第1話 虐殺の夜に
………その虐殺は速やかに
500人を超える村人は一晩で音も無く、正確には村を覆うように作られた音の漏れない箱庭の壁の内側で命を落とした。
現代の闇に跋扈する“鬼”を調伏する退魔師の村。実戦の経験がある者は200人を越え、その内凄腕と称されるのは80人余り。さらにその内で国内屈指と呼ばれる者が二人。
今、『青年』の目の前にいる最後の一人はその国内屈指の内の一人だった。
「うぐっ――――! なん…だ、お前…何なんだお前はっ………」
最後の一人……四宮 洋一郎は忌々しげな言葉を赤黒い血と共に吐き捨てた。
この、村落規模とはいえ、血塗れの惨状をたった一人で作り出した元凶、ビシッとした黒スーツ姿の年若い男に、洋一郎は死に体でありながらも強がりとも悪態ともつかない言葉を投げる。
しかしながら、その『青年』の表情には何の感慨も浮かんではいない。作り物のような笑みを張り付け、膝をついた洋一郎を見下ろしている。これまでも数々の呪いの言葉を浴び続けた『青年』にとってこの程度は微風ほどにも感じない囀りなのだから。
「あまりみっともない声を上げないでください。敵ながら哀しくなってしまいます。ですが、復讐の余韻に浸るには良いBGMと言えますか」
若さに見合わぬ落ち着き払った態度と口調。そして若さに見合った声音という矛盾した要素が『青年』の存在の異質さをより際立たせていた。
「十年前、仁科家を筆頭にした“六家”に、不穏分子として処分された退魔師の家系があったのを覚えておいでですか? あなた方が村ごと焼き払った時のお話です」
「まさかっ……土御門の生き残りか!?」
洋一郎は信じられないといった顔で『青年』を見る。しかし『青年』はくつくつと笑いを溢し、不敵な微笑みで見下していた。
「まったく、酷い人たちだ。同じ事柄が多すぎて見当が付けられませんか? 土御門が滅ぼされたのは自業自得として……私は橘花院の方ですよ」
洋一郎はさらに顔を青くして「ばかな…」と、より絶望の色を濃くした。
「陰陽師の末裔……されど腐敗と崩壊を人の世に撒き散らしていた土御門家。当然の報いを受けただけの者たちと、理不尽な蹂躙を受けた私たち……間違われるのは非常に不愉快ですね」
『青年』は洋一郎に近づくと足を上げて洋一郎の頭を踏みつけた。
ぐふっ!? という呻きが漏れる。『青年』の顔には愉悦が浮かび、全身傷だらけの洋一郎をさらに痛め付けていく。
「どんな気分ですか? 復讐される気分は……罪に追い付かれた気分というものは!? お偉い“六家”の当主様……よろしければ愚昧なる私めにお教えください。ほら、ほらほらぁ!!」
「おぶ、うぐぅ……」
笑みを張り付けたまま『青年』はぐりぐりと洋一郎の頭を踏みにじる。横向きに倒れた顔は頬が押し潰され、唇からは空気と一緒に呻き声が口から漏れ出るだけ。
それは、今度は自分が理不尽を押し付ける番だと言わんばかりに。
「くく……ああ、失礼。このままでは話し辛かったですね」
そう言って『青年』は頭から足をどかし「さあ、どうぞお答えください」と促す。洋一郎は僅かな体力を絞り出すように震えながら声を発した。
「た、頼む………俺はまだ死にたくないっ。あ……あれは仁科家の主導で、我々四宮家は関与してなかった……だから――――」
「四宮家当主、四宮洋一郎殿。貴方は仁科家の暴走を黙認し、それどころか橘花院家に伝わる秘術を仁科家から受け取った。それも貴方の娘を探った時に確信できましたし、何を言っても無意味です」
洋一郎は口をパクパクと動かし、さらに言い訳を紡ごうとする。『青年』はとりあえず聞くことにした。憎い相手が懺悔と命乞いをする姿は溜飲を下げる事に役立ってくれると知っていたから。
「娘が難病だったんだ……救うために、橘花院家の秘術が必要だった。私は仁科のすることを黙認する代わりに秘術を受け取っただけで……頼む、わかってくれ! 償いなら……いくらでもするから」
「………ふざけないでください。私の家族は全員、十年前に殺されたのですよ? なのに、貴方だけは家族の幸せを願えるなんて……我慢なりません」
洋一郎は呻くばかりで言葉もろくに発することができないほど心身ともに弱っていた。
もう生きる道は閉ざされてしまったのだと。
「さて、そろそろいいでしょう。私の目的を果たさせていただきます」
『青年』は洋一郎に手をかざすと、“通力の顕”を発動した。
