第七話 新しい日常を一つ。
人の噂も七十五日とはよく言ったものだ。
つまらない日常に噂というちょっとしたスパイスは必要らしいが、そのスパイスも在り来たりのものならば刺激は少ない。
美名子と櫂人の微妙な付き合いは胡椒程度の刺激もなかったらしい、噂は七十五日もかからずに落ち着いた―――――というよりも、皆に呆れられた感が強い。
まあそれはそうかもしれない。
二次会会場ではあれほど美名子に執着して後を追いかけた櫂人を誰もが見ていたのだ。その上、翌々日の朝に至っては一緒に会社に出社して。
これでロマンスが生まれていないだなんて誰も信じるわけがない。
美名子だって、自分のことだからこそ二人の間に何かがなかったことを知っているが、もしこれが他の同僚の誰かの話であるならば、相手は照れて誤魔化しているか会社に内緒にしておきたいかぐらいは思うだろう。
それほど結構な衝撃を与えた二人は、そのあと何の進展もなく、まるで幼馴染が一緒に学校に登校しているかのようなほのぼのさで出社してきては、始業時間まで話し込んで笑いあっている。そしてそこに色恋沙汰らしき甘さがまるでないとくれば、なんだこの二人はと呆れられて当然だ。
――――――とまあ、そんなわけで美名子が思っていたよりも早く、二人の関係は恋愛ネタにならないと見切られた。
万々歳である。
ある朝、美名子はけたたましく鳴る目覚ましを片手で止めながら、綿毛布のはだけた部分の体が冷えて冷たくなっていることに気が付いた。
秋の天候は変わりやすい。
それに朝と昼とでは気温がかなり違い、体調管理を行うとすぐ調子を崩してしまう季節でもある。
そろそろお布団をださなくちゃ。
冷えた体をさすりながら、美名子はせめて足元から暖をとろうと靴下をはいた。
いつものようにお弁当を作り、いつものように身なりを整え、そしていつもの時間に玄関を開けるとそこにはいつものように櫂人が美名子が出てくるのを待っていた。
ただ一ついつもと違うのは、その手に温かい珈琲カップが握られていることだ。
駅前のカフェのロゴが入ったカップからは甘い匂いが香り立つ。
驚いて櫂人を見ると、なにやら気恥ずかしそうにカップを弄る。
「……ごめん、ちょっと寒かったから」
だから駅前で買ってきたんだと、至極当たり前のことを申し訳ないように話す。
昨日は日中暑かっただけに、今朝の寒さが堪えたのだと笑った。
美名子は申し訳ない気持ちになった。
櫂人がこうして毎日美名子の家にやっくるのは、櫂人曰く番犬だからだったが、初めこそは嫌がっていたものの、今では櫂人と一緒に通勤するひと時が楽しみになっているのは事実だ。
櫂人は電車に乗って通勤している。
だからこそ駅前のカフェに寄ることができるのだが、それだからこそ、余分な時間と運動をさせていることにもなる。それがたとえ往復十数分くらいだとしても朝の貴重な時間を美名子のために使っているのだ。それを美名子はただ受け取っているだけにすぎない。
私だって楽しんでいるのに。
これからどんどんと寒くなる季節、櫂人はここに来て美名子が出てくるのを待つ間、こうやって珈琲を飲むことになるのだろうか。
―――――――それだったら。
美名子は櫂人が美名子のために使っている時間をもう少しだけもらって、その分自分の時間を櫂人に渡そうと考えた。温かい珈琲と一緒に。
会社への道すがら、明日は少し早目に来てほしいことを伝えると、櫂人はきょとんとしたもののすぐに快諾をした。
翌朝、美名子の願いどおりに櫂人は早くやってきた。
いつもは鳴らさないベルを鳴らすと、美名子は待ち構えていたように玄関の扉を開けた。
部屋の中から漂ってくるのは淹れたてのコーヒーの香りと柔らかい匂い。
「おはようございます」
「おはよう、美名子さん」
よかった。今日は持っていない。
美名子は櫂人の手にカフェのカップが握られていないことを確認すると、玄関の扉を大きく開けた。
びっくりしたのは櫂人だ。
いつもならば部屋の中が見えるほど扉を大きく開け広げることなどない美名子だというのに一体どういうことなのかと訝しみ、そして尋ねるように首を傾げた。
美名子は大きく扉を開けたまま、外に出ようとせずにじっと櫂人の目を見続ける。
そして扉を押さえていた手を部屋に招くように動かした。
どうか気づいてもらえますように。
祈ったのが通じたのか、それともあからさまなセッティングが功を制したのかはわからない。
櫂人が部屋に入りやすいようにと体をよけたその先には、小さなテーブルがあり、その上にはマグカップが二つとホットケーキが置かれているのが窺えて、櫂人は驚きに大きく目を広げた。
くすりと笑ったのはもちろん美名子だ。
まさかここまで驚かれるとは思わなかったものの、驚かせてみたかったのも事実なので、予想以上の反応に気をよくして驚くままの櫂人を初めて部屋に招き入れた。
「どうぞ」
「……え、でも、美名子さん?」
「槻木さんに淹れた珈琲が冷めてしまいます。部屋に上がって飲んでいってください」
櫂人はみるみる顔を赤らめて、かろうじて聞き取れる程度のほんの小さな声でお礼を言った。
こうして朝の日常に一つ、優しい時間が加わった。