》したら、《星霜の剣》のコンボでけっこうダメージが回ったからね。あれで勝てるって確信したよ」
「へー、なるほどねー。おれも、もう少し魔法覚えようかな。レベルの高い《賦与》とかは、ちょっと手を出しにくいんだけどさ、やっぱ、アストレイみたいに強くなりたいもんなあ」
そういって健児は熱心な瞳で渉を見つめた。
二人は、オンラインゲーム、「ロストイマジン」のプレイヤーであった。それは二年ほど前にサービスが開始されたネトワークゲームであり、いわゆるMMORPGのひとつである。世界各地にいる数千人のプレーヤーが同時に一つのサーバに接続し、サーバー内に構築された架空世界の住人に扮して、他のプレーヤーと協力、あるいは対立しながら、架空世界での生活や冒険を楽しむゲームだ。
渉も健児もロストイマジンの世界にそれぞれの分身を有していた。渉のそれがアストレイであり、健児のそれはヘラクスであった。昨夜、アストレイと闇のドラゴンとの決戦を、ヘラクスは遠く取り囲む人垣に混じって見つめていた。ヘラクスも修練を積んだ戦士であったから、並のモンスターを相手に後れを取ることはないし、普段はアストレイとともに、世界の最も危険な地域を闊歩し、武勇を轟かせていた。だが、アストレイと比べてしまっては、ヘラクスはその足下にも及ばない。
「そういや舟木さん、今度のアップデートで魔法を大幅に増やすっていってたよ」
渉はいった。舟木さんとは、ロストイマジンの中心となる開発者の一人だ。サービス開始当初から、自身もロストイマジンのゲームに参加しているらしく、渉とはゲーム中で親しくなり、もう半年くらい前からメールでやりとりをしている仲であった。
「《闇の古代竜》も、正規版ではもう少し強くするみたいなこといってたな。昨日みたいに一人で勝つのは無理になるかもね」
「そうなると、ヘラクスじゃ、ちょっと太刀打ちできないかもな。そういや、《世界のカケラ》の情報って、なんか手に入れた?」
健児は、渉の鞄で揺れている小さなアクセサリーを見つめながらいった。濁った色の水晶のカケラが麻ひもに繋げられているそれは、ロストイマジンの世界に登場する、とある重要アイテムを模倣したものであった。
《世界のカケラ》――それは、ロストイマジンの世界の各地に、十のカケラとして隠されているという強力な《聖柩》であった。そのカケラの一つを所持するだけでも絶大な力が得られ、そのすべてを揃えたときには天地開闢に等しい力が得られるといわれている。もっとも真偽のほどは定かではない。ロストイマジンのサービス開始以来二年がたつが、まだ、六つしかその存在は確認されていないのだ。にもかかわらず、勇者アストレイはそのうちの四つを所持してるのだから、やはり特別な存在だということができた。
「後のカケラって、いったいどこにあるんだろうね。八方手を尽くしてはいるんだけどさ、てんでだめ。情報もないよ。だいたい十個集めたらいいことがあるって、ホントなのかな? これに関しては、舟木さんも全然教えてくれないしさ」
「だめだよっ! 舟木さんに聞くのはズルイだろ」
健児が声を一層に甲高くしていった。ヘラクスもまた、カケラを求めて日夜世界を飛び回っている冒険者の一人なのだ。
「わかってるって。カケラのありかなんて聞いてないから、怒らないでよ。まあ、聞いても教えてくれるわけないしね。健児も知ってるだろう? 舟木さん、肝心なことになると、それはちゃんと遊んで楽しんでよって感じで、すぐにはぐらかすんだ」
渉はいいながら鞄に提げた水晶のカケラを手の平ですくった。指先にのるくらいの小さなそれは、黒くくすみがかっていて、特別きれいな石というわけでもなかった。だがそれは他でもない。舟木さんが渉へとくれた、特別な贈り物だった。
「いいよなあ、それ。本物みたいだもんなあ。アストレイがさ、四つカケラを集めたからって、その御褒美にくれたんだろう? おれも集めたらくれるかなあ?」
健児はヨダレを垂らしそうな顔で、渉の手の平で鈍く輝く《世界のカケラ》を見つめた。
「さあ、どうだろう。だいたい、まだ発見されてないカケラは、あと四つだけだろ? どっちにしても、ぼやぼやしてると、だれかに先を越されるよ」
