第77話 捨てた初恋、二度目の初恋
「会長、そろそろ着きますよ」
公浩の肩にもたれ掛かって眠っていた梓を優しく揺り起こす。
仮眠を取るために横になった鶫に席を空け、公浩と梓が隣り合って座っていたのだ。
ヘリコプターの中でもしっかり眠れる鶫の胆力は、名目上は見習い扱いではあっても、流石に一流の退魔師と言えた。
男の肩に頭を乗せて眠れる梓もまた同様に。
「ん………んぅ………あ、れ………あさちゅん?」
「違いますよ」
梓は寝惚けているのか、眼をくしゅくしゅと擦り、ニッコリ微笑んで告げる公浩から体を離す。その様子は見た目の幼さに相応な愛らしさで、笑みを浮かべたままの公浩の頬をさらに弛めさせた。
「もうすぐ夕方です。じき九良名に入るので、目を覚ましておいてください」
「ちなみに、私も少し前から起きてます」
どこか非難するようなジト目を梓に向けている鶫と目が合い、意識がハッキリしてきたところで若干照れながら顔を伏せる。
梓は覚醒直後であったためか、自分が公浩にもたれ掛かっていた事実に気付いていない。気付いていたら、それは錯乱して暴れかねない事態だ。
幸い、寝こけていた自分を見られた事による羞恥もあり、鶫の視線の意図は伝わっていなかったが。
(むむぅ……会長、男の人にここまで気を許す人じゃなかったのに。先輩相手なら仕方ないかもしれないけど。まさか、会長も先輩の事………)
鶫と梓の学生としての付き合いは一年も経っていない。
未だ短い付き合いではあるが、お互いの人となりはある程度は理解している。梓は男に対して距離を置きやすく、扱いも心なしかさばさばしていた。同じ生徒会の工藤、磯野、海北に対しても同じだ。
梓はそれなりに信頼する間柄の相手は名前で呼ぶ。付き合いの短い鶫も、その例に漏れない。しかし信頼関係、付き合いの長さなど問題無く資格を満たしている男子がいても、梓は名前ではなく苗字でしか呼ばないのだ。
比較的親しい工藤ですら名前で呼んでいるところは見たことがない。
男を嫌っているわけでも怯えているわけでもなさそうだが、どこか冷めているように感じられる。それと、僅かな警戒だろうか。
あるいは考え過ぎかもしれないが、梓と公浩の距離が他より近く見えるのは事実であり、鶫は自然と今後の梓を注意して見る事になった。
(さて、確か今日でしたか。入学にあたり、ある程度の勉強はしたと言っていましたが………澪は戦闘以外では色々と弱いですからね)
外の景色を眺めながら、士緒は学園に潜入しているであろう仲間を想う。
澪・ブライト・キャメル・ペンドラゴン。中々に大仰な名前だが、しっかり表の世界に根を張った正式なものだ。
澪は表向き、関東“社”統括である稲生平の式鬼神ということになっている。
山本五郎左衛門こと、稲生平は退魔師として確固たる地位を築き、誰もその正体を疑っていない。さらには仁科黎明との親交もあったため、その伝手で平の式鬼神である澪を風紀委員長に就けてほしいと要請されたのだ。
それから学園生に必要な最低限の学力だけ身につけさせて今日に至るが………士緒が見る限り澪は型に嵌まりやすい所がある。応用が苦手で融通が効かない。潜入任務をさせるには正直不安があった。
(まぁ、普通に学生として振る舞うだけだと言ってありますし、そう問題は起きないとは思いますが)
ちょうどその頃に起きていた澪と鏡の邂逅が問題と言えるかは…………微妙なところなので、後に強くは怒らなかった。
「? あれは………」
気紛れに通力で視界を強化して真下に広がる九良名の街並みを眺めていると、公浩の目にその人物が映りこんだ。そのまま人気の無い……と言うより人がいるはずも無さそうな小さなビルへと入って行く。
九良名市は近年、仁科黎明の手によって作られた試験的運用を目的とした都市だが、何も完全な更地から建てたわけではない。元々あった小さな町を呑み込み拡張する形で作られたため、そこそこに当時の建物が残っていたりする。
