世界のこと
指先の暖を得たマナは当然のように、バーレンの手元の本を見せてとねだった。
読書はバーレンが寝食より優先するものだった。夜の帳が降りたあの丘で、毛布を分け合って暖まった後、バーレンの横でよく彼の読む本を覗き込んでいた。熱心に文字を追う彼に、邪魔だと文句を言われることや、無視されることは一度や二度ではなかったが、あの時間はマナの大好きな時間だった。
バーレンとの再会や手の温もりにに浮かれたマナは、王宮暮らしの事情や丘の農場のことを訪ねることを、すっかり思考の脇にやってしまっている。
その本は装丁の簡素なものだった。表紙には「地図」の文字が刻印されている。相当古いもののようで、茶色がかった染みがところどころ浮いていた。ミスリー国の地形と自然物をまとめたもののようだ。
バーレンが西の海岸沿いの印をとんと指差す。
「ここ。王都エーデンターク。今いるところ」
その指をすーっと北北東に滑らせる。
「ここら辺かな。ラッシュ村。俺たちの家はそのすぐ北」
「結構端っこなのね」
「そうだね。うちより奥は山になってるから村もない」
「この大陸、全部ミスリー国?」
「そうだよ。東側もいくつかの地域には分かれているけど、全部ミスリーの統治下だ」
「え、じゃあ他の国はないの?」
マナは信じられないとバーレンの顔を見やった。バーレンは首を横に振る。やや眉を寄せて、
「この地図には載ってないけど西の奥にもう一つ大陸があるんだよ。そこにイーノ諸国がある」
ぱらぱらとページをめくり、バーレンは世界地図を探した。
その拍子にばさりと一部のページが床に落ちた。背表紙の糸が古くなっていたのだろう。バーレンは焦って床に手をやった。
「うわぁ、司書に持っていかないとな……」
マナも苦笑しながら散らばったページを拾い集める。
文字の向きを揃えて、集めた紙をバーレンに渡そうとしーーマナはとっさに腕を引いた。
バーレンは不思議そうに首を傾げている。
マナは抜け落ちたそのページを食い入るように見つめ、動くことができなかった。指に知らぬうちに力が入り、紙がよれる。マナ、とバーレンに声をかけられても、彼女はただ目を見開き、浅く呼吸をするだけだ。
いよいよ不審に思ったバーレンがマナの手元を覗き込む。そこには随分古くに書かれたのか、数値や文字、山や森の印もない簡素な地図が書かれている。
「随分古いな。紙質も違うし、ほかの本の紙が挟んであったのかな」
「あ、うん。そうね」
そうやっと返事ができたマナはその紙ごとバーレンに渡す。
「ごめんね、ぼーっとしちゃった」とごまかして、マナは笑った。
けれど彼女の内心ではびゅうびゅうと混乱の風が吹き荒んでいる。
(あれは、私の……)
地図は古かった。形や大きさは正確ではないと思う。けれど特徴的なあの形を、マナは決して忘れない。
(私の、世界の、地図……。日本列島が書かれた……)
思いがけない見つけものに、背中に冷たい汗がつたった。
◇
図書館の出入り口には当然、司書や警備がいる。入館許可をもらっていないマナはどうやって出るかと、バーレンと二人でまごついていた。
雨どいをUターンする案は、バーレンに即却下されている。
どうしようもないと、腹を括ったその時、書庫に似つかわしくない、柔らかなドレスの裾がひらめいた。
「こんな場所にいましたのね、マナさま」
ニッコリと弧を描く唇は桜色。ただ目は笑っていない。というより、目が据わっている。
昨日付でマナの世話役になった侍女のリーズが、これ以上なく可愛らしい顔に怒りをたたえて仁王立ちしていた。