街歩きの終わり1
いつまでも絡むような旅芸人の熱い視線に、ふと恐ろしさを感じた。マナは慌てて足を動かし、その場をあとにする。数歩離れてカーディスが着いてくる気配がする。かつかつと足早に石畳をたたく。
「どうしたのです、急に」
通りの角を曲がり、喧騒から少し離れたところで二人は足を止めた。
むっつりと黙るマナに、カーディスは流石に口を開いた。
「あの歌、気に入っていたのでは?」
「情熱的すぎるわ」
マナは斬り捨てるように呟く。ふるりと首を左右に振った。
「ねぇ、あの人、私を見ていた。自意識過剰と思うかもしれないけど……でも、確かに。瞳の色、を」
「落ち着いてください。大丈夫ですよ、追ってくる気配もありません」
眉を寄せるマナに、彼はあやすような声色で続ける。
「もしかしたら恋じゃありませんか。あれほどの歌です、惹かれ合うものが出てきてもおかしくはありません。旅芸人との恋は正直、勧められるものではありませんが」
おどけたような口調。厳しい彼の顔つきからそのような言葉が出てくることは思わず。
なによりもその言葉の意味に、マナは愕然とした。
「何をおっしゃるの? あの方、女性だったじゃない」
ぱっと顔をあげてカーディスを見やる。マナは自分の服の裾を引っ張って見せた。
「私の男の格好、そんなに似合っているの?」
カーディスは、そのまんまるとしたその黒い瞳に虚をつかれたが、すぐさま、また笑った。
「貴方はどう見ても男装したお嬢様ですよ。それは向こうも分かっていたでしょう。……しかし若い女性は好きでしょう。ああいった細く背の高い男女が」
まぁ、とマナは口を開ける。
「それはもしかして、王宮のお話?」
「どこだって同じですよ。若い娘さんの特権です」
ひょうひょうと言ってのける彼を見て、マナは心中こっそり呆れた。
王子付きのお硬い強面男だと思っていたが、もしかしたら思っているより年若いのかもしれない。
ほんの少しの呆れと親しみを同時に抱き、マナは小さくため息をついた。
「変わった方ね、あなた」
「あの王子の臣下ですから」
その即答に、たまらずマナは噴き出した。
◇
落ち着きを取り戻したマナは再び大通りに出た。
今のところマナが使った硬貨は、先ほどの旅芸人に対してのみだ。
日も傾き始め、あまい匂いを漂わせる露店の焼き菓子やお茶が、少女の心を揺らす。しかしマナはカーディスに勧められても頷きはしなかった。
馬車を借り、王都に来られただけでも今までにない贅沢である。無駄遣いを敵とする丘での暮らしに、マナはすっかり染まりきっていた。
「そろそろバーレンは戻ってくるかしら」
「そうですね、後の夜会までは参加しないでしょうし」
カーディスの頷きに、マナの唇は、自然、緩んだ。
おや、とカーディスは瞬き一つ。
「貴方は本当にバーレン様を慕っているのですね」
マナは当然のように頷く。
「ええ、そうよ」
「てっきり若い女性は、そういうものはひた隠しにするものだと」
マナはあはは、とついに声をあげて笑ってしまった。
「カーディス様は若い女の方にいろいろ考えがあるんですね。誰か、特別な方がいるの?」
マナの笑いに対し、そうかもしれませんねぇと彼の方は顔色一つ変えない。
「だってカーディス様」
とマナは構わず続ける。
「バーレンは私の兄なのよ。とても大切な人。好きに決まってるじゃないですか」
「……血は繋がっていないと聞いていますが」
「そんなことは関係ないの。あの人が、自分は兄だと言った。だから私は」
にっこりと微笑む。
「彼のために何だってできるの」
その微笑みを、カーディスは何処かで見たことがあると、確かに感じた。
どこだったかを瞬時に思い出すことはできなかった。彼女との付き合いはまだ浅い。当然である。
「きょうだい愛というやつですか、自分にはあまり分かりませんね」
「きょうだい、いないのですか?」
「いえ、いるにはいるのですが、どこでなにをしているのかーー」
カーディスは突然、そこで言葉と足を止めた。
大通りの真ん中で立ったままになった二人を、周りの人間は訝しげに、あるいは無関心に通り過ぎ、流れていく。
「カーディス様? ごめんなさい、私、余計なことを言いました?」
マナが彼の顔色を伺う。
光をたたえたその青い瞳に、マナはぶるりと震えた。
「あ、の……カーディス様……?」
「静かに」
打ちつけるような重い声色。
「ーー狙われてます」
屈んでそっと耳打ちされる。その意味を理解し、マナの顔も強張った。
そのまま二人は通りにそって歩みを進めた。カーディスは先ほどの眼光を消し、たわいない話題をマナに向ける。
しかし、マナにとっては気が気ではない。ただ歩くだけでも、足を絡めやしないかと不安になるほど、動揺していた。先ほどまで耳に騒がしかった街の喧騒も、どこか壁のあるように遠く感じられる。
「ですから、私たちきょうだいはそうーー」
マナを落ち着かせようとする柔らかな声を、彼女はさえぎった。
「あの……カーディス様、狙われてるって、私ですか?」
ややあってカーディスは応えた。
「さぁ、どうでしょう……。男装した女性と分かっていて狙っているのならそれなりの家柄、下手すれば王家に通じるものかもしれませんし」
ええ、とマナは声を出してしまい、慌てて口に手を当てた。
「どうして」
「変装している人間は、身分を隠すほどの家柄か、よほどの悪人。もしくは先ほどのような旅芸人のいずれかです。うっかり貴族や王家でも襲おうものなら、仕返しで潰されます。そこらへんのゴロツキなら手を出さないのが不文律なのです」
なるほどと納得してマナは頷いた。しかし
「それなら、どうして。危険を避けるためのこの格好なのでしょう? 王家だなんて、私には関係ないのに」
ふむ、とカーディスは腕を組む。
「ーー狙われてるのが貴方ではなく、ユアン王子の可能性もあります」
マナは眉を寄せ、首を傾げる。
カーディスは、マナの顔色をとりあえずは無視し、「こちらへ」と手を引く。
「……誰か来ますね。敵意は感じられませんが」
「すいません、ちょっとよろしいですか」
と背後からかけられた声は甘いアルトソプラノ。
「ああ、ごめんなさい、驚かせてしまって」
旅芸人の女性が、首を傾げ、微笑んでいた。
「貴方をずっと、探していたんです。
ーーねぇ、その濡れた瞳をもう一度見せていただけませんか?」