「さようなら、四宮洋一郎殿。貴方の黄泉路に幸多からんことを」
「う、あぁ……ぁ」
洋一郎は涙を流しながら「つぐみ」、と娘の名前を呟いて、その場から跡形もなく消え去った。
★
四宮本家が置かれた退魔師の村。そこには原形を留めている者といない者、合わせて500を越える死体があった。処理は“六家”の中でも国家権力に根を張る五行家の主導で行われるだろう。
わざわざ死体を残すのも見せしめ意味があっての事。そういう意図なら本来、四宮洋一郎の死体を残すのが一番効果的なのだろうが、見せしめ以上に四宮洋一郎の死には使い道があったため、そうはしなかった。
それは手札として、切るタイミングは選ぶ予定である。
「田舎の空気はやはり良いものですね。死臭が無ければもっと良かったのですが」
丘の上から退魔師の村を臨んでいるのは、スーツ姿で品の良い印象を受ける『青年』、橘花院家の最後の生き残り、橘花院 士緒。
その様子は、直前まで血生臭い惨状をたった一人で作り出していたとは思えない落ち着いた佇まい。その心の内など、全く窺い知れない胡乱さを湛えて。
「若、今回はここまでっすよ。すぐに五郎左様の所に戻りましょう」
春も終わりが近く、暖かな空気へ移り変わる時期とはいえ……腹部を大きく露出するシャツと、適度な肉感としなやかさを強調するホットパンツという少々露出過多な服装の少女は士緒の右腕的な存在……梢。トップモデルと言っても通用する流麗な体型とルックスを、これでもかと見せ付けていた。
「確かに、今晩は退魔師の増援も無さそうですね。実に重畳」
増援が無いということは橘花院士緒の十八番である『結界』が十全に機能したということ。結界を越えて連絡を取る手段が四宮には無かった事を意味する。
今後の仕事で大いに役立つと確信できたのは有意義だった。
「梢、親父殿は何かおっしゃってましたか?」
「五郎左様はいつも通りっすよ。若の手腕は相変わらず見事だとお褒めの言葉を預かったっす。ただ内心、見事過ぎる事が複雑みたいっすね。いまだに若の名前すらも退魔師たちに知られていないのは口惜しいみたいみたいで………」
三年前、名のある退魔師を殺害する事から始まった橘花院士緒のお披露目。これまでの仕事で失敗した例は無く、生存者や目撃者はほとんど作らない。仮にいたとしたら、それは策の一環か、適切な処置をしているため問題にならない。
潔癖とも言える仕事ぶりに、退魔師側には士緒の情報が一切無いのだ。
「敵が無能なのも考え物っすねー」
「いいえ、そうでもないですよ。これまでに比べても、今回はそれなりに手こずりましたからね。こちらの切り札も一つ、使ってしまいましたし」
「『影斬符』……まあ仕方ないっすね。六家である四宮家の当主と、それに匹敵するだけの使い手を同時に相手どればそれくらいは」
“符”は作るのに手間がかかり、どうしても量産が利かない代物だ。その中でも特に強力な一枚を使わされた。
士緒にとっては反省すべき点だが、多くの者は必要経費と認識できるレベルだろう。むしろ一枚でこれだけの成果を上げれば補って余りある程だ。
「ふむ、一応は手柄として納得しておきますか……お褒めの言葉があるのなら素直に受け取りましょう。ですが、今夜の事で退魔師と鬼の勢力図が書き変わります。梢も、“千影”の名前は知られているのですから、心してくださいね」
「合点っす」
梢は明るい笑顔と、おどけた様子で敬礼のポーズをして見せる。少しだけ首を傾げる所があざと可愛いと評判らしい。
「梢のそういう所、可愛いらしくて好きですよ」
先程までの無機質な笑みではなく、血の通った柔らかい微笑みを向けた。
実を言うと梢は士緒よりもだいぶ歳上なのだが、一大勢力の構成員とその長の跡継ぎという立場、そしてその立場を越えた気安さが成したやり取りだった。
「――――っ! わ、わーい………っす。帰ったら焔と澪に、若に褒められたって自慢しちゃうっす……えへへ」
口調は普段のままに、おどけた様子は鳴りを潜めて、頬を赤らめ俯いてしまった。照れてハニカムとさらに可愛いですね、と言うと梢の許容量を越えてしまいそうなので言わないでおいた。
「さて、帰りましょうか。親父殿も今回の事を終えたら新しい動きを始めるでしょうし、私も色々と準備しなければ」
「若はなんというか……用意周到っすからね。幸か不幸か知名度すらも無いほどに」