後は取り壊されるのを待つだけの建物の中に好き好んで入るなど、後ろめたい理由があるのは間違いないだろう。
その人物の動向に興味が湧いた。公浩は感情の赴くまま即、行動に移る。
「会長、鶫と先に帰っていてください。知り合いを見かけたので、ちょっと挨拶してきます」
「……知り合い?」
言うが早いか、公浩はヘリの扉を開けて取っ手に掴まりながら身を乗り出した。数百メートル上空だというのに全く躊躇う様子が無いのは、流石に退魔師といったところだろう。風が吹き込み、学園指定の冬服がバサバサと音をたててなびく。
「時間はかかりませんので。終わり次第、歩いて学園に向かいます。鶫、学園長が怒ってたら宥めておいて」
言いたい事だけ言うと、公浩は背中から倒れこむようにヘリから身を投げた。
「あっ、ちょ!? 亜笠さんを宥めるなんて無理難題を押し付けないでください………って、もう聞こえてないでしょうけど」
吹き込んでくる風を鬱陶しそうにしながら梓がドアを閉める。
鶫はいつものようにポニーテールで髪を纏めていたので何ともなかったが、長髪を真っ直ぐに下ろしただけの梓は髪がかなり乱れた状態だ。
もう姿が見えなくなった公浩を思い不機嫌な顔になっていた。そんな顔が窓に映り、ついでに寝起きのように乱れた髪型も目に留まる。
それを見て不機嫌が増すかと思いきや、ふと鶫へと視線を向けた。
「な、なんですか会長。え、髪に何か付いてます?」
自分の髪をじーっと見詰めてくる梓に、鶫が何か変な物でも付いたかと髪を触って確認しだす。
梓は「……違う」と否定し、何を思ったのか公浩から貰った髪留めの袋を開け、中から明るい色合いの赤と青のシュシュを一つずつ取り出した。
一つを手首にはめ、もう一つで乱れた髪を留める。鶫と同じポニーテールに纏めようとも考えたが、全く同じでは芸が無いので、少しずらしてサイドポニーに纏めてみた。髪をいじる事に慣れていないこともあり、若干不恰好ではあるが、それは普段の梓とは異なるイメージを鶫に与える。
「会長………凄くカワイイです! たまにはこんな風に髪型変えるのも良いですね!」
クールだが子供っぽさの抜けない梓とのギャップに自然とテンションが上がってしまう鶫。梓は照れくさそうに「………そう」とそっけ無く顔を逸らしてしまう。その先で夕暮れに移りかけている空と、そこに映る自分の顔を見た。
なぜ急にこんな事をしようと思ったのか、自分でも困惑気味ではあったが、窓に映る自分を見てそんな気持ちも薄れていく。
(………うん。お前も、やれば出来る)
公浩が悪くした梓の機嫌は、他ならぬ公浩の手で修復された。
意思とは関係なくニヤついてしまう口端を必死に押さえ付けようとしたが、その笑みはヘリを降りて学園に到着するまで続いた。
★
そこは、かつてオフィスビルだった事を感じさせる建物だった。
外装は未だ荒れ果てたと言える程には劣化しておらず、建物内もデスクなどの置物が乱雑に放置されている以外は至ってまともだ。
だからと言うべきか、高い費用をかけてまですぐに取り壊す必要も無く、街としてもそういった建物は放置気味に扱うしかなかった。
同じような建物は九良名のあちこちに残っている。もちろん治安に関しては注意を払っているため、柄の悪い連中の溜まり場になるような事は無い。
ただし、一人二人の密会程度まで取り締まる余裕が無いのもまた事実。そんな隙を突くように、一人の女が建物に侵入、待ち合わせの部屋へと入った。
「来たでー。羽々矢ぁー」
着替え等を行うロッカールーム。くすんだ鈍色のロッカーが居並び、その一つ一つの気配を確認するが、当然そんなものは確認できない。
そんな初歩的な事、自分がやるまでもなく、先に来ているだろう待ち合わせ相手がしているからだ。そしてその相手も、自分を陥れる仕掛けをするとは思えない。
それでもお互いの用心深さがそうさせたのか、再三の警戒を部屋へと向けつつ、男が女の呼び掛けに応じて姿を見せた。
