第一話 出会いはありがち。
美名子は戸惑っていた。
店長がこだわった北欧グッズで揃えられた美名子お気に入りのカフェは時間帯のせいかそれほどの混み具合ではなく、微妙に配置された観葉植物やオープンキッチンが陰になって他のテーブルからこちら側が見えないつくりになっていたとしてもそれでも多少の客が入っている。あまり声を荒げて注意をひきつける必要性はないんじゃないかと思っていた。
現に目の前にいる男―――――つい今しがたまで美名子の彼の位置づけであって、たった今から彼の前に「元」が付いた槻木 櫂人は、美名子が言った言葉がよほど気に食わなかったのか「ふざけるな!」なんて恥ずかしげもない言葉で荒ぶる。
その言葉が美名子の気持ちをさらに固めただなんて知る由もなく。
―――――だけどこの子、こんな声もだせるんだ
美名子は四年間の長い付き合いの中で初めて声を荒げた櫂人に驚きを隠せなかった。
櫂人と付き合い始めたのは、美名子が短大を卒業して無事中堅どころといわれる商社に入社した翌年の、クリスマスシーズンが過ぎてあと少しで正月だという曖昧な時期だった。
もともとの出会いはオフィスラブにありがちな上司と部下や同期とかでは全くなく、同じ会社にいても接点などほとんどなかった二人だったが、ある時たまたまお互いの友人同士が職場結婚をしたその披露宴会場のテーブルが隣通しで、同じ仕事場だということからテーブルの他の人に比べたら話をしやすかったからにほかならない。
一期上の先輩であり、大学を卒業していた櫂人は、短大卒の美名子とは年齢的には三歳の差があるが、櫂人は甘くやんちゃな外見と仕草で美名子にとっては同い年くらいにしか思えなかった。
だからこそ知り合っても恋愛には発展しないと踏んでいたのだったが、そう思っていたのは美名子だけだったようだ。
知り合ったのが披露宴会場とするならば、アプローチが始まったのは二次会会場。
二次会会場は会社の見知った同期や友人がいたため、会場に着くや否やそちらに足を向けようとしたのだが、その手を櫂人が掴んで離さず、二次会の間ずっと櫂人が美名子の横を陣取って自分のものアピールをしていたのだ。
これには正直美名子は辟易とした。
もちろん、美名子にだって恋愛をしたいという気持ちがないわけではない。
だが、少し話しただけでかなり共通の話題を持つ櫂人は男性があまり得意ではない美名子でも話しやすく、それどころか横にいたとしても自分のパーソナルスペースを犯されているとは感じない利点がある分、まったくときめかないのだ。手を握られたとしても思いのほか近くに顔が来ていたとしても、まったくもってどきりともしない。恋愛しようにもこれは致命的だった。
―――――恋愛したいならさっさとほかの人に鞍替えしたほうがいいと思う。
なんて、心の中でも思ったし、あまりにずっと横にいて友人と話す暇すら与えてくれない櫂人にだんだと苛立ってくると口にすら出した。我ながら酷い女だと思いながらも、櫂人が美名子を見つめていたとしてもさっさと諦めてもらうためにわざとらしく視線をそらして飲み物を頼んだりもした。
周りの同期や櫂人の同期たちからは「有意義に過ごしてるね」などと上手い外し具合で茶化されて、美名子はだんだんと居心地が悪くなっていく反面、櫂人はどんどんと上機嫌になっていった。
とうとう長く続いた二次会もお開きとなり、元気が有り余っている者たちはそのまま三次会へとなだれ込もうと画策し、疲れ切った人たちはぞろぞろと駅に向かい歩き始めたとき、その波に乗ってさっさと帰ろうとクロークから荷物を取り出した美名子を待っていたのはやっぱり櫂人だった。
「もう帰るの? 名残惜しいから二人でどこかで飲みなおさないか?」
ブラックフォーマルの背広の袖を捲り上げ、白シルクのネクタイを外してラフ崩した服装の櫂人は、披露宴と二次会ですでに数種のお酒を飲んでいたせいか顔を少し赤らめて、潤んだ瞳を美名子に向けて囁いた。
美名子だって馬鹿じゃない。
ここで頷けばお持ち帰りされないまでも、会社の同僚たちに二人が付き合っているものだと確実に認識されるだろうことが容易にわかる。
冗談ではなかった。
まだ本当の恋もしていないのに、何とも思っていない男の人と噂にだけはなりたくなかった。
その想いだけが美名子を突き動かした。
「ごめんなさい。私これから約束があるから」
まさに嘘も方便、だ。
ほとんど素面の美名子はありきたりな言葉とともにしらじらしい愛想笑いを櫂人にプレゼントした。
普段笑わない美名子が大抵このセットをプレゼントすると、相手はなぜだか一歩下がってしばらくボーっとする。その隙にさっさとさよならするお決まりのコースになるはずだった。
だが櫂人は大概の人とはちょっと違うようだった。
櫂人は一歩引くどころか一歩前に乗り出して、ふにゃりと顔を崩したかと思うと櫂人より十センチは小さい美名子を覆いかぶさるように抱きしめたのだ。
「か、かわいい……」
美名子は櫂人の美意識に疑問をもった。