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第六話 まさかこんな風に思うようになるなんて。


 翌朝はいつもよりも早く目が覚めた。

 いや、正確にいうならば寝付けなかったのだ。

 もちろん原因はただ一つ―――――櫂人だ。 

 昨日の櫂人のあまりの強引さは美名子にとれば恐怖でしかなく、だからこそ家を教えればその後に待ち受けることは一つだろうと勝手に推測をして、その間違った推測は一晩美名子を羞恥の底へと誘った。

 ベッドの上で馬鹿な自分を思い出しては身もだえする。

 いつ眠ったのかもいつ起きたのかもわからないあやふやな時間を過ぎてみれば、閉めたカーテンが朝の柔らかい日差しを浴びて薄く光っていた。

 はあ、と諦めのため息が漏れる。

 今から眠ろうとしてもうだうだとするか寝すぎて遅刻をするかのどちらかだろうと見切りをつけて、美名子は起き上がるとお弁当を作り始めた。

 結局前倒しされた朝の支度は前倒しした分だけ早まるわけで、出勤するには十分すぎる余裕のある美名子は気分転換にと駅前のカフェで朝食をとることにした。


「おはよう。今日は早いんだね」


 目の前には朝の清々しさそのままを具現化したような男が、通路の手すりに凭れていた体を直して美名子を迎えた。

 もちろんまだ会社ではない。

 美名子はただ玄関の扉を開けただけだった。

 あまりの出来事に硬直する美名子を優しく誘導しながら、櫂人は慣れたような手つきで美名子の手から鍵を抜き取り、扉を閉めて鍵を閉じる。


「何を驚いてるの? 俺は美奈子さんの番犬だから、きちんと役目を果たしているだけなのに」


 ストーカーの間違いでは?

 さっきまでの羞恥はどこへやら、美名子は櫂人に恐れをなした。

 そんな美名子に気が付かないのか、いや、気が付いているのだろうが意に介すようすがないだけかもしれない、櫂人は胸の前に合わさった美名子の震える手をゆっくりと解いて自分の手の中に収めると、そのまま駅に向かって歩き出した。

 今日も今日とて美名子の意向に全くお構いなく。

 怖気づいている身体は思うようには動かなく、足元がもつれて突っかかる。

 あ、と思ったときには体のバランスを崩して倒れそうになったが、手を握っているせいか櫂人はすぐに気が付いたようで、倒れこむ前に体は櫂人に抱きしめられた。


「……ごめん。美名子さんと一緒にこうやって会社に行けるのかと思うと嬉しくて、浮かれてしまって無理に歩かせたみたいだね」


 浮かれていたんだ。全く分からなかったけど。


 挫きかけた足が櫂人の機転で無事だったことはよかったが、いつまで抱きしめられなければならないのかと美名子は身じろぎをして抗議した。 

 抱きしめられて恥ずかしいのではない。 

 この状態を誰かに見られることが嫌なのだ。

 なにせ早朝とはいえ行きかう人は多い。夜とは違って朝の陽ざしのなかでは誰が抱きしめあっているかなど一目瞭然だ。それに駅を挟んで会社とは反対側の場所だとはいえ、会社に勤める全員の住所を知っているわけではないのだからもしかしたら同僚の誰かに見られる可能性も否定できない。

 これ以上、噂の種になどなりたくはない。

 美名子をなかなか放そうとしない櫂人に憤りを感じた。


「朝ごはん、まだなんです。駅前のカフェでモーニングを食べようと思っていて」

「そうなんだ? うん、じゃあ行こうか。……今度はゆっくり並んで、ね?」


 合わさった手を振りほどきたい美名子と、逃げるのを恐れるように力を込めた櫂人は、結局のところ櫂人の思い通りに並んで駅まで歩き始めた。今度こそ美名子の歩調に合わせて。





 そうして気が付けば、美名子は毎日櫂人と一緒に通勤するようになっていた。

 朝の早くから美名子にとって恋人でもなんでもない櫂人の顔を拝むのは正直嬉しくなかったが、営業の櫂人はスケジュール上、美名子と夜一緒に帰れないことが多く、せめて朝だけでも美名子の番犬でいさせてくれとごねたのが原因だ。

 美名子にそんな願いをきく義理はない。

 だけれど櫂人に番犬だとも思っていないと言っても聞き入れてもらえない。

 どんなに固辞しても、いつも強引に覆されて、美名子の希望通りには決してならない。

 そんなことが続けば、美名子も疲れ果ててしまい、このくらいなら諦めようと考えるようになった。


 そんな状態が一か月もたつころ。

 美名子はその状況にも慣れてきて、楽しむようにもなってきた。

 なにせもともとは話が合うのだ。

 営業なだけある櫂人は話し上手だし、なにより美名子が萎縮して話せなくなることもない……まあそれは初めのころは主に怒りのために萎縮している暇がなかったのだが。

 そして最も重要なのが、櫂人が紳士に徹していることだ。

 送り迎えはどんなに嫌がっても相変わらずしてくれるものの、それ以上の関係を無理やり迫ろうとしないのだ。

 家の前まで来るくせに家の中に強引に入ろうとはしないし、もちろん体の関係を本人の意思なく結ぼうとは思わない。

 櫂人にはなにか妙な一線があるようで、決してその一線を越えようとはしない。

 まるで美名子が誂えた部屋のように、だんだんと櫂人は美奈子にとって居心地のよい人となっていった。


 まさかこんな風に思うようになるなんて。


 初めの頃を思えば信じられない思いがする美名子だったが、事実、櫂人は強引さはそのままに、けれどあの一緒に歩むことを覚えた朝のように美名子に寄り添うことだけで満足をしているように思えて、美名子の不安を煽らない。

 そんな櫂人は美名子にとって「よき友人」となっていた。 





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