「尾けられてはいないな?」
女が部屋に入ったのを確認し、紺のスタイリッシュなコートに水色のマフラーで口元をかくした男……銀箭羽々矢も同じ扉から続いて入ってきた。
九良名学園の制服を着た女……浪川凛子が部屋に罠を張っていないか確認をする意味もあり、先に入らせたのだ。
「ウチがそんなヘマするかいな。これでも対退魔師戦闘のセミプロやで?」
「……まあいい。例の封印について掴んだ事を聞かせろ」
「はぁ~………なんの用事で久方ぶりに呼び出されたかと思うたら、その件からウチは手を引くって言うたやろ。これ以上突っ込んだ調査はウチでは無理やって」
「あの街に封印があることを掴んだのはお前だ。封印の方法、分散された術式の在処、そこまで突き止めておいてこれ以上は無理だなどと、ふざけているのか?」
口調は冷静そのものだが、銀箭羽々矢から凛子に向けてシャレでは済まない威圧が放たれる。凛子もボブカットの髪の毛が僅かに逆立つ程の圧力であったが、それを受けても、どこかおどけた態度を崩す事はなかった。
「アホ言うなや。むしろそこまで協力してやっただけでも感謝してほしいくらいやわ」
「………お前とは施設に居た時からの付き合いだ。だが、だからと言って俺の協力を拒んでも自分は殺されないだろうと高を括っているのなら、それは間違いだと証明してもいいんだぞ」
「人には出来る事と出来ない事があるんや。学園長と仁科黎明の直接管理する情報を本職でないウチがどうにか出来るわけないやろ。ウチはCIAとちゃうねん」
凛子が話は終わりだと、羽々矢の横を通りすぎて部屋を後にしようとした。
「話は終わっていない」
羽々矢が凛子の手首を掴み上げ、その万力のような力に凛子の顔がしかめられていく。
「誰のお陰で今の生活があると思う? 誰のお陰でヘラヘラ笑って学生のふりをしてられると思っている? 誰のせいで偽物の人生に寄生して生きる事になった!」
感情的に言う羽々矢の手を、凛子は冷めた表情で見上げながら振りほどいた。
「あんたのお陰やない。偽物の人生にしても、別に今さら六家を恨む気にはならんな。復讐なんて、もう忘れたわ」
「――――っ」
ガシャンッ!!
羽々矢の手が凛子の首にかけられ、勢いのままにロッカーを押し退け破壊して壁へと押し付けられた。
「っっっぐ――――!!」
「仲間たちと施設を出た時、あの時はお前もまだ六家を憎んでいた。随分と変わったものだな。昔は俺の言うことには逆らわなかったのに」
凛子は『不動障壁』を発動し、ギュウッと絞められていく首をガードした。そして本来『不動障壁』の発動中は防御力に反比例して機動力が大幅に低下するのだが、凛子や佐東市之助のようなパワータイプは力技で機動力の低下を埋める事もあり、増していく殺気に反応した凛子の右手は首にかけられた右腕を素早く掴み、左手は羽々矢の脇腹へと添えられる。
「なら、変わって良かったわ。あんたみたいな変わり方せんで、心底ほっとしとる」
二人の掌にはいつでも互いの急所をぶち抜けるだけの力が込められている。暫しの睨み合いが続き、先に引いたのは羽々矢だった。
「ちっ……昔から鬱陶しい女だったが、今は輪をかけて面倒な奴になったな」
羽々矢が凛子の首から手を離すのに合わせて凛子も緊張を解く。
制服のあちこちが埃にまみれていたが、流石に九良名学園の制服だけあり頑丈で、破れたりなどはしていない。
冬服が夏服より頑丈に出来ているとは言え一切のキズが付いていないのは、羽々矢が最初から本気でどうこうするつもりが無かった事の証明でもあった。
「今回で最後にしてやる。だから手に入れた情報を寄越せ。白を切って時間を無駄にさせるなよ?」
「………………」
凛子が普段に無い程に鋭く、責めるような眼で羽々矢を睨む。
言いたい事は山ほどあった。仲間たちと施設を出て、しかし復讐のために仲間の大半を死なせて来た羽々矢に対して。