そういいながらも渉は、舟木さんは決して、他のだれにも《世界のカケラ》を贈ることはないだろうと思っていた。それは、自分とアストレイという、唯一無二の関係があってこそのものに違いないからだ。
「君とアストレイになら、これを託すことができると思うんだ。大事にしてよ」
舟木さんは、そんな手紙を添えて、《世界のカケラ》を送ってきた。
渉は《世界のカケラ》を見るたびに、アストレイを感じた。それは、自分とアストレイの絆がこの世に結実した、ひとつの奇跡のようだった。大事にしてよなんて、いわれるまでもない。
話しながら二人は、一軒の家の前にさしかかった。その瞬間まで、どうやってヘラクスが《世界のカケラ》を手に入れるのかなんてことを、力強く語っていた健児であったが、閉ざされた門を目にした途端に、あわてて口を閉ざしてしまった。人が変わったように押し黙まり、口をへの字に結んでいる。渉にしても、あえてそこでロストイマジンの話題を口にしようとは思わない。
――肉切り包丁バラバラ殺人。
二か月ほど前のことである。写真週刊誌にそんな煽りで特集された事件が、まさにその家で起きていた。小学校六年生の少年が、高一の兄と母を殺害し、大きな肉切り包丁でその頭部と四肢を切断したのだという。そんな事件が、自分たちのごく近所で起きたということでも驚きなのに、さらにいえば、その惨劇の引き金となったのが、兄弟間でのロストイマジンをめぐるトラブルであったというのだから、渉らにしてみれば二度びっくりである。
少年の写真は、事件後すぐに、インターネットで公開されていた。渉と健児は、並んでその写真を見ながら、時折、道ですれちがったことのある少年だと確認しあった。例え自分に殺意が向けられることがないにしても、殺人者と触れあえる距離にいたという事実は快いものではない。事件発覚と同時に少年は保護されていたから、もはやなんの心配もないのだが、それでもその家の前に立つと、なんとも空恐ろしい気持ちになった。
渉は、通りすぎた白い家を、一瞬振り返った。少年逮捕のエピソードというのがまた、事件のおぞましさに凄みを加えるものであった。なんでも、隣家からの通報で腐臭の満ちる屋内に警官が踏み込んだとき、少年は一人、返り血を浴びたままの姿でゲームをやっていたというのだ。それがロストイマジンであることを渉は確信していた。
渉はわずかに足を速めた。健児も、あわてて渉に続く。そうして、二人は角を曲がり、その家が視界から完全に消えたところで、ようやく立ち止まり、息をついた。
「ヒーッ」
健児は、奇妙な声を漏らして、ぜいぜいと大きく息を吸った。
「あー、だめだ。あの家、なんか怖いよなあ。おれ、向こうの角からずっと、もうずっと息、止めてたよ」
健児の言葉に、自分もだよと渉は笑い、その声に重ねるようにして健児も笑った。朝の陽光が、思いだしたかのように二人に降り注ぎ、沈黙の呪縛はすぐに解かれた。
「おれさあ、ロストイマジンは好きだけど、それでだれかを殺そうなんて、絶対に思わないよ。普通そうだろう? 犯人のあの子もさ、どうしてそんなことをしちゃったんだろうね」
健児がいった。
「わかんない。たぶん、普通じゃなかったんでしょう? この前のニュースで、精神鑑定にかけられるっていってたじゃん」
「例えば、アストレイのデータを消されたりしたらどうする? おれなら、かなり落ち込むよ。この二年の苦労が水の泡だもん。でも、殺すまではしないと思うんだよね。渉ならどうする? やっぱり、殺してやるって感じで怒る?」
「うーん」
渉は首をひねった。もし、そんなことが本当にあったら、自分ならどうするだろうか。そうなってみなければ分からないのだが、きっと、正気ではいられないだろう。アストレイは、自分のかけがえのない一部なのだ。恐らくそれは、自分でもそう思う以上に、深く自分というものの本質に組み込まれている。
「ちょっと考えられないよ。殺すとかどうかじゃなくてさ、なんていうのか、アストレイがいない世界なんて、ちっとも想像できない。おれ、ロストイマジンがなかったら、今ごろ、一体なにやってたんだろうって思うもん」
「そうだね。でも、案外サッカー部とかに入ってたりして」
健児はけらけらと笑った。