「幸いに決まっています。あらゆる点で仕事がしやすいですからね。まあ、それもそろそろ限界というか、潮時かもしれませんが。梢は次の仕事について親父殿から何か聞いていますか?」
士緒は踵を返し、スタスタと歩き出した。梢もそれに続く。
「自分は特に聞いて無いっす。若は知ってるんっすか?」
「潜入系の仕事だと聞いてます。私は隠密に長けているわけではありませんが、橘花院士緒の情報は殆ど出回っていませんので、潜入だけなら比較的容易ですし」
詳しい内容は帰って聞いてみましょう、と士緒は言う。それに対して梢は呆れた顔をして見せる。
「若も少しは仕事を忘れてもいいんじゃないっすか? 最近働き過ぎっすよ」
「そうでしょうか? でしたらそれは、貴女たちの働かなさ過ぎですね。今思い出しましたが、この間は梢が逃げ出した書類仕事を私が代わりにやっていましたね………どう埋め合わせしてもらいましょうか」
「うへえ!? やぶ蛇っす!」
梢はその場をどう誤魔化すか真剣に考えをめぐらせたところで、何かを思い付いたのか、もじもじと体をくねらし始めた。
「だ、だったら、その………か………身体で払うというのは………どうっすかね?」
「身体で? ふむ………」
士緒はしばらく悩む素振りを見せたかと思うと、ああ、と納得した様子でポンと手を打った。
「肉体労働でしたら丁度、村正の方から現場の殲滅力が足りていないという報告と陳情がありました。梢の能力なら適任ですし、そちらに行ってもらいましょうか?」
「……………」
これは冗談でもなんでもない。紛れもない士緒の素の反応だ。
士緒は女性にモテる(たまに男性にもモテる)。しかしモテる男が必ずしも女性の心の機微に精通しているかと言うと、そうでもない。
仮に梢に尻尾が付いていたならば、期待で揺れる尻尾がシュンと垂れる瞬間が目に見えた事だろう。
「……もう何でもいいっす。よくよく考えたら、前にも似たようなやり取りがあった気がするっす」
「?? 不満ですか? 仕方ありませんね。では貸し一つということで」
丘から少し降りた所で、周りを木々に囲まれた四~五メートル四方の開けた空間に出る。
空間の中央には幾何学的な模様と文字、大人が数人は入れそうな大きさの、魔法陣とも呼べそうなものが描かれていた。
士緒と梢はその中に入って二人で―――主に梢が―――身を寄せた。
「親父殿には帰還の報告はしてありますね?」
「さっき“影”を通じてしておいたっす。いつでも繋げられるっすよ」
士緒は「分かりました」と一つ頷くと、術式を発動させた。足下の模様が淡く発光し、光がドーム状に二人を包む。
次の瞬間、光が収縮したかと思うと、二人の姿と、足下の幾何学模様が綺麗に消え去っていた。
その晩、退魔師の村に起きた虐殺は過去に起きた未確認案件のいくつかと類似点が多い事から、詳細不明………コード“インビジブル”の一つとして断定される。
名も知らぬ、姿も見えぬ、その敵に付けられた名前は“IR”。“不可視の襲撃者”と呼称された。
★
士緒と梢が術式を使って瞬間移動……転移したのは灯りの無い石造りの部屋だった。部屋にあるのは先程の魔法陣と、正面の鉄扉だけ。
陣の光が収まる頃には梢が手のひらサイズの火の玉を発生させており、その灯りを頼りに部屋を出る。
そして暗い階段を上っていった先の扉を開けると、西洋風の内装の一室へと出た。
アンティークな調度品を揃えた応接間で、どれもきっちりと手入れが行き届いているのが分かる良質な仕事と雰囲気だ。
「戻ったか、愚息。梢も、こんな雑務に遣わして悪かったな」
部屋に入ると同時にソファで文庫本を読んでいたがたいの良い初老ぐらいの男が本を閉じて立ち上がった。
なお、超が付く強敵の巣窟を単騎で陥落させた事を雑務と言えるのは、世界中を見回しても彼らだけだろう。
「ただいま戻りました、親父殿。首尾はまずまずと言ったところです」
目の前にいるグレーの背広にループタイの男は“三代目 山本五郎左衛門”。
“退魔師”と敵対する“鬼”の勢力、その中でも最大にして最強の組織、“真ノ悪”の頭目である。士緒の育ての親でもある男だ。
「梢から報告は受けている。だが相手は四宮洋一郎だ。お前でも多少は手こずったろう?」
気の無い振りをしているが、これは遠回しに「怪我は無いのか?」と、士緒を案じての言葉。
