突風とつむじ風
ヴァイツ家に拾われて、もう随分になった。道端で蹲っているだけの自分を家に招き、採れたてのミルクを差し出してくれたあの日から、マナの知っている世界は丘の自然とヴァイツの家人のみであった。
丘の薄い木々と荒く岩の転がる地、何も遮るものがない遠くの山稜をなぞる空。南の方角にちらりと見えるラッシュ村のミニチュアのような家と馬車。時期にはざざざと鳴る牧草と汗をかきながら手をかける家畜。
それっぽっちの狭い世界で、マナは十二分に穏やかに心が満ちていたはずだった。
くるぶしまであるストンとしたAラインのドレス。ふだんは防寒や動きやすさだけを求めた厚手の装いなので、体のラインにあった細身のドレスは、ぐっとマナに女性らしさを与えていた。
ドレスは黒一色でたいそう落ち着いたものである。首襟だけは白、袖には黒糸の刺繍で小花が踊っているがそれ以上の装飾はなく、いっそ普段のセーターのほうがよほど色味がある。
そんな装いをしたマナの眼前には、真っ白な石造りの門。とてもひとりで動かせそうもない堅牢さで、両脇に門番が控えている。
ただバーレンの外出にくっ付いてきただけであったはずなのに、気づけば2度も王子と接触し、地味ながらも上質なドレスに袖を通し、
そして国で一二を争う要所ーー王宮大聖堂に足を踏み入れようとしている。
心は置いてけぼりで、周りに流されるままとんでもない所にきてしまった。
ヴァイツ家の羊の鳴き声が、鳥の羽ばたきが、湯を沸かした時の窓の白さが随分昔のことに思えてしまう。
◇
ことの顛末は数日前、街歩きの終わりまで遡るーー
謎の旅芸人が消えたのち、ユアンとカーディスはマナを馬車へ押し込み去ってしまった。登場が突然なら去るのも突然。ユアンは突風みたいな人だと、マナは呆れた。
行き先はすでに伝えられているようで、マナが何も言わずとも馬車は車輪を鳴らし始める。ろくな説明を受けないまま、マナはひとり身を揺らしていた。ユアンの王宮発言はあったものの、実感がわかない。事情を問う相手もおらず、マナは窓にかかったレースに指を差しいれて、隙間からちらと覗く街並みで気を紛らわせた。街は先と変わりなく忙しない物売りの声が響いている。
布張りの椅子が備えられた馬車は、先日乗ったものとはまるで別物で、移動の負担をつゆとも感じさせず。日が傾く頃にはあっという間に街の奥、城壁をくぐって王宮へと近づいていた。
「何をやってるのかしら、私。早くバーレンに会えればいいのに」
すっかり不貞腐れてしまったマナの脳内には、そんな願望しか浮かばず、このあとの展開など欠片も想像しなかった。
馬車が止まったのを確認し、マナは肩にかけていたショールを被ってまとめた髪を押し込んだ。念入りに耳や首元を触り、髪の毛一本も溢れてないことを確認する。
従者に扉を開けてもらい馬車から降りると、すぐにバーレンの姿を目にすることができた。
奥にある宮殿や通行人のドレスなどには目もくれず、マナは待望の名を呼び、彼の元へ駆け寄った。
彼の柔らかな金の髪が、王宮の隅でやや浮いている綿のシャツが、何より優しげな碧眼と口元が随分久しぶりに感じられる。
「もう学院の講義は終わったのね。バーレンも王宮に来てるなんて! 会えて嬉しいわ」
バーレンは「半日ぶりなのに大袈裟な」と苦笑した。
「だって、ずっとカーディスさまと二人、ここまで来るのは一人だったのよ。初めての城下町、肩が凝りそう!」
その感想におやおやとバーレンはまた笑った。
「街歩きは楽しくなかったのか?」
「いいえ! 緊張したけど楽しかったわ! 丘と違ってずっと都会なのね。思った以上だったわ。あんなに人や店があるなんて思わなかった。あと出店やレストランが多くて驚いたわ。色とりどりの旗や看板があって目が回りそうだったの」
「都の人は、俺ら田舎者みたいに家で食事をとることが少ないらしいからね」
「そうなの? ねぇ、バーレン、聞いてほしいことがたくさんあるの! 聞きたいこともたくさん。ねぇ、公開講義は楽しかった?」
矢継ぎ早に口を動かすマナにバーレンは驚いていた。こんなに饒舌になるとは、初めての街はよほどの興奮剤だったのだろう。一年あまり、ヴァイツ家の人間しかいない丘に閉じこもっていたのだからもっともである。珍しく頬を上気させたマナを見て、バーレンは連れてきて良かったと眦を下げた。
「俺もマナに話すことがたくさんあるんだ。ゆっくりしたいし、場所を変えよう」
「そうね。これからどうするの? 昨日の森の家? 夜には丘に向けて出発よね?」
「いいや、マナ、まだしばらく王都に留まることになった」
ええっとマナは頓狂な声をあげた。
もうすでに三日と家を空けている。いくらマルクスたち夫婦がいるといっても、これ以上家畜を任せておくことは出来ないだろう。それは一番の働き手であるバーレンが最もよく分かっているはずだ。
訝しむマナの視線に、「行きながら説明するから」とマナの手を引いたバーレン。うすうす予想はしていたが、脚の向きは宮殿の方であった。
「バーレン、私たちこんな格好で中に入っても大丈夫なの?」
バーレンは下ろしたばかりとはいえシャツにスラックス、タイだけのシンプルな装い。マナはまだ少年の軽装のままだ。対して周囲に視線をやると、鎧のような武装をした警護人のほか、ローブやドレスで正装している人間ばかりである。自分がアヒルにでもなった心地だ。
「一応、招かれてることになってる。問題はないよ」
「招かれるって、ユアン王子?」
いや、とバーレンが珍しく言い淀む。しばしの固い表情をしたのち、バーレンが口にしたことは、マナには思ってもみないことだった。
「実は……王宮で軍師見習いとして働こうかと思うんだ。学院で、声をかけられてね」
「……えぇ?」
今日で何度目かの驚きが、素直にマナの口から溢れた。