「でもね、そんなの渉らしくないよ。やっぱり渉は、アストレイじゃなきゃ」
渉は窓枠に切り取られた空をぼんやりとみつめていた。雲がゆっくりと流れていた。黒板をチョークが叩くコツコツという音。ノートを走るシャープペンの音。教科書を読み上げる教師の声。なにもかもが単調で、上辺だけを滑り落ちていく。現実は退屈だ。
だがアストレイを操っているときは違った。高く雲に吸い上げられるような、あるいは大地の淵に落ち込んでいくような興奮を感じることができた。昨夜もそうだ。《闇の古代竜》との激闘では、恐怖と殺意が、魂に直接爪をたてた。生々しいまでの生命の感覚が奮い起こされ、野生の本能が刺激された。細胞のすべてを動員した総力戦。存在を賭けた戦い。倒さなければ倒されるという、単純にして、それだけになによりも力強い事実。ギリギリで牙を避け、重い剣を打ちつける。視界は赤で染まり、耳鳴りは止まず、汗と鉄と血の臭いが鼻孔を刺した。そうしてついに、アストレイは勝利したのだ。あの恐るべき巨体が音を立てて倒れると同時に、百を超えるギャラリーたちから一斉に歓声があがった。鳴りやまぬ声の嵐を忘れることができようか。そのひとつひとつが、心からの叫びであった。むろん、歓声とはいっても現実に声が聞こえるわけではなく、ディスプレイ上に吹き出しの形でメッセージが表示されるだけだ。だが、画面が激闘を讃えるメッセージで覆われてまるで収拾をみせぬさまは、鳴り響く歓声そのものとして、渉の鼓膜を震わせた。
比べれば、現実はあまりにも色あせて見えた。ロストイマジンの世界では英雄だった渉も、ひとたび現実に戻れば、目立たぬ路傍の石ころに過ぎなかった。とりわけ顔がいいわけでも取り柄があるわけでもない。白く細い体は見るからに弱々しい。気の利いた会話もできず、人前に出ることも嫌いだ。内向的な性格のせいで学校でも友達は少ない。とはいえそれが苦痛というわけでもなく、気の合う数人の仲間とよりそって、そっと気配を消して一日を過ごしているのが心地よかった。不満がそうたくさんあるわけではない。ただ、退屈な毎日であった。
渉は、ふと幼い時分に想いを馳せた。白く霞のかかった記憶の向こうに思い浮かぶのは、なにも恐れなかった幼少時代だ。無知と無邪気さ故に、絶対無敵の感覚が全身が満ちていた。自分ならだいじょうぶ。自分ならできる。意識してはいないまでも、そんな漠然とした自信のようなものがどこか心の奥底にあって、毎日が希望とか安心とか喜びで満たされていた。テレビのヒーローに憧れたときも、世界の平和を守るカラフルなヒーローたちと自分との差は、変身セットを手に入れることができたかどうかの違いでしかなく、もしも自分がそうした偶然に出会ったならば、いつでもヒーローになれるのだと信じていた。そのために勇気が必要ならいくらでも沸いてくるし、厳しい特訓が必要なら喜んで耐えられるはずだった。
だが、そんな感覚は、背丈が少しずつ伸びて、遠くまで世界を見渡せるようになると同時に薄らいでいった。世の中には無数の人たちが暮らしていて、ニコニコとなんでも聞き入れてくれる大人たちとは別に、公園の砂場やブランコを争って、全力で戦わなければならない相手もいるのだと知った。そんなケンカに負けたのが、最初の挫折だったのかもしれない。初恋の女の子は振り向いてもくれなかったし、かけっこではいつもビリだった。テストはマルよりもバツの数が多くて、そのせいで、将来の夢から消えていった職業は多い。将来の夢なんて聞かれても、やりたくないことばかりが多くて、本当にやりたいことなどは分からない。ともかく自分は世界の中心にいるわけでなくて、むしろその片隅でひっそりと息をしているのだということを、ゆっくりと思い知らされてきた。「あきらめろ」などと自身を説得する必要すらなく、それは自然と胸に染みた。夢だって? そんなものはどかかに消えてしまった。ヒーローになんてなれるはずがなかったのだ。