敵と仲間だけでなく、復讐とは関係の無い大勢の人間を殺して来た羽々矢に対して、言いたい事はいくらでもあった。
しかし凛子は、その言葉の全てを飲み込んだ。かつて好意を抱いていた頼れる少年に、止められなかった自分が何を言えると言うのか。
憤り、後悔、哀しみ、あらゆる感情が湧き上がるが、結局それらを発する事を諦める。
自分は既に数えきれない事を諦めてきたのだ。今さら一つ増えたところで、なんでもない。
凛子は抑えた感情を小さなため息にして吐き出した。
「………新しく五ヵ所見つけた。それで最後かは知らんが、もうウチが探せる所には無いで。場所はそこや」
そう言って凛子が制服のポケットから取り出したのは九良名市の地図だ。そこには印のようなものは書き込まれていないが、光に翳すと小さく空けられた穴を確認できる。
これまでにも何度か羽々矢に協力して街のいたるところに施された数百にも及ぶ封印術式を発見、報告してきた。散りばめられた封印はもう無いと言って以降の協力を拒んだ凛子がこれを隠していた事に、羽々矢が不機嫌そのままに舌打ちをする。
この封印こそ、士緒が夢の中で神野悪五郎に告げられた話の内容を裏付けるものだった。
街の中に千を越える術式が存在するという話を凛子は知らなかったが、その殆どを一年以上かけて独力で見つけた事になる。
封印術式の構成やその詳細も、かなりの無茶をして集めてきた。仁科黎明に気付かれなかったのは殆ど奇跡だ。
(あるいは、もう気付かれとるかもしれへんがな)
気付いた上で見逃されている。その思考に至ったところで苦笑を浮かべ、羽々矢に最後の情報を渡す。
「それと、最後の鍵はやっぱ学園にあるようやな。他に情報を知ってそうなんは学園長とジェーン・スミス。今は居らんが風紀委員長やった斑鳩縁。それから、橘花院とやらも封印を狙っとるみたいやな。ウチが見つけた封印の場所で“千影”の影をチラホラ確認したからなぁ」
「……だとするなら、それは最悪の報せだな。橘花院士緒………封印を探っていると言うのなら、奴の狙いは復讐などではなく、恐らく神野悪五郎。そして、あれの価値を知って手を出すような連中の心当りは一つしかない…………“真ノ悪”だ」
「“真ノ悪”て、マジかいな。厄介なもんとかち合うたのぉ」
凛子にとってはもはや他人事。今後協力をしないと決まった以上、そんなヤバい連中を出し抜いて目的を果たさなければならない羽々矢には、御愁傷様と言うほかない。
敵対している点では学園側も変わらないが、羽々矢の性質上まず間違いなく、より大きな衝突を起こすだろう。
それが分かっている凛子はニヤニヤと羽々矢を見ていた。
「“真ノ悪”……奴等が神野悪五郎を狙っている事はでかい組織なら殆どが知っている。問題なのは、奴等が神野悪五郎にどんな価値を見出だしたのか。それさえ判ればリスクを避けられるかもしれないが………ちっ、面倒な」
血の気が多く、誰にでも噛み付く羽々矢が衝突を避けようとする程に、“真ノ悪”というのは敵に回したくない組織なのだ。それでも、羽々矢の様子が珍しいのには違い無く、いい気味だと凛子は嘲っていた。
「………………」
「ん? どうかしたんか?」
羽々矢の様子が一変する。一瞬で険しくなり、刺すような殺気を放ち始めた。
「凛子、本当に誰にも尾けられてないんだろうな」
「当たり前やろ。尾行の気配なんて無かったわ」
「………なら、ビルに入る直前に見られたか。この辺りにも人はいるからな」
「………………」
凛子の表情も険しくなっていく。緊張感を纏い、臨戦態勢を取って備えた。
用心深い羽々矢の事、建物内は隅までチェックしていた筈だ。だとしたらそれは凛子がビルに入るところを追ってきた誰かということになる。
凛子の額を冷や汗が伝う。正直こんな所で戦闘など、まっぴらだった。
「気のせいやないんか?」
羽々矢は凛子の言葉には答えず、部屋の気配を探る。そして先ほど凛子が押し付けられた壁の辺りに目を向けた。
