【 Viii 】 監獄。
深い意識の底は、黴とウィスキーの匂いがした。
生ぬるく湿気た空気が、戯れるように肌に絡みつく。
どろりとした闇が僕を包み、今にも飲み込もうとのどをうならせる。
僕は現世と隔離されたそこで、ただ与えられた感触のみを享受していた。
分厚い鋼の鋼殻を纏った、赤い月の化身。
あの大蠍に襲われて、僕は死んだ。
《那由他路》、《帽子屋》、《銀世界》、《黒蠍》。
「……ファンタジーってのはさ、羽根で出来てるから軽いんだよね」
生きているのか、死んでいるのか。
現実なのか、空想なのか。
「現実で塗り固められたら――飛べないっての」
目が覚めた時、僕はベッドに横になっていた。
ベッドと言ってもコンクリートの台に薄いシーツを被せただけの簡素な作りで、ひどく硬い。
明確になった視界は一面が灰色の天井。四隅に黴が生え、全体的にうっすら黒ずんでいた。
その中央にぽつんと吊り下げられたススだらけのランプは橙の光でぼんやりと辺りを照らしている。
「おぉ? 目が覚めたか」
枕上の方から声がした。
獣のように荒々しい低い男の声。
あちこち痛む身体を起こし、ゆっくりとそちらに顔を向ける。
「よう、坊主。気分はどうだ?」
薄暗い廊下に、熊のような大男が腕組みをして笑っていた。
二メートル近くはあろうかという巨体。齢は四十を超えている風貌だが、筋骨隆々とした肉体に衰えは全く感じられない。短く切りそろえられた髪とびんにまで繋がった顎髭は濃いブラウンで、彫りの深い西洋的な顔立ちをしている。
深緑の軍服を着たその背には、自身の背丈よりも更に高い大斧・ハルバードが鈍く光っていた。
「気分? 最低だね」
僕は男に苦笑を投げかけながら言う。
「……これが何かの冗談なら最高だけど?」
両手首にかけられた手錠の鎖がJaranと揺れる。
鉄格子の向こうで、牢の番人が豪快に愉快そうな笑い声をあげた。
「残念だが、最低のままみてぇだな」
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
「さてと」
監守の男は岩のような手で顎髭を撫でながら、困ったように笑った。
恐らく監獄は横一列に連なっているのだろう。通路は僕の入れられた牢を壁に横に伸びており、牢でない方の壁には所々明かりが灯っているものの、やはり暗い。地下なのか窓も見当たらなかった。
「色々と訊きたい事もあるだろうが、少し待ってくれ。じきに本人が来る」
「本人?」
「お前さんを監獄にぶち込んだ本人、だ」
男は再び苦笑すると、鉄格子に寄りかかって軍服の内から小さな酒瓶を取り出した。
コルクを歯で抜き、琥珀色の液体に口を付ける。微かにウィスキーの匂いがした。
「職務中じゃないの?」
「ん?」
僕が問うと、監守は肩越しに向けた顔に疑問符を浮かべる。僕の視線が彼の軍服に向いているのを見て、その表情がわずかに曇った。
「ああ、コレか? ――ちょいと事情があってな、今は軍人じゃない」
「そうなんだ」
まぁ、この大男が軍人かどうかなんて僕が詮索する事ではないのだけれど。
僕はまた硬いベッドに横になって、今置かれている状況をまとめなおすことにした。
さて、まずここは何処だろう。
いやはや全くもって訳が解らないが、何故か監獄だ。だけど僕が気を失ったのは、見渡す限り地平線が続いていたあの草原。すぐ近くにこんな収監施設があったとは思えない。
とすれば、例の機関銃少女がどこかの組織に連絡をして、そこから派遣された部隊が僕をここまで運び込んだと考えるのが妥当だ。
ではその組織とは。
最も有り得るセンは、警察や救助隊。この世界にも僕達の世界と同程度の社会が営まれているとしたら、そういった公的な機関があって当然だろう。
――いや、それなら今ごろ僕は病院にいるはずで、手錠をかけられて牢に入れられている訳がない。あそこが国家機密にでも関わるような所なら話は別だが、そういった訳でもなさそうだった。
ではどういう事だ?
…………。
認めたくないけど。
多分、かなり非合法な組織に拉致監禁されているという事だろう。
「……グルーディス。例のあいつはどうだ?」
薄暗い廊下の奥から、石畳と擦れ合う靴音が近づいてきた。
それと同時に、少し前にどこかで聞いたような声。
「あぁ、目ぇ覚ましたぜ」
監守は鉄格子にもたれた状態からのっそりと体を起こし、道を空ける。
わしわしと顎髭を撫でながら、僕ににっと笑いかける。
――なにか可哀想なものを見るような目で。
「なんつーか……頑張れよ、坊主」
が……頑張れよ?
「……ご苦労だった。後は私が引き継ぐ、下がって構わない」
「了解」
同情を残して去った監守と入れ替わりに現れたのは、ひとりの少女。
「えっと、しばらくぶりだね」
「…………」
微笑みは氷の視線で射貫かれ、挨拶は華麗に無視される。
ダークブラウンのジャケットに十字の銃帯、コバルトブルーの瞳と緑の黒髪。
そして微かに硝煙の匂いを漂わせた少女は、僕を見て僅かに眉をひそめ、呟いた。
「それで――貴様、人間か?」
今度は僕が無言になる番だった。