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縁側にて

作者: うらがみ

*

 とにかく、私の祖父は将棋が強かった。

「王将さえ落としてしまえば、勝ちだからねえ」

 祖父はそう言って、試合前に飛車と角を私に寄越した。ここ数年、祖父は必ずそうしていた。

「まあ、飛び道具なんざ無くても、お前には負けんけどね」

 ニカっと笑って、あぐらを組み直した。

「先手はお前にやるよ。どれ、好きなように攻めてみ?」

「言われなくても!」

 そう言って、私は目についた歩兵を持つと、最初の一手を打った。

 季節は夏。

 縁側を吹き抜ける風は乾いていて、廊下の風鈴を鳴らしていく。空を覆うのは水色の絵の具のようだった。

「ほれ、お前さんの番よ」

 パチン、パチン、と駒を動かす音だけがする。

「もし、お前さんがお前さんの子供や孫と将棋をすることがあれば、その時は飛角を抜いて戦ってみるといい」

「どうして?」

「なんとなくじゃよ。深い意味は無い。でも、そのうち分かる」

 祖父は、また一つ、歩兵を進めた。

 駒が進み、試合が動く。

 陣形を作っては崩し、作っては崩しを繰り返す。

「もし、自分がそうなっても絶対手加減しないと思うなあ」

「これが手加減に見えるかの? まあその時になってみらんと、こればかりはわからんけども」

 パチン。

 祖父は再び歩兵を前進させた。

「目に入れても痛くない、という言葉はこの歳にならんとわからんよ。少なくとも俺はそうだった」

 祖父は――夢の中で、将棋を指している祖父は、いつも笑っていた。


 思えば、あれから随分と長い時間が経った。道理で、歳を取るわけである。 


*

 最近、中学生になった孫は、やたらと難しい言葉を使いたがる。

 そう言えば、私がそのくらいの頃も難しい言葉を使っていたなあ、などと自分の過去を振り返っていた。

「でね、今日は国語の時間に古文をやったんだ」

 孫は鼻をふくらませた。

「ちょっと教科書持ってくるね」

 孫は縁側の板を少し軋ませながら自分の部屋へ向かっていった。

「自分の部屋で勉強すれば良いものを……」

 呆れながらも、どこか嬉しい私が、そこにはいた。

 もう古文を読むような歳なのだ。

 絵本を読み聞かせて寝かしつけていた頃のことがつい昨日の事のように感じる。些細な事だけれど、それが私にはすごく懐かしく感じた。

 自慢気に教科書を持ってきた孫は、そのまま机の上にノートと筆箱を置いた。

「おじいちゃんは、古文って言えばどんな作品を思い浮かべる?」

「古文かあ……」

 実を言うと、私はあまり勉強をして来なかった口だった。それでも、古文といえば幾つかの有名な題名が頭をよぎった。

「突然、古文といえば、などと聞かれてもぱっと思いつかんなあ。いくつも有名な題名は思いつくが」

「じゃあ、竹取物語、って知ってる?」

「そりゃもちろんだとも。おじいちゃんがお前くらいの頃も古文で勉強したのは竹取物語だったからなあ」

 孫は照れ臭そうに、そうかあ、と言った。少しだけ残念そうに見えた。

「しかし、習ったのも随分昔だからなあ、どんな話か忘れてしまった」

 私は剃ったばかりの、ひげのあとをなぞりながら言葉を繋いだ。

「どんな話か思い出せないし、せっかくだから、ほれ、冒頭の部分を暗唱してみ」

「えー」

 それでも孫は姿勢を正すと口を開いた。

「じゃあいくよ、ええと、『今は昔、竹取の翁というものありけり』――」

 孫が暗唱を終えるまで、私は静かにその声に耳を傾けていた。

 随分と、大きくなったなあ、というのはもう少し先にとっておくべき言葉だろうか。

 