渉はため息をつくと、板書用のノートの下に隠していたもう一冊のノートを取りだし、パラパラと頁をめくった。薄いブルーの罫線の入った真っ新な頁を開くと、そこに慣れた手つきで勇者アストレイの姿を描き始める。渉のペンが走るのと同じ速さで生み出されていく精悍な眼差し、厚い胸板、たくましい腕、丸太のような脚。なにもかもが渉にはないものであった。だが、この勇者アストレイこそが、紛れもなく渉の分身なのである。渉は、アストレイの右手に両刃の剣を持たせた。その重みに、上腕の鉄のような筋肉が一層に盛り上がる様子を加える。ロストイマジンの大地を走る風は、アストレイの赤毛をたなびかせるだろうか。渉のペンが風の動き加えた。そうして勇者は、顔を打つ砂塵に、その目をかすかに細めるのかもしれない。
渉はノートに覆い被さるようにしていた頭を持ち上げて、遠目にその出来を確認した。悪くない。満足した渉は、アストレイの立つその余白に、小さな物語を書き加えることにした。冒険の舞台は《エトランカ砂漠》だ。古代の秘宝。危険な罠。恐ろしい呪い。わき起こる物語のイメージは無限であった。アストレイの日々に、退屈さの忍び寄る隙などあるはずもなかった。
「ねえ? さっきの時間も書いてたんでしょう?」
休み時間になると、そそくさと健児がやってきて、渉のノートをのぞき込んだ。
「ちょっとだけね。新しい冒険を考えてたんだ」
渉は、アストレイのイラストと、几帳面な字で書かれたノート二頁分の小説を見せた。
「アストレイが遺跡に眠る秘宝を見つけるんだ。古代の呪いに苦しむ砂漠の《狗頭人》たちを助けることにもなる」
「すげえな、続きは?」
ざっと目を走らせた健児は、感心した表情でいった。
「次の時間に書くよ。待ってて」
渉はいった。
「マジでこんなイベントがあったらいいね。また舟木さんにいってみたら? てかさ、渉は滅茶苦茶ロストイマジンが好きなんだなあって思うよ。こうやって、いっつもロストイマジンのことばっか考えてるもんな」
健児は渉を、見慣れぬ異国の人間を見るかのように、まじまじと見つめた。
「もともとゲームは好きだったけど、ロストイマジンは違うんだよね。全然別物。なんていうのかな、昔から想い描いてた世界がそこにあるって感じなんだ。自分がヒーローになれる世界。すぐに夢中になったし、気がつけばもう抜け出せないくらいにドップリとハマってた」
渉は、ついつい口調が熱くなる自分に苦笑した。だが、そんな渉の笑顔は、次の瞬間に凍りつく。
「まあた、ロストイマジンかよ」
突然、渉の肩越しに野太い声が響いた。渉が振り向くよりも早く、ヌルリと突き出された手がノートをひったくっていく。
「あ……」
渉は遠ざかるノートを、ポカンと口を開けて見送った。
「おれが見てやるよ」
鈴木雄太は、当然の権利のようにいった。渉は立ち上がりはしたものの、どうしてよいのか分からず、おどおど手を伸ばしたりひいたりした。
雄太は、いわゆる不良に分類される生徒であった。それほど非行が目立つわけではなかったが、粗暴な性格は気弱な生徒を震えさせるに十分な威圧感があったし、そうして生徒たちを脅して歩くことを楽しんでいる節もあった。特に渉や健児などのオタクっぽいグループは格好の獲物である。同じクラスになって以来、危うきに近寄らずとばかりに雄太の目にとまらぬようにしていたのだが、不幸なことに、渉は目をつけられた。こうして向こうからこられてはどうにもならない。後はただ、一刻もはやく嵐が過ぎ去るのを待つばかりであった。
「あいかわらず、くだらねぇもの書いてるんだな、うちの勇者様はよお」
雄太は声を張り上げた。
「ゲームの中でのはなしだよ」
渉は雄太の機嫌を損ねぬよう、弱々しく微笑みながらいった。雄太は意に介さずといった調子で、悠々と頁をめくる。そこに、日頃雄太とつるんでいる小杉良一までもがやってきた。
「なんか面白いものあんの?」
「こいつが、またゲームの世界にいりびたってるからよ、ちょっと現実世界に引き戻してやってるワケよ。リハビリ、ってやつ?」
良一の問いかけに雄太は笑った。
良一は、かつてロストイマジンのプレイヤーであったことがあるらしい。しかも渉にとっては最悪なことに、勇者アストレイのことも知っていた。
「まさか、あのアストレイが、お・ま・え、とはねえ。雄太にも見せてやりたかったよ。この弱虫が、ゲームの中じゃずいぶんといきがってたんだから、マジ笑えるぜ。まあ、あんまり勘違いされちゃあ、たまんねぇし、おれらが現実を教えてやんなきゃ」
良一はいった。
