アリカの歌
ぐるりと街を囲む門と石の壁は高く、端が見えない。しかし、王都全体を囲んでいるのかとマナが問うたところ、そんなわけはないとバーレンに笑われた。
王都に入り、大通りを行く。二人の靴を跳ね返すような感触は、草の柔らかさや土と岩の荒々しさではなく、きっちりと整えられた白石の滑らかさだ。
周りを見渡すと、建物一つ一つがひしめき合い、間は僅かほどの隙間しかない。そこを覗くと暗く湿った中にも、ぽつりぽつりと金だらいにいれた野菜を洗う女の姿や、野良猫の影があり、どこもかしこも生気に満ちていた。
長い間、ヴァイツの丘という小さな場所で過ごしていたマナにとって、喧騒や気配というものはこんなにもはっきり騒がしく感じられるものだっただろうかと、目をまわした。
忙しく人や建物に、店や広場に、あっちにこっちに目線を向ける。そんな幼子のようなマナにバーレンは笑いをかみ殺した。
「すごい人ね」
「ちょうど昼時だからなぁ。大人たちも店に押しかけてるんだよ。もう少ししたら落ち着くんじゃないかな」
言われてみればと、マナは微かに鼻を動かした。人々の喧騒のなかに、パンと魚の匂いが混じっている。つるりと磨かれた看板を立てる店の煙突からからほっそりと空に伸びる煙や、小窓から漏れる湯気も昼の仕込みだろうかとマナは首を傾げた。
マナとバーレンは馬車の中で干し肉と一欠片の砂糖を齧ったばかりで、今のところ空腹は感じていなかった。店の中からちらりと覗く暖かな食事にも足を止めることはなく、人々の間を縫って歩いていく。
「確か、お迎えがこの辺りのはずだ。ベーク通りの先の広場、洋裁店のオレンジの看板」
端に井戸が据えてある大きな広場が一望できる店の前で、バーレンは立ち止まった。なるほどオレンジの花をあしらった看板がある。
広場には、ふくふくとした腰を持つ数人の女たちが、重い荷を下ろして和やかに会話をしていた。その子どもだろうか、五人の男の子が広場の脇に生えた木の周りで騒いでいる。
「お迎え?」
周囲の穏やかな様子をぼんやりと見やりながら、マナが呟くと、「私ですよ」と低い声が背後から発せられた。
慌てて振り返ると、そこには長身の男。微笑むと目元の印象的な皺はさらに割れたように深く見える。昨日は流しっぱなしだった銀の髪が紺色の紐で括られ、がっしりとした肩から胸元へ垂れている。
すばやくバーレンは向き直り、一礼した。
「カーディス様、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。お嬢様もよろしくお願いしますね」
お嬢様、というのが自分のことを指すとは思わず、マナは目を丸くした。バーレンに肩を小突かれ、慌てて頭を下げる。以前、リタに教えられた作法に倣おうと、衣服をつまむため指を動かしたが、あいにく今日は男物の服装をしていたため、うろうろと落ち着かない仕草をしてしまうはめとなった。
カーディスと合流し、すぐにバーレンは二人に別れを告げて去っていった。王立学院へ向かう彼の瞳は期待に輝いて、マナの顔色を伺う余裕はないようだ。
先程まで街を楽しんで眺めていたマナは打って変わって肩を小さくした。隣にたつカーディスを意識してしまい、頭を覆って髪をしまい込んでいる帽子に指を当てる。
その様子を見てカーディスは小さく笑った。
「お兄様と離れるのは不安ですか?」
揶揄されたように感じ、少しの間口ごもったが、マナは頷いた。
「初めての王都だもの。カーディス様もこの髪、知ってるでしょう? それから目の色も。あんなに外に出ては行けないと今まで言われていたのに。隠してなくていいのか、私、誰かと目が合うたびに変な顔をしてしまうの」
マナが俯くと、カーディスは「大丈夫ですよ」と力強く言った。
「何か問われれば、黒ではなく深い紺か茶だとごましてしまえばいいのです。庶民の者で、王家の本当の黒を見たことがある者など滅多にいないのですから」
「……それで大丈夫でしょうか」
「私も側にいますから、もし本当の黒だと思っている人間ならなおさら近づいてきませんよ。そのための護衛と、その服です」
カーディスの視線に合わせ、マナは自身の服装を見回した。なんの個性のない男物の軽装で、街に溶け込んでいる。
今朝、ユアンが無理矢理マナに渡し、着るように言ったものだった。
「……私、もしかして貴族か王族にみられているの? カーディス様ってやっぱりすごい方なの?」
「いいえ、私は下っ端です」
カーディスはその一言だけをいやにきっぱり言い切って、「さぁ」とマナを促した。
マナも観念して、エーデンタークの散策を楽しむことに決める。
昨日のカーディスの剣の扱いを思い出すと、これほど頼りになる護衛はない。
もし何かあったとしても、バーレンの友人であり王子であるユアンが関係しているのだ。
そう思うと俄然心強く(どうしてかそのことが気に食わなくも思うものの)、若い娘であるマナには、王都の魅力が溢れんばかりに感じられるのである。
屋台にある艶めく飴細工と、何処からか聞こえる楽器の音にマナはふらふらと惹かれて行った。
◇
楽器の音の先を辿ると、開けた路地に辿り着いた。
はしばみ色の髪を揺らしながら弦を爪弾いて歌っている姿に、数人が立ち止まっている。
カーディスに問うと、王都には度々、旅芸人がこうして芸を街中で披露し、稼いでいるのだという。
昼時だからであろう。決して多くはないが、酒を片手にした人々がその音楽に耳を傾けていた。
旅芸人の前に据えてある袋には口からちらりと硬貨が覗いている。ちょうど、一人の老人が硬貨を投げ入れ音を鳴らした。
旅芸人は微笑み、さらに声を高らかに歌い続けた。弦をならす指先は音を響かせたと思えば、歌に合わせて虚空で踊ったりと、蝶のように軽やかだ。
「この歌に出てくる『アリカ』って人の名前よね?」
「ええ、そうですね。亡くしてしまった女性を探す男の歌ですね」
だからこんなにも熱心に歌うのだろうかとマナは感心した。
異性に強く焦がれたことのないマナには、いまいち分からないものだっが。
悲哀のこもった低い声が何度もアリカ、アリカと歌う。
もし、この歌ほど、男から求められたら、どんな気分なのだろう。ふと畏れを抱いて、マナは身を震わせた。
でも、と呟く。
「この歌声は好き……」
伸びやかな声は、まるでどこかで聞いたことがあるかのように、耳に馴染む。
「ではその気持ちを」
カーディスはマナの手に硬貨を乗せた。
マナは微かに緊張の面持ちで、硬貨を投げた。放物線を描いたそれはチャリンと音を響かせ、上手く袋に入った。マナはすかさず得意な気持ちになって顔を上げる。
硬貨の音に反応したのだろう、旅芸人の切れ長な瞳がマナを捉えていた。
ーーああ、アリカ。ああ、アリカ。
私の愛よ。
どうかそのまま目を離さずにいてーー。
ちょうどクライマックスを迎えた演奏と歌声は、突き抜けるように響き、次の瞬間には、周りの人々の拍手が湧いた。