「この場所ももう使えなくなった。せっかくだ、痕跡を消すためにも、建物ごと粉々にしておくか」
黒い手袋を着けた右手を胸の前まで静かに上げ、嘘偽り無く建物を消し飛ばす意思を持って言い放つ。当然、盗み聞きしていた何者かも諸共に消すつもりだ。
「待ちぃ! ここは街中やで!? こんな所で暴れられるんはウチとしては困るんやけど。せめて静かに捕まえてくれへん?」
「知ったことか。駆け付けてくる木っ端役人程度なら、皆殺しにしてさっさと引き上げればいい話だ。一帯の目撃者も一人残らず消す。まだぐちぐち言うつもりならお前ごと塵にするぞ」
羽々矢の言う木っ端役人というのは上級の退魔師も含めての事だ。
このままでは本当に辺りを更地にした隙に逃げかねない。勿論、凛子はそれに付き合うなど御免被る。更地に還した側だとしても、更地に還される側だとしてもだ。
出来れば羽々矢を抑えたいが、自分では難しいだろう。仮に可能であっても、自分と羽々矢の関係を知ってしまった以上は、曲者を簡単に帰す事はあり得ない。
最悪や………
凛子がどうやって羽々矢に先んじて曲者を先に捕らえるか高速で思考を巡らせ始めた時、そいつは動いた。
「待った待った! 待ってください。今出て行きますので、どうか落ち着いていただけませんか?」
「!?」
ロッカーの中でくぐもっていても聞き間違える筈のないその男の声を聞き、凛子は息をするのも忘れる程に驚いた。
狭いロッカールームで使うには大き過ぎる得物である盾付きのランスを反射的に『大部屋』から取り出してしまうほどに逼迫した事態だと認識する。
羽々矢も警戒しながら、壁際のロッカーの一つを開けて中から出てきた男を見ていたが、その姿をハッキリ捉えた瞬間、その警戒レベルが跳ね上がった。
何せ、直前までどう対処するべきか頭を悩ませていた相手が、目の前に現れてしまったのだから。
「気配の隠蔽には自信があったのですが、気付かれてしまうとは不覚でした。私もまだまだですね」
高級感のある黒いスーツ。初めて見た時と変わらず貼り付いている優しげな笑顔。絶対の自信と余裕に満ちた立ち姿。胸に手を添え、綺麗な姿勢から繋げられた見惚れるほど美しい一礼は、まるで生粋の貴族とでも言わんばかりのものだ。
むしろその存在感は中世にあれば誰もが疑わない高貴さを湛えているが、現代では違和感しか感じないというアンバランスなもの。
ロッカーの一つから当然のように現れるというどこかコメディチックな登場だと言うのに、凛子も、羽々矢ですらも、その男……橘花院士緒の空気、存在感に呑み込まれた。
「浪川凛子さん……は、三度目ですね。お初にお目にかかります、銀箭羽々矢さん。私は――――」
ヒュンッ
「………ふむ」
士緒は目に見えないその攻撃に対し、首をひょいっと傾けるだけで躱して見せる。直後、士緒の背後のロッカーの上部に極細の切れ目が入り、シュインと包丁を研ぐような音とともに上部が滑り落ちた。
攻撃を放った主である羽々矢も驚きを隠しきれていない。
奇襲としては完璧な一撃だった。殺せないまでも、もう少し体勢を崩すだろうと読んでいたのにだ。まさか、あの癇に障る笑みを僅かに引き剥がす事も出来ないとは思わなかった。
「誰何も警告も無しに致命の一撃を放つとは、噂通り恐ろしい方のようですね。頭部の丁度半分、最低限の部位だけ破壊して終わらせようとは」
「次は殺す。一歩でも動いたら………」
「ふむ……細切れですか?」
シュシュシュンッ ドガン!! ガシャンッ
羽々矢の攻撃……極細の糸のようなものが全方向から士緒を襲うも、どうやったのか、どれも士緒に届く前に粉々に散り、部屋中に居並ぶロッカーと隣の部屋に面した壁を寸断して吹き抜けにしただけで終わる。通力で構成されていたのか、切れた端から銀の煌めきを残して消滅していく。
銀の残滓が部屋にはらはらと舞う様は、中々に幻想的で美しい光景だった。
「細切れは諦めてください」
「……そうでもない」