*

 この地方では珍しく、雪の降る夜だった。

 私はただ、病院の、しんと静まり返った廊下に佇むばかりだった。

 当時はまだ、高校生になったかどうかであったから、ものの分別だけは付いていたと思う。

 私の目に写るのは、周りの大人がいろんな所へ電話をかけている、その慌ただしい姿だけだった。

「今日は、父さんと母さんはこちらに残る。明日また、迎えに行くからお前は帰っていなさい」

 普段は温厚な父の声が重たかった。

 事の大きさを、私は初めて、そこで実感した。

 まだ幼い妹と弟の手を引いて病院を出たのは、いつもならお風呂に入っている時間だった。

「ねえ、おじいちゃん、どうしたの?」「ねえ、明日からどうなるの?」

 妹も弟も、それなりに何があったのかは察しているらしかった。

「大丈夫。何も心配いらないよ。帰ったら暖かいお風呂に入ろう。そしてゆっくり眠ろう。明日になればきっと大丈夫」

 私は適当にごまかした。あるいは、私自身に言い聞かせるようにそう言った。

 それから、家につくまでは誰も話さないままだった。

 降っては解けていく雪のせいで、アスファルトが水浸しだった。私のボロいスニーカーは冷たい感触を爪先に伝えるばかりだった。

 それからのことは、実はあまり覚えていない。いろんな人に頭を下げて、いろんな人に励まされて、気がつけば季節が一周回っていた。

 冬服の重さを感じながら歩いたその日は、曇一つない空だった。祖父が亡くなった日のように寒くはないけれど、それでも身を切るような風が吹いている。

 駅のホームは寒かった。電車が到着するまで、もうしばらく時間があって、その間、私は本を読んでいた。

 どこか外国の人が書いた短篇集の翻訳書だ。

 祖父が読んでいたのを思い出し、近くの書店で買ったものだった。

 私は、気がついたら泣いていた。

 

 そう言えば、祖父が愛用していた皮製のカバンはどこへ行ったのだろう。

 遺品整理の時に、もう使えないから、と捨ててしまったのだろうか。それとも誰かが持っているのだろうか。

 私は、夢から覚醒するひとときに、そんな事を考えるのだ。

 あるいは祖父と一緒に旅立ったのか。それならそれでいい気がする。

 そして、目を開く。


*

 その日は、珍しく孫が神妙な面持ちをしていた。

「そう言えば、おじいちゃんは誰から将棋を教えてもらったの?」

 すっかり慣れた手つきで、孫は将棋の駒をてきぱきと並べている。

 久しぶりに、私は孫と将棋を指すことになった。あの縁側で。

 ここ数年、空調機器にお世話になりっぱなしだった。

 夏の匂いは、久しぶりだった。

「おじいちゃんのおじいちゃん、じゃな。とにかく強かった。今でもたまに夢に見るくらいじゃ」

「へえ。勝ったことは?」

 孫はキラキラした目で聞いてきた。私は少し考えて首を横に振った。

「おじいちゃんと指す時は、いつもおじいちゃんが飛車と角を落としたんよ」

 私の祖父は本気を出すことはなかった。

 いや、一度だけ、私の祖父と父が指しているのを横から覗いたときに飛車と角を使っていたか。途方もなく強かったことだけが印象に残っている。

「飛車と角がないと攻められないよ」

 孫は自分の駒を整えながら笑った。

「そう思うだろう? でも、おじいちゃんはそんな事なかった」

 私はそう言ってまだ動かしていない飛車と角を掴んだ。

「ほれ、これで、飛車角抜きじゃな」

「え?」

「飛車角と先手をやるよ。どうぞ、お前の番じゃ」

「なんか負けたくないなー」

 孫は自分の歩兵を前進させた。

 私は駒を動かしながら、私の祖父が言っていたことを思い出していた。

 なるほど、このことか。

 不意に、すとんと心に沈んでいく物を感じた。あるいは詰まっていたものがすっきりするような感じ。

 時間をかけて思考し、駒を動かす孫の姿を見ていると、何だかこう、言葉にするのが難しいもどかしさにも似た感情が湧いてくるのを感じた。

「おじいちゃんどうしたの? さっきからにやけてるけど、そんなに変な手かなあ……」

「いやいや、そんな事はない。すまんの。ちょっと思い出し笑い、というやつじゃ」

「変なのー」

 孫は次の手を考えている。

 私はその姿を見る度に、微笑んでしまう。

 

「孫の夢に出てまで、将棋を指したくはないなあ」

 すっかり静かになった縁側で、私は日本酒を飲んでいた。

 隣には妻が座っている。

 孫は明日からまた部活があるという。随分と忙しい世の中になったものだ。

「あらあら、何かあったんです?」

「いや、別に。ただ、久しぶりに孫と戦ったらこてんぱんに負けた」

「変な意地を張るからですよ」

 ふふふ、と妻は笑った。

「でも、負けっぱなしじゃ腹の虫が収まらん」

「じゃあ今日の夜にでも将棋を指しに行けばいいじゃありませんか」

「むむむ」

 一度だけ、私が祖父に勝ったことがある。その晩、祖父は珍しく酒を飲んだと聞く。

 その時の気持ちが、少しだけ分かった気がした。

「また、近いうちに遊びに来ますって、大丈夫ですよ」

 妻はそう言って、もう一口、湯のみに酒を注いだ。酒がまずい夜だったが、悪い気はしなかった。


<了>

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― 新着の感想 ―
[良い点] ほのぼのとした雰囲気で読んでいて心地よかったです。 祖父と自分で状況をまったく同じにするのではなく、少し違いをつけているものの、祖父の感情は理解できたように描写する点も参考にしたいと思いま…
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