「しかしよお、よく恥ずかしくもなく、こんなもん書けるな、おい。へっ、おまえが勇者ってガラかよってんだ」
雄太は渉に向き直ると、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうだね、ガラじゃないよね……」
渉はかすれた笑い声をもらす。助けを求めて健児の姿を求めるが、健児は既にどこかへと消えていた。
「で、なんの用……なの? お昼のパンなら、買いにいくけど……」
「今日はパンはいいんだよ。だいたい、用がなきゃ、話しかけちゃだめだっていうのか? 冷たいもんだよな。クラスメートだっていうのに、いつも健児としかしゃべってねえしよ。そうだ、この際だから、みんなにもっと自分をアピールした方がいいんじゃねえか。なにしろ偉い勇者さまだっていうんだからよ。そこんとこを、みんなに教えてあげなきゃ。おい良一、こいつのノートを読んでやれよ」
雄太がいえば、良一はわかったと唇を歪ませる。
「あ、だめだってば……」
渉は浮ついた笑みをひきずったまま、びくびくとノートに手を伸ばした。だが、雄太に後ろから羽交い締めにされ、強引に引き戻されてしまう。
「ははは、ダメダメ、渉ちゃん」
良一はそういって、コホンと咳払いをすると、ノートの一文を読み始めた。渉が、想いを込めて綴った、冒険の物語だ。アストレイの息吹を感じ、アストレイに身を重ねた物語。そのそこかしこで、二人は意地悪な喜悦に身を委ね、身をよじって笑った。渉はか弱く手足を振って抵抗するが、太い腕でギリギリと締めつけられて、息をするのも辛いというありさまだ。その惨めな姿を蔑んでか、どこからか失笑が起きた。
「返してよ……」
腕の隙間から、渉がようやく絞り出したのは、今にも消え入りそうな声だった。痛みもあった。怒りもあった。悔しさもあった。それでも渉はそのすべてを飲み込んで、ひたすらに害意のない笑顔を浮かべた。笑ってやりすごすのが一番だというのが、これまでに嫌というほど学んできたことのひとつだった。今日のこの嫌がらせだって同じだ。案の定、二、三分もすると、二人は早々に飽きてしまったようだ。雄太が大きく欠伸をして、良一も読み上げるのを止めた。
「案外つまんねえな、これ。もういいよ。ほら」
良一は、無造作にノートを投げ返した。ノートは渉の腹にあたって、ぱさりと床に落ちる。雄太の腕からもがき出た渉は、あわててノートを拾いあげた。ノートをしっかり抱えて、これで受難の時も終わったと、そっと安堵の息をもらした。だが、二人の嗜虐心は未だ満たされてはいなかった。
「ほかに、なんか面白いもんは持ってねぇのかよ」
雄太がおもむろに渉の鞄を手に取った。
「なんにもないよ」
あわててそういった渉の言葉を、雄太の背中は傲然と無視した。以前、健児に貸そうとして持ってきたゲームソフトを見つけられ、雄太に持っていかれたことがある。それもまだ返してはもらっていないが、いまとなっては過ぎたことであった。肝心なのは、新たな被害を出さないことである。
良一も当然のように、雄太と並んで渉の鞄をのぞき込んでいた。
――まあ、いいか。
渉はぼんやりと二人の背中を見つめた。幸い今日は、二人の興味をひくようなものはなにも持ってきていない。明日からは、このノートも家に置いてこよう。そうすれば、当分は、二人の悪戯の対象になることもなく、平和な日々を過ごせるだろう。
だが、渉の目論見は甘かった。
「なんだ、こりゃ」
雄太が、鞄の横に吊してあった《世界のカケラ》を手にとった。
「なんの飾りだ? へへへ、オタクのくせに、つまんねえ色気出しやがって」
途端に、ドクドクと言い知れぬ激情が血管を駆け上った。こめかみが脈打ち、頬が痙攣する。それは、他人が勝手に触れていいものではないのだ。全身が泡立ち、返せ、と唇が動こうとした。
「あれ? 怖い顔して、なに睨みつけてるの?」
雄太がすごんだ。他人を威圧し、意のままに操ることに慣れた口調だ。ただそれだけで、渉は体中の力が抜けていくのを感じた。血がひき、唇は閉ざされ、言葉が放たれることはなかった。怒っても無駄なのだ。自分には、このいじめっ子に立ちむかう勇気もなければ、やり過ごす力もない。渉は下を向いて唇を噛んだ。雄太はそんな渉の様子を満足そうに見おろす。