成功を確信してはいたが、今回は士緒にとっても数少ないリスクの高い仕事だった。一つ間違えば、ここまで余裕に溢れた凱旋は出来なかった程の。
二人が転移で帰還したら、真っ先に通る部屋で待っていたのも、不器用な優しさ故だ。
「五郎左様は心配性っす。それもさっき報告した通り、若は無傷っすよ」
「……ならばいいんだが」
山本五郎左衛門……近しい者からは五郎左と呼ばれている。
人間の姿ではあるが正真正銘の“鬼”。そして偽装ではあるが、人間社会においても確かな立場を有している。
もちろん正体は誰にも露見してはいない。
「いや、うむ……ご苦労だったな梢。今日はもう部屋で休め。近々また仕事を頼むがそれまで、そうだな………愚息を連れ出して遊びにでも行くと良い」
「マジっすか! 若っ、あした暇っすか? デートしましょう、デート!」
「デートですか? ふむ…」
士緒はしばらく考えると、梢にニコッと笑いかけた。その笑顔は梢の期待をマックスまで高めた……が、ついさっきも似たような事があったような………
「でしたら焔と澪も誘いましょうか。久し振りに四人でお出掛けですね」
「……………」
梢の表情が消えた。そして心の中でこう思った。
それ、デートじゃねえっす……
「……は、はは……そっすね。皆で行くっすか。わぁ、楽しい………」
乾いた笑い声が応接間に響く。五郎左は士緒を想う女たちの事が不憫に思えてきた。
「二人には私から伺っておきましょう。ちなみに梢はどこか行きたい所はありますか?」
「遊園地とか……どうっすかね、あははは。はぁ………自分疲れたんで部屋に戻ってるっす。おやすみなさいー………」
梢はとぼとぼと応接間をあとにした。
士緒は「どうかしたんでしょうか」と、心配そうに尋ねる。五郎左は「明日は優しくしてやれ」と言うだけだった。
「こほん! ところで愚息よ。お前も、今晩はご苦労だったな。それでどうだ? 今の気分は。晴れた、とは言い難いだろうが……」
「そうですね……ですが今回の仕事、私のわがままを聞いてくださって、ありがとうございました。我が儘ついでに、他の“六家”の者たち……特に仁科の“相談役”については、今後も私に任せてくださればと思います」
「頼まれずともそうする。俺が十年前にお前を拾ったのも、あわよくばと打算した結果があったからだしな」
拾われた時、士緒は瀕死の重体だった。いや、心臓が破壊されていたのだから、死んでいたと言って良い。
だが、士緒は……橘花院家が異端として扱われてきた所以である秘術を受け継いでいた。だからこそ生き返った……死ななかった……生きのびたのだ。
五郎左も、その秘術が目的の一つだったと、助けた時から言って聞かせていた。
それでも士緒は十年間、五郎左に付いてきた。お互いに利用し、される関係を幼いながらも理解した上で。
それだけでなく、十年を共に過ごした五郎左の人となりも、最終的な目的の意義も理解している。利害以上に、五郎左が士緒を大事にしている事も。
士緒にとって五郎左はもはや本物の家族だった。
皮肉だが、五郎左のためなら……士緒は四宮洋一郎と同じく、罪に手を汚す事も厭わないだろう。
「分かっていますよ親父殿。しかし全てが済んだ暁には、約束通り“四代目”の座は頂きますので。それが嫌なら私より長生きしてくださいね」
「ぬかせ。例え橘花院の秘術と言えど、俺より長生きはさせないと思え」
二人は互いに笑い合った。
不敵に、優しく。
家族の様相で。
「そう言うわけで……お前の寿命を縮めるために、またしても難しい仕事をこなしてもらおう」
五郎左はテーブルに置いていた数センチにもなる厚さの書類束を指差した。士緒はそれを取り、印刷された表紙を見る。まず目に入ったのは、箇条書きが連なった目次だ。
遊びの無い不器用な仕様から、おそらく澪だろうと予想する。少し頭の堅い所がある少女で、練習のつもりで作らせたのかも知れない。
士緒は兄貴分として、その資料を微笑ましく見つめた。
「それは仕事の内容と、今度お前に潜入してもらう場所で活動している退魔師たちのリストだ。目につく退魔師はそこに書いてあるが、どうしても調べきれなかった者や、そもそも目に留まらなかった者などは、潜入後にお前が報告書にまとめろ」
「了解しました。それで……具体的な目標は? 私は何を成せば良いのでしょう」
その段階で五郎左はソファに座り、士緒もそれに倣った。話が長くなるとは限らないが、心して聞けという五郎左の意思表示だ。
