少女の黒
2012.1.30
サブタイトルを変更しました。
夏が過ぎ、とある山に秋が訪れた。山は高緯度に位置しており、また近くの海から流れる風の影響を受け、夏でも比較的涼しい。暦では秋に変わったといっても、実際の体感温度にあまり変化はない。しかし山に薄く生えている野草の顔ぶれは確かに少しずつ変化していた。
山にはとある一家が、そういった控えめな季節変化を感じながら生活を営んでいた。
標高が低さと山のなだらかな形から、近くの村の住民は、その山に住む一家の名を取って「ヴァイツさんとこの丘」と親しみを持って呼んでいた。
ヴァイツ家は、父、母、母方の年老いた祖母、それからしっかり者の息子と、まだ小さな赤い頬を持つ娘の五人家族であった。酪農を生業としており、慎ましく生きている。
山の頂上付近は、山とは思えないほど平たく開かれており、そこに小さな家が三つ、そして家よりも何倍も大きな家畜小屋が一つ、水車小屋と倉庫が一つずつ建っている。三つの小さな家とその他の小屋は離れており、その間に、個人宅のものとしては広大な放牧場を有していた。
ヴァイツ家の一人息子であり、農場の跡継ぎであるバーレンは、なかなか優秀だと村人から評されている。成人の儀を間近に控えた健康的な男だ。農夫にするにはやや細い体つきと、外で働くよりは内で学ぶことを好む性格は、彼の父親の不服とするところであったが、しかし真面目な働き者であった。
バーレンはその日、朝の仕事を早くに済ませ、村へ下りるところだった。山では手に入らない調味料の買い出しを母に頼まれていた。
(ついでに図書館にも寄りたい、しかし仕事もあることだし、借りていた本を返すだけにするか)
そんなことを考えつつ、坂を足速に下っていく。
バーレンはしばらく行った道の先に、黒い塊があることに気付いた。
(何かの野生動物だろうか)
山で見たことのない姿だったので、腰の短刀に手をかけ警戒しながら近づく。黒の塊がもぞりと動いた。
驚いたことに、良く見るとそれはうずくまった人間だった。
真っ黒な長い髪に、黒い奇妙な形の服。
(黒い髪…?まさか)
バーレンは人間の側で体を強張らせた。
村の人間がこの山に来ることは珍しいが、皆無ではない。村人の一人が迷い込んだのかとも考えたが、即座にその考えは消える。
なぜなら、村人に黒髪を持つ人間はいない。
バーレンは足がすくんでいた。
うずくまっていた黒い人間がそばに立つバーレンに気付き、顔をあげた。黒い髪と服に対比してか、肌の白と唇の赤が際立ったーー少女だった。しかし
(黒い目!)
バーレンがじっと見つめるのは、肌の白でも唇の赤でもなく、髪と同じくどこまでも黒々した瞳だ。
自分より年下に見える細い少女が、道端でうずくまっているこの状況。本来ならすぐにでも駆け付け、事情を聞くべきだろう。
バーレンは黒の瞳を持つ人間に会ったことがないわけではない。しかしそれでも髪と瞳の黒に慄いてぶるりと震えた。地に足が縫い付けられた様に、少女に近づくことが出来なかった。
そんなバーレンの畏れに気付いているのかいないのか、少女はぼんやりとした顔で彼を見やった。次に辺りをキョロキョロと見渡し、首を傾げ、俯く。
「あの…」
少女の声にバーレンはびくりと体を強張らせた。しかし話を聞かなければと、すばやく彼女の近くにひざまずく。
「…すみません。ここは、どこでしょう」
震えた、か細い言葉。バーレンは一瞬何を言っているか理解出来ず、口をポカンと開けてしまった。慌てて気を引き締める。
「どこ、とは?」
「私、…私は…ここ、どこ…?」
まるで母親の居場所が分からなくなった時に妹がつぶやくような、弱々しい泣きそうな声。
「…貴方は、都の…エーデンタークの者ではないのですか?」
バーレンの問いに、少女は泣きそうな顔で首を傾げた。
「えーでんたーく?」
未知のものを聞くその声色に、バーレンは驚愕のあまり、くらりときた。
このままここに居ては埒があかない。バーレンは未だに緊張して強張った体を叱咤し、立ち上がった。
「とりあえず私の家に来ていただけますか?この坂を少し登った先です。お話はそこで」
少女は不安と警戒の色を隠しもせず、じっとバーレンの顔を見つめた。少しの間、見つめ合う。
少女は頷くと、ふらりと立ち上がって、バーレンとともに丘の上へと歩み始めた。