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鍵のありか  作者: 伊川なつ
山暮らし篇
7/27

彼女の世界

「王立学院に?」

 マナが耳慣れない言葉に首を傾げた。


 時刻は草木も眠る深い夜。辺りは静まり返り、ともすれば野生動物の息遣いまで感じられそうだ。

 マナはいつものようにバーレンの家の屋根裏で、彼の隣で膝を抱えていた。二人の身体を包む毛布の中には、熱い湯を入れ布でくるんだ大きな湯たんぽが置かれている。じんわりとした熱さが心地よい。


「エーデンタークで公開講義があるんだ。それに行きたいと思ってる。この人が、講師をやるらしい」

見せられたのはバーレンの愛読書。生物ーー動物、植物、そして人間の生命について書かれたもののようだ。表紙の皮は変色し、中の紙もひどくよれている。マナは、バーレンがそれを繰り返し食い入るように読んでいることを知っていた。その本を記した博士は意外に若く存命らしい。


「生き物について書いた人なんだ。家畜についてのことも載っている。知ってるか? 生き物って、膨大な情報が詰まったカタマリを持ってるらしい。それを変えられるようになれば、もっと質のいい作物もミルクも毛皮も作れるかもしれないって……畏れ多いけど、まるで魔法みたいだよな」


(…遺伝子とかそういうものを言ってるのかしら)


 確かにミルクや小麦の質がよくなるのなら、マナも願ってもないことだ。マナの世界と比べ、ここの生活は質が悪い。とくに食事においてそれが顕著だ。

 マナがここのミルクを初めて飲んだ時はその独特の臭いに気分が悪くなり、パンを食べた時はその固さと舌触りの悪さに驚いた。もうそれにはすっかり慣れてしまったけれど。


 バーレンは目をぎらぎらさせながら語っていた。自分の興味を語るバーレンは、普段の真面目な好青年といった雰囲気が変わって、どこか野性的だ。一人でひとしきり、どこからそんなに言葉が流れてくるのか不思議なほど口が動くようになるのだ。


「その講義はいつあるの?」

「二週間後」

「もうすぐなのね」

マナが、柄にもなくはしゃぐバーレンににこりと微笑む。


 しかしバーレンはどうしたことか急に表情をかげらせた。マナもそれに気づき首を傾げ、眉をよせる。

「どうにかして行きたいんだ。けど、父さんと母さんが納得してくれるとは思えない。エーデンタークまでは馬車を使っても一日かかる。ここらへんは道が悪いからな。となると日帰りなんて無理な話だ」

バーレンの言葉にマナはなるほどと頷いた。

 ヴァイツ一家は酪農が生業だ。毎日の仕事に休みはない。それこそ朝から晩まで一家総出で働きづめだ。一番の働き盛りであるバーレンが、何日も家を空けることは難しいだろう。


「それなら私がバーレンのぶんも働くわ。バーレンみたいには出来ないだろうけど、頑張るから。おばさんとおじさんに一緒に頼んであげる」

役に立ちたいと顔を輝かせたマナ。しかしバーレンは首を左右に振った。


「説得は一緒にして欲しい。けど、マナ。君も一緒に行って欲しいんだ。王都へ」

「えっ?」

思いも掛けない言葉に、マナは目を丸くした。


「どうして?だって、私…」

マナが己の髪に触れた。人目についてはいけないと言われた黒い髪。そして瞳。

 マナは今までヴァイツ家の山から降りたことはない。最寄りのラッシュ村にもだ。


 バーレンは不安げなマナの頭を撫で、髪を梳いた。

「大丈夫。なんとかする。目は難しいけど、髪は隠せるだろう? マナはもっと外の世界に出た方がいい」

「外の、世界……」

マナは呟いてから、俯いた。


 こちらの世界に来てから一年近く、マナはこの狭い山の中、そしてヴァイツ家の住人だけという狭い環境で過ごして来た。

 村に降りてみたいと思いはマナの中に確かにある。話に聞く王都への憧れも。しかしそれは強い不安も伴っている。全く知らない世界に飛び込むことになるのだ。

(けれど…)

と、マナは頭の中で不安を振り払った。


 バーレンと一緒ならば、それはなんと魅力的なことか。「大丈夫」と言った彼の声は力強い。

 マナはこくりと頷いた。バーレンの顔が綻ぶ。


「マナ、それからもう一つ。会ってほしい人がいるんだ」

「人に……?」

再びマナの顔が強張る。

「でも、そんな、人に会うなんて。髪と目をはっきりと見られるじゃない」

「いや、見せたいんだ。そいつなら悪いようにはならない」

きっぱりと自信のある声だ。それほどまでに信頼のおける相手なのかと、マナは違和感を覚える。

「誰?どんな人なの?」

バーレンは少しの思案の後、

「生意気なやつだ」

と言い放った。

「な、生意気…?」

「ああ、我儘で生意気なガキだ。俺の友だち」

「…えっと、悪いようにはならないのよね?」

「多分」

「…バーレン!」

マナは小声ながらも鋭い声を出した。キッとバーレンを恨めしげに睨みつける。

バーレンは苦笑いをした。

「まあ、でもいい奴だから。きっとマナも気にいるよ」

「…生意気で我儘なのに?」

マナはうろんげな顔だ。

「俺は気に入った」

バーレンが堂々とそんなことを言うものだから、マナはもう何も言えなかった。

「わかった。会うわ」

マナが頷くと、バーレンは見るからにほっと安堵していた。




 その後マナは少しの間、バーレンと同じ時間を過ごしてから、彼の家を後にした。

 扉を開き、外に出るとぴゅうっと指すような冷たい風に身体が震える。

「寒い」

手をこすり合わせて温めつつ、夫婦とミリアが寝ている家に向かう。家は隣だから目の前だ。ほんの数十メートルの道。


 マナはふと、立ち止まる。

 バーレンの家にいた時は、しんと静かな夜だった。しかしこうして外に出ると、ざわざわとこすれ合う草木の音や、どこか遠くで鳴く野鳥の声が聞こえる。

 暗いながらも開けた視界。遠くには緑の少ない真っ直ぐに伸びた木々。見上げれば、溢れてきそうなほど満天の星。足元は羊たちの食べ物となる牧草や穀物を育てている、恵みの大地。月明かりでうっすらと影ができている。

 うす暗く、季節の変化の乏しい山だ。

 けれど、マナはここが好きだった。


 初めて、受け入れられた場所。

 優しい一家に会えた場所。


「外の、世界かぁ…」


 魅力を感じないわけではない。エーデンタークにあるという、荘厳な城も、夜まで熱い賑わいを見せるという市場も、マナは一度は見てみたいと思っていた。

けれど、

「外の世界なんて、出なくても、いいよ…」


 ここが、この山が。ヴァイツ家の人々がーーバーレンがいる場所こそが、マナの居場所なのだから。

 彼女は心から、そう信じていた。

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