小さな家とお姫様
土間と小さな部屋一つ。それから、立てば天井に頭がついてしまいそうな狭い屋根裏部屋。それがバーレンの家だった。キッチンとトイレ、バスルームはない。彼の親二人と妹、それから黒髪の少女マナが生活している隣の家のものを使っている。
ここ周辺地域の古い風習で、成人の儀を終えた男性ーーつまり17歳を過ぎた男性は、自分の家とその脇に植えられた木を家族から与えられる。
その家を自分の力を持ってして大きくし、妻と子を迎えるようにという想いが込められている。家の脇の木は一人前と認められてからの歴史を表すものだとか。
バーレンと彼の祖母がそれぞれ自分の家を構え、マルクス夫婦やミリアとは別に暮らしているのはそのためだ。もっとも、この風習は人の多い街ではとうの昔になくなっており、山のふもとの村でも今ではみられない。土地持ちであるヴァイツ家だからこそできることだった。
その小さな家で、家主のバーレンとマナが大掃除を行っていた。
季節の変わり目にするべしとされているそれは、マルクス夫婦の家では、とうに終わっている。しかし、掃除が苦手なバーレンは今日になっても終えられず、今朝になってマナに手伝いを頼んだというわけだ。
朝、バーレンの家に入ると床には様々な本や紙が散らばっており、勉強に夢中になると夜が明けたことにも気づかないバーレンらしいことだと、マナは大いに呆れた。
しかし昼時になった今、二人の努力によって床に物一つない状態になっていた。窓も光るほど磨かれ、残るは床磨きだけである。
バケツの水を変えてこようと立ち上がったマナは、ふと机の上に積まれた絵本に目を留めた。それは子ども向けの、古くからこの地域に伝わる童話であった。
「ああ、それミリアのだな。俺のとこに紛れてた」
バーレンが掃除の手をとめ、絵本をぱらぱらとめくる。
マナがここに来たばかりの頃、ミリアに頻繁に見せられ、読んでとせがまれた。しかし、この地の者ではないマナにとって、それは馴染みの無いものである。
絵本に描かれた色付きの絵を見て、ふとバーレンとマナは顔を見合わせた。お互いに首をかしげて苦笑いをする。
急にばんっと大きな音を立てて扉が開いた。小さな影が勢いよく躍り出る。小麦色のワンピースの裾と綺麗な金髪をはためかせたミリアの姿であった。
バーレンがその勢いに呆れ、顔を渋くする。しかしミリアはそんな兄の様子を露とも気にせず
「綺麗になったね」
と、ぐるりと家の中を見渡した。
「ミリア、何しにきた」
「ご機嫌よう、兄さん。姉さんに会いにきたの。あ、あとお昼を知らせに。二人ともまだでしょう?今ならまだお湯も温かいし、スープも残ってたわよ」
ミリアはマナに抱きつきながら、そう言った。おませな口ぶりに年相応な所作。その言動に、バーレンが溜息をつく。
そうしているとミリアはバーレンの持っている絵本に気づき「あ!」と顔を輝かせた。
「私の絵本!兄さんが持ってたの?」
ぐっと机に小さな身を乗り出し、絵本を覗き込む。そのページには、先ほどからバーレンとマナが見ていた、童話の主人公であるお姫様が佇んでいた。
ミリアがそれをぴっと指差し、次にマナに向かって溢れんばかりの笑顔を向けた。そしてミリアがマナの髪に手を伸ばす。
「お姫様!」
幼いミリアにとって、それは憧れなのだろう。
童話を飾る何枚もの色付きの絵。そこに多く登場する、王子様とお姫様。
その者たちは全て、マナと同じ真っ黒な髪と瞳を有していた。
マナの住んでいた世界では、童話にでてくるお姫様といえば、だいたい金髪に青か緑の瞳を持っていた。ミリアは出会った頃からよくマナのことをお姫様と呼んでいるが、マナにとってはミリアのほうがよほどお姫様らしい。お転婆さえ除けばであるが。
「ミリアの髪のほうが綺麗よ」
マナがミリアの髪を優しく梳くと、ミリアはくすぐったそうに笑った。
「マナ、床磨きをさっさと終わらせて、メシに行くか」
バーレンにそう言われ、マナはうなずき、バケツを持ち直す。ミリアは「私も行くわ」と言ってマナの片手にへばりついた。
マナとミリアがくすくすと笑いあいながら、家を出る。バーレンはそんな二人の様子を見て「まるで本当の姉妹だな」と笑った。
マナは、この世界の人間ではない。バーレンはそう、マナ本人に聞いていた。文化も土地も人も、何一つ自分が今までいた場所と違っていると。
初めはまさかと疑っていた。しかし今はもう信じる信じないということは一切考えていない。会って、一年ほどしか経ってないマナとヴァイツ一家だったが、今は既にマナは家族の一員となっている。生活の中で戸惑うことは多々あるけれど、生まれた場所など関係ない。バーレンは心からそう思っていた。