第五話 穴があったら入りたい。
結局する必要のない買い物は不要なものなど一切購入することなく、時間のかかるウィンドウショッピングとなっただけだった月曜の夜。
週初めからなんて無駄な体力を消耗してしまったのだろうとため息が出る。
終業時間からすでに二時間。
夕食にも誘わず誘われずただ只管に引きずり回した感がありありと見て取れるようにと頑張ったショッピングだったが、番犬のように横にぴったりとくっついて離れない男はそんな美名子の思惑などどこ吹く風、始終嬉しそうに顔をほころばせていた。
ああ、いったいどうやったらわかってもらえるのだろう。
家路に急ぐ人の波に溺れないように守ろうとする櫂人の端正な横顔をちらりと見ると、まるでそれを待っていたかのように顔を近づけてくる。
「どうしたの」「なんでもない」と同じ言葉を繰り返すこと数十分。
旗から見れば十分なバカップルに見えるだろう。
そうしてバカップルぶりを発揮しながら、家まで付いてきそうな勢いだ。
それは困る。
身の危険を感じるのは自信過剰の気のせいでは決してない。
ことあるごとに「俺が買った」と言われ続ければ誰だって、この後の展開は容易に想像がつく。
あんまりにも容易過ぎて警戒は怠れない。
美名子は恐ろしい未来を打破しようと、櫂人に向き直った。
「槻木さん。今日は遅くまでお付き合いくださりありがとうございました」
「櫂人。会社じゃないんだから苗字じゃなくて名前で呼んで」
「……槻木さん」
ここで別れようとすることよりも名前の呼び方に注意が行くとは。
相変わらず美名子が考えの斜め上を行く櫂人に今更ながら驚いた。
それになんてハードルの高いことを望むのか。
美名子は男性が得意ではない。
名前呼びしている男の人など数えるほどで、生まれてこの方親兄弟と姉の息子くらいだ。
広範囲を指すならば、知人の家に電話をかけるときに呼び出すための名前とか……さすがにこれはカウントに入らないだろう。
いくら美名子のパーソナルスペースに踏み入れられても気にならない櫂人だとしても、それとこれとは別問題だ。
会社の同僚であっても友人でも、ましてや恋人でもなんでもない櫂人の名前など、美名子が呼べるわけもない。
謹んでお断りしますといえば、不思議そうに首をかしげる。
これから付き合ううえで他人行儀過ぎるでしょとたしなめられもする。
違う、大元が違っている。
美名子は頭を抱えてしまった。
「もうショッピングは終わったよね。じゃあ食事にしようか」
人の話を聞いているの?
美名子は櫂人に突っかかりそうになる衝動を殺すのに必死になった。
つい今しがた「ありがとうございました」とお礼を言ったのはもちろん誰もがわかる意味を込めている。
普通の人ならここでお別れをするのだと理解する言葉のはずだというのに、櫂人はそれを見事にスルーして、自分の思い通りに事を運ぼうとする。
このままでは、負けてしまう。
流された結果が見えているだけに、美名子は負けるわけにはいかなかった。
まさかの膝蹴りはありえない。
それに昨日の今日でこれほど押してくるだなんて、ここできっちりと断らなければこれからずっと押され続けてしまうだろう。
美名子は、決心した。
「いえ、家に夕食の準備をしていますし、痛みやすい食材ですので今日中に食べてしまいたいんです。それに私の家は駅から近いですからわざわざ槻木さんのお時間を割いて送ってもらうほどではありません。ですからここで失礼をしたいのですが」
「そう……夕食は仕方がないよね。作ってあるならもったいないし。でもそれだったら余計に遅らせてくれないか? 番犬だっていったよね」
「私は槻木さんを番犬だなんて思っていません。それに遅いといってもこのくらいの時間なら残業だってしているときがあるくらいです。心配してくださってありがとうございます。でも大丈夫ですから」
「心配なんてするに決まってる。美名子さんは自分がどれほどかわいいのかわかっていないからそんな風に無防備なんだね。やっぱり僕が番犬になって美名子さんを見守っておかないと危ないな……ああそうだ。美名子さん、携帯かして?」
ごく当たり前のことをさも当たり前だと言っているような、そんな言葉遣いで言われた携帯という言葉が薄ら寒く感じ、美名子は無意識に鞄を押さえた。
しまったと思ったときは遅かった。
すっと美名子に差し出された手は、どんなに美名子が目で訴えてもわかってくれずに引っ込められない。それどころか、ずいと強く差し出してくる。
「どうしたの? 携帯あるでしょ?」
「……」
「ほら貸して? 登録しなくちゃだめだから」
未知の真ん中で動こうとしない二人を、道行く人たちが怪訝に覗き込む。人の流れを止めているのは間違いない。
さあと催促をされれば、これ以上周りに迷惑をかけれないと美名子は諦めて携帯を差し出した。
途端ににこりと微笑んだ櫂人はロックもかけていない美名子の携帯を簡単に操作して赤外線登録を終えた後、美名子に携帯を返す際には誰が覗くかわからないのだからパスワード設定をしなさいとお説教を垂れる。
いやそれだったらまずあなたに差し出しません。
美名子は大声で叫びたかった。
それからは完全に櫂人のペースだった。
美名子の稚拙な攻防は簡単に突破され、あれよあれよとアパートの玄関の前まで送られた。
「まさか、こんなに近いだなんて」
驚く櫂人に、だからこそ知られたくなかったのだと美名子は泣きそうになった。
震える手で鍵を開けながら、これからどうなるのだろうと恐々としていると、櫂人は美名子の後ろに立っている。
もしかして開けたと同時に押し入るとか……。
悪い方向にしか考えが向かない美名子だったが、今更ドアを開けないなんて選択もできない。
がちゃりと鍵を開けてドアのノブに手をかけると、たぶんきっと無理だろうと思いつつもくるりと後ろを振り返ってぺこりと頭を下げてみた。
「本当にありがとうございました。お休みなさい」
「ん。お休みなさい、美名子さん」
……え?と、下げた頭を上げたとたん、肩に手を置かれて唇をふさがれた。
ぱちくりと目を瞬くと、嬉しそうに瞬く瞳に出会う。
そしてゆっくりと離れていく端正な顔にもう一度ぱちくりとすると、今度は身体を翻してアパートの廊下を歩き出す櫂人の姿が目に入る。
カンカンとリズミカルな音が遠ざかると、やっと美名子は我に返った。
慌ててドアを開けて部屋に入ると、ドアに背を預けてずるずると座り込んでいく。
うわぁぁぁ。なんて、……馬鹿。
美名子は恥ずかしさのあまり穴があったら入りたかった。