見ると、士緒の喉元に極細の銀糸が首を落とさんと控えていた。
しかし士緒の表情にはこれと言った変化……驚愕や焦りなどは全く浮かんでいない。変わらずニコニコとしているだけだ。
「これはこれは、一本とられましたか」
「……白々しい。最初の攻撃を見切れるのなら、これも見えていた筈だ、橘花院士緒」
羽々矢がそう言うと、士緒は微笑から更に機嫌が良さそうな表情を浮かべる。
そして喉元に凶器を突き付けられているとは思えない程あっさりした動きで手を上げ、真横に伸びる銀糸を何の躊躇も無くチョンと摘まんで見せた。
次の瞬間、指をパチンッと鳴らす動作をしたかと思うと、張り詰めた銀糸がチュインと音を立てて切れ、そのまま中空に消えていった。
「相変わらず芝居がかった妙な演出が好きやなぁ。ナルシストキモいわぁ」
凛子が軽い挑発を飛ばす。
士緒がこの程度の安い挑発に乗るかは分からなかったが、正直、乗ってくる可能性は低いだろう。
乗ってきたなら、そこに見える心の動きを。乗らなくとも、やはり覗けるものがある。それを確認できる手段がこの場にある今の内に調べておきたかったのだ。
「ナルシストですか。ええ、よく言われます」
にこやかに、事も無げに言ってのける様子は人を食ったようなと言うべきか。そのおどけた態度、苦笑気味な口調は大抵の相手に警戒心を緩ませ、あるいは好感に近いものを与えるだろう。
しかし、凛子の心象では嫌悪こそ抱かなかったものの、好感とは真逆、警戒心を緩ませるなどもってのほかな不安感を覚えていたが。
「ただ不思議な事にですね、私をナルシストと言った人達は殆どこの世に残っていないんですよ。貴女はその意味を、どう捉えますか?」
「………………」
単純に考えれば、ムカついたから殺したとも取れる発言だ。だが凛子が思うに、目の前の男はそんなに単純とは思えなかった。
そこで浮かぶのが、橘花院士緒が目的の一つとして語った復讐という単語。それは、何でも言い合える近しい人間を殺されたと推測も出来る。
穿ち過ぎた考えかもしれないが、改めて対峙したこの男から目が離せないような、言い知れぬ感覚というか、そう思わせる魅力みたいなものを感じるのだ。
建前とはいえ羽々矢と同じ復讐という目的を謳ったことや、その羽々矢曰く、“真ノ悪”との繋がりを示唆する事実も、凛子に軽い困惑を与えていた。
あらゆる意味で不気味な男。しかし完全に敵として憎みきれない何かが、橘花院士緒にはあった。
「それで、銀箭羽々矢さん。腕試しももうお済みになられたでしょうから、建設的な話に移りませんか?」
「………ふん。さっきまではそのつもりだったが、気が変わった。お前と話すことはない」
「ふむ………」
そのまま部屋を出ていこうとする羽々矢に対して、士緒も不思議そうな視線を送る。
先程までのやり取りで、自分が羽々矢に舐められる要素は無かった筈。軽くではあるが、しっかりと力は見せたのだから。
「お前の強さが脅威なのは理解した。近くにいても感知できない隠密能力もな。だが、“真ノ悪”ならともかく、お前個人だけならどうとでも出来そうだ。とんだ甘ちゃんのお人好しを殺すくらいはな」
「………………」
士緒が羽々矢の銀糸によって破壊されて吹き抜けになった壁に目を向ける。
確かに、少し軽率だったかもしれない。甘いと言われても仕方がない理由が、そこにはあった。
これだからなんちゃって復讐者は、と苦笑を浮かべている内に、羽々矢は音もなく姿を消していた。部屋に残るのは士緒と凛子の二人。
士緒としては正直、凛子と話す意味は無いと考えている。自分も早々に立ち去ろうと顕を発動しようとしたところで、意外にも凛子の方から引き留める声がかけられた。
「ちょい待ち。あんたの事はよう知らんし、何が目的でここに現れたかも知らん。でも、これだけは言うとくわ」
凛子が不用意とも取れる動きで士緒の側まで近付いてきた。そしてすれ違うような立ち位置で止まり、小声だがしっかりと聞こえる声で、それを伝える。