「神野悪五郎は知っているな?」
「勿論です。我々“真ノ悪”の名前の由来であり、かつて“初代 山本五郎左衛門”様と覇権を争っていたとか。真偽のほどは分かりませんが、現在の広島の地にて退魔師たちに滅ぼされたと」
士緒が知っているのはそれぐらいで、学者が唱える幾つもの説まで調べてはいない。
山本五郎左衛門と縁が深い存在なのだろうとは思っていたが、言われてみれば本人を前にして、直接尋ねようとしたことは無かったと思い至る。五郎左が語らないのなら、それはきっと今の自分に必要な知識ではなかったからだ、とも。
「まあな。だが実際にはな……神野悪五郎は滅されていない。とある地に封印されているだけだ」
「ああ………なるほど、それで今回の潜入ですか。私が潜入する場所がその封印に縁があるから、調査と、あわよくば封印を解き、味方に引き入れよ、と?」
「話が早くて助かる。これまでは目の前の仕事に集中してほしくてな。お前には神野悪五郎の話は伏せてきたが……許せ。それと引き入れは絶対ではない。欲しいのは神野が持っているであろう知識……“裏返りの深淵”さえ手に入れば、後は自由にさせて構わん。俺たちの敵にならなければな」
敵になるようならその処分も士緒の仕事ということだ。
可能かどうかで言ったら、可能だろう。士緒がその気になれば、戦闘力でなら恐らく敵はいないのだから。
「“裏返りの深淵”を神野悪五郎が握っている、と? 流石に、それは知らせておいてほしかったですね」
ギロッ
士緒の責めるような視線に、五郎左も堪らずたじろぐ。
覚悟はしていたが、怒られるのは本意ではない。士緒のそれは後を引くのだ。
これから暫くはネチネチと嫌味を言われるのかと思うと、早くも憂鬱であった。
「……まぁ、そちらも了解しました。それと、これは確認なのですが、罠の可能性は? 今になって我々が動き出すということは新しく情報が入ってきたか、蒔いていた種が芽を出したということでしょう。情報自体が我々を嵌める策略という事はありませんか?」
「問題無い。なにせ俺が直に調べた情報だ。種とやらも、さっきお前が蒔いた。火種という種をな」
「恐れ入りました。では、身分を偽る上での下地についてですが……」
「お前が成り済ます人間の情報はその書類に入ってる。俺のお抱えの退魔師で、お前も何度か会ったやつだ。そいつから素性を借りるから、多少調べられても誤魔化しは効くだろうよ。まあ本人がしばらく軟禁状態だがな」
士緒を変装させてまで態々送り出すということは、失敗が許されない事を意味する。
書類にざっと目を通しているが、見たところ失敗するとそれ以降のアプローチは相当困難だろう。なにしろ、
「“退魔師協会”のお膝元にある学園ですか。なるほど、確かに私が出向いた方が良さそうですね」
潜入だけなら任せられる人材は他にもいるだろうが、この手の社会性を要する調査を得手としている者は当然、別の場所で既に活動している。短期間の仕事ならともかく、期間が未定の潜入となると、五郎左や梢のように顔も名前も知れ渡っている者では成り立たない。
変装の手段はあるとはいえ、士緒が身を置く“真ノ悪”は鬼が大半を占める組織だ。人間の協力者も相当数存在しているが、今回のように重要度の高い仕事を任せられる人材として考えると、選択肢は限られる。
鬼を感知する方法がある以上、その事実だけで致命的になりかねないのだから。
故に、組織の長としても信の置ける五郎左が下した、士緒以上の適任はいないという判断であった。
「やれるだけはやってみます。ですが、なにぶん慣れない潜入仕事なので、いたらぬ点も多々あるでしょう。補佐として梢を付けて欲しいのですが」
「人員は好きに使って構わん。優先してあたらせる。他にも現地で起こりうる全ての裁量を任せる。お前の有能さを買ってのことだぞ」
「恐縮です。でしたら後は資料の方を読み込みますので、部屋に戻りますね」
士緒はソファを立ち、資料をパタパタとふって見せる。
「最悪の場合は失敗してもいいが、そうなると四代目の話は考え直さないといかんな」
「その時は、また親父殿に一から鍛え直していただかないといけませんね」
不敵に、優しく、いつものように笑う。
仕事の前の、お決まりの会話。ルーティーンと言ってもいい。
それは士緒が失敗しようが、ここに戻ってくる事を前提にした会話だった。