「なんとかいえよ、おい。これが、そんなに大事か? なあ?」
雄太が低くうなった。その声にすら人を殴りつける力があるようだ。渉はふらふらとよろめいた。
「いけないなあ、渉ちゃん。こんなのを学校に持ってきちゃあ」
良一が猫なで声をだした。その目が、弱者をいたぶる喜びに輝いていた。《世界のカケラ》など、二人にとってはなんの意味もないガラクタである。それでも二人は、ただ渉に屈辱を与えることができるとの理由だけで、それを奪っていくだろう。渉には、それがわかっていた。それは決して許してはいけないことだ。《世界のカケラ》は、自分とアストレイとの絆なのだから――。
「それは大事なものなんだ。だから、手を放せ」
はっきりと、そういってやればいい。簡単なことだ。そうして、そうして……それでもって、その後で一体どうしたらいいのだろうか。そういってにらみ返してやれば、ちょっとした意地を見せつけることはできるかもしれない。でも、ただそれだけだ。雄太のあのでかい手の拳骨をもらって、結局、自分は従うしかない。
「どれどれ」
雄太の指が、《世界のカケラ》を鞄から解こうとしていた。
――もう、だめだ。
渉は絶望に目を閉じた。その時である。
「先生が来たよーっ」
唐突に、陽気なキンキン声が教室に響いた。振り向けば、自身は配布するプリントを抱え、数学教師の大板を背後に引き連れた健児が、揚々と教室に入ってきたところであった。
「まだ少し早いですからね。あと二分ありますよ。それまでみなさん、楽にしててください」
大板は教壇に立つと、呑気にそういった。
ちっ、と雄太が舌をうった。
「おい、いこうぜ」
雄太は鞄を渉の腕に押しつけると、良一と連れだって廊下へと出てしまった。渉は、ほっと息をついた。
下校時間が来ると、再び雄太らに目をつけられないようにと、二人は早々に学校を抜け出していた。
「本当に助かったよ。もう、あれから休み時間の度に、二人がまた来るんじゃないかって、生きた心地がしなかったけど、なんとか無事にすみそうだし、それもこれも、全部健児のおかげだよ」
渉は校門を出てからも時折後ろを振り返り、自分たちを追う者がいないことを確認していた。
「ナイスタイミングだったろう? 先生をみつけたからさ、なんだかんだいって、無理矢理ひぱっていったんだよ。先生、なんか、ワケがわからないって顔してたけどね」
健児が胸を張った。
そんな健児の小さな体が今日はやけに大きく見える。渉は健児の手をとって、もう一度感謝の言葉を口にした。本当に、いくら感謝しても感謝したりない。健児が姿を消したときには、正直恨みもした。なんて友だちがいのないやつなんだろうと、胸のうちで罵りもした。だが、こんなにも素晴らしい友は他にいない。健児は、自分とアストレイの絆を守ってくれたのだ。
「で、《世界のカケラ》はどうしたの?」
健児は、渉の鞄を見つめた。そこには、もう《世界のカケラ》は吊されていない。
「ここだよ。とりあえず、あいつらの目につかないところって思ってさ」
渉はシャツの胸元をはだけて見せた。ネックレスのように、《世界のカケラ》を首からさげている。
「へー。いいじゃん。格好いいよ。いつも、そうしてればいいんじゃない?」
「だめだよ。また、あいつらに見つかっても困るし。明日からはもう、家に置いてくる」
「そっか、そのほうがいいね。でもよかったよ。まさか《世界のカケラ》が狙われるなんて思わなかったけど、無事だったしね。本当によかった」
健児は自分のことのように、しみじみといった。
「渉のアストレイはさあ、なんていうか特別なんだよね。おれにしてみても、もう神さまみたいなもんだからさ、やっぱり大切にしたいわけだよ」
「神さまは大げさだろ」
渉は笑った。
「いや、だって渉が強すぎたから、あのドラゴンも、こーんなに強くなるっていうんだろ?」
健児は目を輝かせながら、腕を大きく広げた。
オンラインゲームでは、プレイヤーが飽きることなくゲームを続けられるように、時折、ゲーム世界に新たな要素が追加される。それは、新たな魔法であったり、新たな武器であったり、新たな冒険の舞台であったりする。ロストイマジンもその例に漏れるものではなく、そうした大幅アップデートが間近であるとのアナウンスが、既に運営会社からされていたところであった。そして、昨夜アストレイが戦った、あの《闇の古代竜》こそが、次回のアップデートの目玉のひとつだったのである。