「さっき、出てきてもろて感謝しとる。あんがとうな」
それだけ言って、凛子もそそくさと扉まで行き、部屋を出ていった。
念のため感知用の結界を張ってみたが、建物内には怪しい気配は無い。そこまで来て漸く一息つけた。
ため息にも似た微かな安堵の息。今度こそその場を離れようとしていると、
「あ、あのぅ………」
やはりと言うか、引き留められた。
今度は正真正銘のため息。なんでこんな面倒な事をしてしまったのか、自分の事ながら理解が出来なかった。
「せっかく気付かないふりをしてさしあげたのですから、最後まで隠れていてくださいませんか?」
「あ、えと………すみません」
壊れた壁の向こうからおずおずと顔を覗かせたのは、白を基調とした九良名学園第三校2年の制服を着た女子……風紀委員、佐助花真朱だった。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
「いいえ、単なる気紛れですから。今回限りですよ?」
「でも! 私の事が気付かれた時に代わりに矢面に立ってくださいました。あのまま黙って見ている事もできた筈なのに」
銀箭羽々矢は盗み聞きの気配に気付いた。しかしそれは『幻霧結界』で完璧に気配を遮断していたいた士緒ではなく、隣の部屋から顕術と『感受』能力で聞き耳を立てていた真朱の存在だった。
士緒がヘリから凛子を追ってこの建物に入る真朱を見つけ、世話焼きな性格に突き動かされ、『幻霧結界』の反則級の隠蔽能力で羽々矢と凛子の側を通って堂々と隠れたのだが、案の定と言うべきか真朱が気付かれたわけだ。
やれやれと思いつつも、助けてしまったわけだが。
「浪川凛子さんも気付いていたようですが、あのままでは貴女を庇いきれそうになかったようなので。貴女も『感受』を使ってそれには気付いていたでしょうに。お二人とも、随分と無茶をなさる」
凛子は建物に入った時点で真朱の存在に気付いたのだろう。しかしその時点で真朱を追い返そうとすれば、羽々矢がそれを見咎めてどちらにしろ真朱が危険だった。
なら危険は承知で真朱を見張る事にしたのだ。凛子としては羽々矢が何かとんでもない事をしようとしていた時のための保険になるかもしれないと期待して真朱に話を聞かせていたのだが、ここまで危うい事になるとは、凛子の見通しが甘かったと言えよう。
「浪川さんの様子が不穏だと感じたので、追ってみたらこんな事に。李李……もう一人の私に替われば逃げるぐらいは出来ると踏んでたんですけど、思った以上に危ない人だったみたいですね」
長めの前髪で隠れ気味の目元から士緒に向けられる真朱の目は、友人に向けるそれのように穏やかなものだ。失敗でしたと苦笑いを浮かべる真朱からは、信頼にも似た近しい距離感が感じられた。
士緒はそれに対して若干の戸惑いを覚える。
「お目出度いひとですね。まさか私が危険ではないと考えておいでですか? これではせっかく気紛れで助けたと言うのに、近い内に無駄になりますかね」
「貴方に助けられたのは二度目です。最初は“三つの異能”の件。そのお陰もあって、分かるんですよ。貴方から感じる感情………恐いものではありません。まるで黒沼君みたいな………」
「………………」
士緒は常時体に結界を纏っている。梓の存在もあって、感知系の顕術を妨害するようにしているのだ。
鬼化の術式により存在を“鬼”へと変じさせ、より安定し強力となった“三つの異能”とは言え、まさかあっさり読み取られるとは思わなかった。
黒沼公浩の正体に直結してしまう、極めて危うい油断だ。心の内を読まれるわけではないのが救いだろう。
士緒の表情は自然と険しくなり、無言で結界を強化した。
「あぅ………」
結界の強化が『感受』を上回ったようで、真朱の顔が残念そうに陰る。シュンと垂れる尻尾と耳が幻視できてしまった。
「ひとの領域に無断でずかずかと踏み込んで来られるのは不愉快です。………ああ、いえ、私も人のことは言えませんかね」
