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第三話 現実逃避をしたいのです。

 休み明けの朝は忙しない。

 だから時間に余裕を持てるように目覚まし時計のアラームをいつもの30分前にセットする。

 それが当たり前となっていた月曜の朝、いつもの時間に起きたつもりの美名子はそれが「つもり」であったことに時計を見て気が付いた。

 『08:02』

 予定時間の一時間オーバーだ。 

 とたん、慌ててベッドから飛び起きると、脱ぎっぱなしにしていた土曜日の名残が足に触る。

 普段であれば肌触りの良いシルクの感触は、そのまま不愉快な昨日の夜の出来事を思い起こさせた。

 忌々しいとばかりに、美名子はそれをもう一度ベッドの下へと押しやった。


 普段の美名子はそれほどだらしないわけではない。どちらかといえば綺麗好きのうちに入るだろうと自負している。

 就職を決めてから一人暮らしをしている美名子の部屋は、実家にいたころよりも自分の色を色濃く出している。 

 昭和の頃に建てられたアパートは丁寧に管理されていたものの古さは否めず、格安の部屋代に加え、部屋をある程度なら改造していいと大家から了承を得られたことで、美名子は周りの制止する声にもめげず賃貸契約を結んだのだ。

 入社式までにある程度の大掛かりな模様替え、つまりはぼろぼろになっている土壁の上にベニヤを張り付け塗装をし、階下に音が響かないようにと吸音材を張りめぐさせてからフローリング板を敷き詰め終え、むき出しの木にはせっせと磨きをかけて艶を出したりした。

 学生時代に将来一人暮らしをするのならどんな部屋に住みたいか考えに考えて、それこそ気に入った家具や小物があれば写真を撮ったり雑誌を切り抜いたものをノートに張り付けちょっとしたコメントも書いたりして夢を膨らませていたのだ。今それが実践されていることに喜びを隠せない。給料が入るたびに一つひとつをさらに吟味し購入して、日々よくなる居心地に美名子は十二分に満足をしていた。

 唯一の欠点は、昭和の建物だというだけあって、悪い立てつけに不安な防犯面だった。大家は女の一人暮らしということで鍵を新しく二か所付け加え、窓にも内側からしか見えない鍵を付けてくれた。美名子は美名子で洗濯物には男性の下着、玄関先には男性用の靴を必ず出しているくらいの警戒はしている。

 そこまでしてもこのアパートに住み続けたいのは、すでにこのアパートが美名子の一部となっているからにほかならない。

 だからこそ、実家で暮らしていた時より以上に掃除を怠らない。

 いつでも居心地の良い部屋であってほしいと願いを込めて、平日にはさっと、土曜日にはまとめて掃除をするのが通常運転だった。

 それなのに、その足元でくしゃくしゃになっているドレスだけは扱いが違った。

 部屋を見てもわかるように、もともと美名子は物を選ぶときは厳選に厳選を重ねて選ぶ。

 この可哀想なドレスだって、ブティックの店員が嫌がるのではないかと思うくらい何回か通い詰めて購入を決心した逸品だ。ちょっと顔の彫りが深い美名子が派手派手しく映らないような、それでいて自分という人間が格式ばったドレスに埋もれてしまわないような程よい甘さを持つドレスというを見つけるのにどれほどの時間がかかったか。本当は一目で気に入っていたにもかかわらず手に届くかどうかの価格に何度も足を運んで自分を納得させて買ったのだ。一番のお気に入りになるのは時間の問題だった。

 ところが折角のお気に入りのドレスは、昨夜家に帰ってきて脱いだ途端、物を大切にするいつもの美名子なら直ぐにハンガーにかけるというのに脱ぎっぱなしで床に落としたまま、それどころかドレスを見ては思い出す羞恥と居たたまれなさと憤りが、ドレスを美名子から見えない位置、つまりはベッドの下へと押し込ませたのだ。

 完全に八つ当たりだと自覚している。 

 それが更なる羞恥を美名子に与えた。

 それからは何か取りつかれたように溜めた用事をこなしていく。

 思い出さない。考えない。あれは正当防衛だ。

 呪文の言葉は美名子を突き動かしていく。

 そうしてやっと就寝時間になると、程よい疲労感からベッドにバタンとダイブして、そのまま夢の住人となったのだ。


 昨夜の行動を一気に思い出させたドレスは、今はベッド下の奥の奥。

 今はそんなことよりも遅刻しそうになっているほうが切実だ。

 美名子はベッドの下を極力みないようにしながら、慌ただしく支度する。

 部屋を飛び出したのは、最短時間となった十五分後だった。






 美名子の住むアパートは会社からそれほど距離があるわけではない。

 会社の最寄り駅の真反対側にあるアパートからは、ヒールを履いた足でもがんばれば20分ほどでたどり着く。

 電車を使わない美名子であったが、歩道橋代わりに駅を利用しているので、一見すれば電車通勤をしているようにも見えていた。そしてそれを否定しないことで、経理以外の人からは美名子は電車通勤をしていると思われていた。

 だからなのか、改札口を横切ってしばらく歩くと声をかけられた。


「おはよう。今日は遅いんだね」


 美名子はかつんと音を立てて立ち止まった。

 目の前には無残なドレスがさまざまと思い浮かんだが、そのドレスの幻影が消えると見えてきたのは櫂人だ。

 通勤ラッシュ時の電車に乗ってきたはずの櫂人は、くたびれた感など微塵も感じさせないさわやかな笑顔で美名子にほほ笑んできた。


 眩暈が酷く体調が思わしくないため、お休みをいただきたいのですが。


 現実から逃げ出すために、勝手に脳内で休暇申請をしていた美名子だった。


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