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第八話 珈琲いっぱいのしあわせ。

 冬に向かって穏やかで温かな時間が過ぎていく。

 美名子はなんだかとても幸せだった。

 押しの部分さえなければ、櫂人はとても美名子にとってとても居心地のよい人間だ。 なにせ朝の忙しない時間に自分の城である家に上げて珈琲を振る舞っても全く違和感がないくらいだ、居心地が良いなんて言葉では言い表せないものがある。

 毎朝、ちょっとしたお茶菓子を用意しながら櫂人がやってくるのを待つ時間も愛おしものとなっていく。

 美名子にとって櫂人は決して恋人ではないけれど、大切な、得難い友人となっていった。




「あ、私って莫迦」


 そろそろ櫂人がやってくる時間だからと、いつものように小さなお茶菓子――――今日は手作りのクッキーだ―――を用意して珈琲をごりごりとコーヒーミルで挽いていたときに大切なことに気が付いた。

 今日は土曜日だ。

 週休二日制の会社はもちろん休み、ということはもちろん櫂人がくるわけもなく。

 温かな時間を共有するために準備したテーブルは、用途が無くなった途端に酷く無機質に感じるのはなぜなのか。

 リズミよく挽いた音はぴたりとやんで、美名子は茫然と空を見た。

 その時だった。

 コンココンと扉を叩く音が聞こえたのは。

 朝早くにベルを鳴らすのを憚った櫂人は、初めての部屋を訪れた翌日からは扉を叩くことにした。防犯上、音を聴いたら櫂人だとすぐわかるようにとリズムまで二人で決めて。

 今まさにそのリズムで扉が音を立てる。

 まさか、と思う。

 同じ日に同じように莫迦なことをするわけがない。

 胸の奥がなんだかうずくような変な感覚に戸惑いながら、美名子は扉を開けた。


「おはよう、美名子さん。土曜日なのに来てごめんね?」


 ―――――櫂人だ。

 まがうかたなき本人がちょっと恥ずかしそうに眼を伏せながら扉の前に立っていた。

 夢か現実か、いやもちろん現実なんだろうけれども、美名子にはにわかに信じられなかった。

 なにせ土曜日だ。営業である櫂人は普段から忙しく夜も遅いのは知っている。だからこそ休みの日は貴重で、土曜日は遅くに起きて部屋を掃除し、日曜はゆっくりと過ごすことも知っている。

 美名子みたいに土曜日と平日を間違えるような莫迦なことはしないはずだった。

 事実、目の前の櫂人は普段のスーツ姿とは一変してカジュアルな服装だ。それもとても意外なデザインの。きっと普通の人が着ればいかついだとか、○クザだとか言われそうな和風のものなのに、押さえられた色調とラインのせいか嫌味がなく、甘いマスクの櫂人が着るとちっともいかつくない。可愛らしいとさえ思えるのだから服というのは着る人を選ぶのだななんて改めて思ってしまう。

 妙な関心をしながら櫂人を眺めていると、ちょっと困ったように眉を下げてじっとこちらを見ている。


「ごめん。やっぱり迷惑だよね」


 しゅんとした姿はまるで犬のように愛嬌があって、思わず下げられた頭をぽんぽんと叩いてしまいそうになる。

 美名子は衝動的に動きそうになる手を押さえながら「どうぞ」と声をかけた。

 ぱっと顔を上げる櫂人には喜びの色しか見えない。


 ああ、本当に躾のよいコリー犬みたい。


 くすっと笑い声が漏れると、三和土に靴を脱ぎ終わって美名子の横を通り過ぎようとした櫂人が訝しむように美名子を窺がった。



 結局のところ、櫂人は今日が平日だなんて間違いを犯しているわけではなく、わざと土曜日のこの時間にやってきたというのだ。 

 美名子は早起きがくせになっていて、休日だっていつも通りに起きる。その話を櫂人にしたのはいつのころだったか定かではないが、美名子の淹れる珈琲に味を占めている櫂人にとって単なる世間話のうちの一つでは終わらなかったらしい。土曜日になるたびに美名子は今頃起きて珈琲を淹れてくつろいでいるんだなと思うようになって、是非とも土曜日もご相伴にあずかりたいなどと思うようになったということだ。

 はあ?と首をかしげたのは美名子だ。

 たしかに土曜日でも平日と同じ時間に起きるし、珈琲も淹れる。

 ただ一つ違うのは、平日には櫂人がやってくるので部屋を暖めて少しでも暖を取ってもらおうと気を配るけれど、土曜日や日曜日は自分だけしかいないからこそ、珈琲は淹れても部屋を暖めるなんてことはしない。 ちょっと厚い靴下をはいて、ちょっとだけ厚着をして、冷えた部屋の中で珈琲から湯気が立ち上がるのを楽しみながら飲むのが習慣だった。

 たまたま今日は平日と勘違いして部屋を暖めてあるけれど、こういう失敗は普段はしない。

 いやそれよりも、だいたい連絡もなしに土曜日という休日の朝からやってくるのはどうかと思う。

 たかが珈琲いっぱいのために。

 美名子は土曜日に珈琲が飲みたいと思うのならばせめて前日に連絡を入れてほしいと、至極当たり前のことを櫂人に約束させた。


 それがどれほど櫂人を喜ばせたかなんて、美名子は考えようとはしなかった。


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