第二話 逃げ出し方はワンパターン。
美名子は恥ずかしすぎて泣きそうになった。
いや、泣いてすむならまだましだ。
問題は休み明けの月曜日だ。
櫂人が美名子を抱きしめた場所が悪かった。
二次会場の入り口のすぐわきにあるクロークの前だ。人の流れが多いどころか、今から帰るためにコートや荷物を引き取りに来ている客がわんさか集まってきているところでもあった。
もちろんその中には同僚たちが何人もいたわけで、もちろんそんな二人を周りが囃し立てないわけがないわけで。
ヒューヒューとかいう昔ながらの冷やかしの野次は櫂人を力づけたのか、美名子を抱きしめる腕に力がかかり、美奈子は泣くどころか息苦しくなってこのまま死んでしまうのではないかと縁起でもないことを思っていた。
この状況は美名子にとって許されざるもので、どうやって打破しようか酸素のいきわたっていない脳で考える羽目に陥った。
妙案など浮かぶわけもない。なにせ酸素がないのだから。
確実に息を吸わなければ本当に死んでしまうと焦った美名子は、唯一まともに動きそうな足の膝を思いっきり上げて難を逃れようとした。
結果、美名子のなけなしの作戦は成功する――――――前のめりに悶絶する櫂人という、気の毒すぎる犠牲者を出して。
焦ったのは美名子だ。
あまりの苦しさに涅槃が見えたとしても、不可抗力だとはいえさすがにこれはやりすぎだろうとちょっと櫂人が気の毒にもなった。
もちろん周りはドン引き+苦笑の嵐だ。そして皆が皆、櫂人を可哀想な子を見る目で眺めている。
この状態の櫂人を置いて帰ってもいいですか?と心の中で叫んでいても、きっと本当にこのまま帰ると月曜日にどれほどの厄災がふりかかるかと想像するだけでしゅんと萎縮する。
急に槻木さんが抱きしめるので、驚いて蹴り上げてしまっただけなんです。
いやまさか、股間に綺麗に膝が入るだなんて、思ってもみなかったんです。
そんな言葉を使おうものなら、さらにきっと事態は悪化する。
じゃあ、責任をもって伊東が面倒を見ろよ。
そうね、美名子が悪いんだから、せめて落ち着くまでは傍にいたら? しばらく動けないだろうし、ね?
ああ、先の読める話すぎて涙が出る。
何をしてもどう動いても、結局今日のところは櫂人から離れることができないらしい。
それならば、と悶える櫂人の腕をとって「ごめんなさい」と愁傷に一言謝り、周りの視線をそのままにすたすたと駅に向かう道の逆方向に歩き始めた。
要はその場から逃げ出したのだ、櫂人付きで。
悪魔に魂を売ってここにいる全員の記憶を抹消できるのなら、熨斗を付けて売ってやる!
恥ずかしさで完熟トマト並に顔を真っ赤にしながら、ただひたすら現実逃避を繰り返す。
あまりに現実逃避しすぎていたせいで、真横にいる櫂人が笑っているのにも気づかない。
「この程度の案件で悪魔に熨斗を付けて魂を売るのなら、俺が買ってもいいのかな」
耳の真横でささやかれた一言が美名子を現実へと引き戻した。
まさか声に出していただなんて、なんて馬鹿。
あまりの恥ずかしさにかーっと顔に集中する体温が、美名子の勢いを殺ぐ。
完熟トマトは落ちる直前。
池の鯉さながら口をぱくぱくと開け閉めしている美名子だったが、その瞳は櫂人にくぎ付けだ。
あの二次会会場の恥ずかしい行いに前かがみでもだえ苦しんでいたはずの櫂人を無理やり歩かせていた美名子だったはずなのに、櫂人は先ほどまでの痛みなどなかったかのように妙な色気を出しながら美名子の顔を両手で挟み込む。
「その魂、買ったから。もう君は俺のものでいいよね?」
「えっ、ちょ、ちょっ?!」
「ん~? 返品はしないから、あきらめて」
迫ってくる唇が妙に艶めかしく輝いて、美名子は逃げ場を失いそうだ。
いやそれよりも、買うだとか返品しないだとか、それ以前の問題だということになぜ気づかない?
たとえ心の声を口にしたとしても、売る予定なのは悪魔にであってあんたにじゃない。
美名子は櫂人の理不尽さに、少しだけ冷静さを取り戻した。
相手は酔っ払いだ。
その許容量がどれほどあるのかは全く分からないにしても顔を赤らめるくらいは呑んでいるのだからうまくいけば誤魔化せる。
二番煎じだろうが、ワンパターンだろうが、なんとでも言え。
ええい、ままよと取った行動は、たとえもし仮に両手がふさがっていなかったとしても、いや実際は両手は肩にかけてある鞄の柄を強く握っているだけで自由に動けるといえばそれまでなのだが、必殺技の膝蹴りだった。
ぐ、という喉の奥で押し殺した声とともに、頬を挟んでいた大きな手は離れていく。
まさか同じ攻撃を喰らうとは思っていなかっただろう櫂人は、さきほどよりももっと強い痛みが襲ったのか苦悶に顔を歪めながら言葉も出ないようだった。
美名子は逃げた。
苦しむ櫂人をほっぽって。
人道的には間違っているといわれるかもしれないが、先に襲ってきたのは櫂人だ。美名子が逃げ出したって文句はいわれないだろう。
通り過ぎる人さえまばらな場所だからこそ、櫂人はキスを迫ろうとしたのだろうし、美名子は誰にもはばかることなく逃げることができる。
結果オーライとはまさにこのことだ、と急ぎ足で駅に向かいながら呟いた。