こそこそと盗み聞きや土足で踏み荒らすにも似た顕術を開発しておいて、それを散々利用してきたのだから。現在進行形で正体を偽って学園に潜入していること自体も、負い目に感じるべきだろうに。
「他人の人生を散々踏みにじってきた身です。そんな悪人に気紛れに助けられて貴女も不愉快でしょうが、これからの人生……鬼生でしょうか? その長い生の中で、精々折り合いをつけてください」
もはや言うことは無い。そう言わんばかりに問答無用で話を切り、部屋を出るために踵を返した。が、またしても士緒の足が止められる。
「?」
ちょこん、とスーツの裾を真朱が摘まんでいる。
振り返ると、急に立ち止まった士緒を不思議そうに見上げていた真朱と目が合った。そして下げられた士緒の視線を追って裾に目をやり、自分が何をしているのかを認識する。
無意識とは言え、まさかの自分の行動に一瞬で赤面し、手を引っ込めた。
「す、すすみません! 知り合いに似た感じがしてつい。あぅ、なんでこんな………黒沼君じゃないのに」
最後をボソッと呟き、行き場を無くした手を胸の前でさすっている。
そして、そわそわと落ち着かない素振りの可憐な少女の姿は、士緒の嗜虐心を刺激したようだ。
ドS心が「呼んだ?」と、意地の悪そうな笑みを浮かべて顔を出した。
「はて、何処かで御会いしたことでもありましたか? 貴女のような可憐な女性でしたら忘れる筈は無いのですが」
「な、無いです! すみませんっ」
「ふむ………ああ! ひょっとして」
士緒は警戒など微塵も感じさせない自然な動きで真朱の耳元に顔を近づけると、脳髄に直接響くような囁き声を発した。
「雰囲気が変わっていたので気付きませんでしたが、以前ベガスで熱い夜を交わした貴女でしたか。あの時はお互い乱れましたね」
「~~~っっっ!!!」
海外で活動をしていた時、とある頭の上がらない女性とブラックジャックでディーラーを追い詰め、しかしカードカウンティングを疑われて追い出された……という話を適当にしただけなのだが、聞いた相手がどう受け取るかは知らない。
期待通りと言うか、勝手に勘違いした真朱がからかわれた事にも気付かず、火を吹かんばかりに赤面していく。そして、
「でぇりゃあああ!!!」
李李が表に出て『光剣』で士緒を切りつける。
軽やかなステップで後ろへと下がった士緒は、満足そうな顔をして部屋の外に避難した。
「制御可能になってからはストレスや感情の昂りで出てくる事が無いと聞いていましたが、照れ隠しの拍子に貴方をけしかける佐助花さんも、大概危ない人ですね」
「ああクソっ!! 心臓が煩いぞ真朱! どんだけ気が多いんだ!」
李李は真朱の別人格として、真朱の気持ちはかなりの精度で共有できる。暇さえあれば黒沼公浩を好きな気持ちが伝わってきて鬱陶しいぐらいだ。
だと言うのに、なんで目の前の男……敵と分かっている男に同じ想いを抱いているのか、それが全く理解できない。
それはきっと真朱にも解っていないのだろう。顔は火が出そうなほどに熱く、心臓は限界まで走り込んだ後のように早鐘を打ち、呼吸も荒くなっている。
男の人格である李李でさえ、士緒に対する気持ちを錯覚しそうな程。何が何だか分からず、まともな思考もろくに出来ない状態に混乱を極めていた。
「恐い弟さんに斬られない内に退散いたします。お姉さんに宜しくお伝えください」
そう言って橘花院士緒が廊下の奥に姿を消す。そして心臓が落ち着くのを待って真朱が表に出てきた。
ぺたんと、へたり込むようにその場に崩れ落ちて。
「なんで私、あの人に………え? 私………気が多い?」
……………………あぅ
壮絶な罪悪感と自己嫌悪が押し寄せ、それから暫くは公浩とまともに話せなくなった。
その意味は違えど、生徒会長に自分と同じ症状が表れているのを見て、ライバルが増えたことに気付くのは、それからすぐの事だ。