渉の操るアストレイが、ロストイマジンの世界で最も強力なキャラクターであることに異論をはさむ者はいない。加えてそのプレイスタイルは王道をいくもので、この手のゲームにありがちな、ルールの隙をついて小利を得ようとするものでもなく、ましてや違法な改造などということには無縁な、実に模範的なものであった。アストレイは自然とゲームに関わる人たちの注目を集め、そうして、それら注目に耐えうる、十分な実力を堂々と示してきたのだ。そんなアストレイには、しばしば、運営会社から舟木さんを通じて、新たなアップデートに関するバランス調整への協力依頼が寄せられていた。今回の《闇の古代竜》にしてもそうである。アップデートによって最強のモンスターとして配置されるはずだったこの闇のドラゴンが、実際にどの程度の強さであるのか、そのお披露目もかねて、ひとつのイベントが企画され、実行された。すなわち、最強のキャラクターと最強のモンスターの一騎打ちである。結果、アストレイは苦戦したものの、単身ドラゴンを討ち破ることに成功した。その戦いの一部始終をつぶさに解析した運営側としては、闇のドラゴンをもう少し強力なモンスターに書き換えることを検討したというのである。他にも、こうして《渉=アストレイ》がゲーム世界に変更を迫った例は数多い。健児は、そんなひとつひとつを数え上げながら、最後にこう締めくくった。
「渉とアストレイはさ、世界を変える勇者なんだよ」
家につくと渉は、真っ直ぐ自分の部屋へ向かった。鞄をベットの上に放って、制服のまま机の前に座り、パソコンの電源を入れる。廊下の向こうから「ただいまくらいいいなさい」という母親の声。「ただいま」と渉は声を張り上げる。ロストイマジンのプログラムを起動し、ホストサーバーにアクセスした。「おやつは?」の問いかけには「いらない」と答えた。「ホットケーキなのよ」と母親。画面が暗転し、次の瞬間にはモニターの向こうに中世を思わせる街並みが描かれた。ロストイマジンの世界にある、《グロト》という都市だ。「だから、いいってば」渉がそういうと同時に、画面の中央に、いかにも堂々といった構えでアストレイが現れた。胸元をわずかに覆う鎧姿で、いかつい大剣を手にしている。兜の下から赤毛がこぼれ、風にたなびいていた。
『こんちは、アストレイ』
さっそく画面にメッセージが映しだされた。メッセージの主は、タケルという魔術師だ。何度か一緒に冒険したこともある顔見知りの一人であった。
『ドラゴン退治、おつかれでした』
タケルがいった。
『こんちは。見ててくれたんだ。まあ、もう一回やったら、勝てるかどうか分からないけどね』
ロストイマジンの世界に入ってわずか数秒の間に、渉は現実の世界でのできごとをすっと忘れていった。雄太たちに舐めさせられた辛酸など、ここではなんの意味もない。その代わりに、勇者アストレイとしての誇りと自信が全身に満ちてくる。
『もし予定がなければ、これから一緒に狩りに行きません?』
タケルがいった。
『ごめん。待ち合わせがあるから』
渉はキーボードを叩いた。今日のお礼に、ヘラクスの経験値稼ぎを手伝うことになっていたのだ。
『では、またの機会に』
タケルはそういって去っていった。
タケルのプレイヤーは、何歳くらいの人なのだろうか。渉はふと、そんなことを思った。ロストイマジンのプレイヤーは比較的年齢層が高く、小中学生は少ないらしい。以前、オフ会に参加したときも、大学生や社会人が多数を占めていた。無論、渉は勇者アストレイのプレイヤーということで、そんな大人たちの尊敬と驚嘆の眼差しを独占することになった。それがなんともくすぐったくて、居心地の悪い気もしたのだが、思い返してみれば、なんとも楽しい経験だった。
ヘラクスの登場を待ちながら、渉はぼんやりと画面を見つめた。アストレイやタケルのように、戦士の格好をした人間が、何人も画面に映っている。どれも回線の向こうで人が操っている存在だ。出会ったこともない人たちが、こうして架空の世界で袖を振れあわせているのだから、不思議なものだ。対して、画面に映る人型の生物の中でも、犬の頭と白い体毛を持つ《狗頭人》や、直立した黒いトカゲのような《蜥蜴人》には操るプレイヤーがいない。ロストイマジンの世界では、この《狗頭人》と《蜥蜴人》の二大勢力が終わることのない争いを続けているのだが、渉たち勇者は異世界から召喚されて、その世界での勢力争いに荷担するという設定であった。
そういえば健児は、あのオフ会の帰りには、すっかりと拗ねていた。渉ばかりがチヤホヤされていたことにヤキモチを焼いていたのだ。それでも、《狗頭人》と《蜥蜴人》のコスプレ用のお面の作り方を習ったとかで、それなりに楽しんではいたようだ。今度作ってみるよ、なんていってたけど、あれからどうなったのだろう。
約束の時間を過ぎても健児は現れなかった。もしかすると店の手伝いにつかまったのかも知れない。カチカチとマウスを操り、意味もなく、剣を振ってみたりする。
もしこの世界に雄太がいたなら、自分は負けやしない。この世界でなら自分は、なにひとつ恐れず、なにひとつ失わず、なにひとつ挫けずにいることができた。雄太など、アストレイの敵ではない。この剣のひとふりで、退治してやれるのだ。渉は真っ直ぐに画面を見つめていた。渉の瞳がモニターの輝きを映す。そこでなら自分は、求められ、讃えられ、敬われ、畏れられているのだ。
『アストレイが一番強いというのは本当ですね』
『どうしたらアストレイみたいになれますか?』
『アストレイと冒険したっていったら、みんな羨ましがりますよ』
『お会いできて光栄です。一生の思い出にします』
『フレンド登録させてもらえますか。またお話ししたいので』
だれもがアストレイを賞賛する。
アストレイ。
アストレイ。
アストレイ。
心地よい響き。
アストレイ。
アストレイ。
アストレイ。
渉はその声のひとつひとつに勇者として鷹揚に答える。
アストレイ。
アストレイ。
アストレイ。
アストレイ様。
「なんだ?」
渉は思わず口にしていた。確かにアストレイを呼ぶ声が聞こえたのだ。だが、ふと我にかえってみれば、自分がだれの呼びかけに答えたのかが分からない。渉はしばし呆然とした。モニターの中では、アストレイが案山子のように立っていた。多くのキャラクターがその脇を行き来してはいるが、今は画面に浮かぶメッセージはない。
「だれ?」
渉は振り返り部屋を見回した。もしかすると、健児が来ているのかも知れない。だが、無論その部屋にはだれもいない。
渉は大きく息を吸い、耳を澄ませた。あれは空耳などではなかった。静寂の中、部屋に響くのは、パソコンの駆動音とスピーカーから流れる単調なリズムの音楽だけ。
ゴクリとツバを飲んだ。立ち上がり、壁を背にすると、もう一度部屋を見回した。ベットの下の暗がり。本棚と壁の隙間。あるいは閉ざされたクローゼットの中。光の届かぬところはいくらでもあったが、そこに声の主が潜んでいるとは考えられなかった。
やはり気のせいなのか。
渉は首を振った。少し疲れてるからだと自分を納得させる。うとうとしかけて、夢でも見たのかも知れない。そういえば、ノドが渇いていた。冷たいジュースでも飲んで来よう。そうすれば頭も冴えて、眠気も吹き飛ぶに違いない。渉は廊下に通じるドアを開けた。
「うわあっ!」
渉は叫んでいた。開かれたドアの向こうに見慣れた家の風景はなく、不気味に渦を巻く濃い暗闇があるばかりであった。電気が消えているのではない。単に暗いというのとは一線を画した闇がそこにあった。拡がるは虚無の空間。扉の向こうが、まるでなくなってしまっているのだ。
まるで《門》のようだ。
驚きと同時に、渉はそんなことを思った。その刹那、闇が雪崩のように押し寄せてきた。有無をいわさぬ勢いで渉の全身を飲み込む。たちまちうちに光は遠のき、息苦しさが喉に溢れた。まるで海の底に突き落とされたような感じだ。足場はなく、ひたすらに落ちていく感覚。必死にもがけども、手足に触れるものはない。
そこに、再びあの声が響いた。
「アストレイ……勇者アストレイ様。あなたさまのお力が必要なのです……」
だがその言葉は、渉の残した悲鳴にかき消された。