【 Vi 】 明澄。
「…………ん……」
窓から差し込む柔らかな朝日に、は目を覚ました。
線の細い華奢な体つきに、透き通る滑らかな白い肌、顎先が尖った端正な顔。
ベッドに長い川を作る、絹のように真っ直ぐな緑の黒髪。
陽の光を薄く照り返すネグリジェと相まって、遠目から見れば精巧な人形にも見える。
「……朝か」
少女はぽつりと呟いた。
透き通った美しい声音でも、その調子は重く沈んでいる。
年頃の少女とはほど遠い、年老いた猫を思わせる物憂げで寂寞たる表情。
伏せられた切れ長の目はくっきりとして大きいが、そのコバルト・ブルーの瞳に明るい光は宿っていない。ただ全てを諦めきったような静けさだけを帯びていた。
そして同時に、その目こそがユウィル・フルーシャという少女の象徴だった。
どこからか鈴を転がすような小鳥達のさえずりが聞こえる。
陽はまだ昇り始めたばかりだったが、大地はもう確かな生命の鼓動を刻んでいた。
機械的な動作で身体を起こし、顔を窓の外に向ける。
素朴な木枠の窓は朝霧に曇り、そこを透る日の光を幻想的に膨らませていた。
ユウィルが窓を押し開けると、重く淀んだ空気がすっと消え去り、入れ替わりに新鮮な朝の風が吹き込んだ。
窓の向こうに広がる銀灰色の空は普段より一層澄み切っている。
「そうか……昨夜は」
言いかけて、忌々しそうに途中で口をつぐむ。
――暗融月。
この世界の大空に君臨する三つの月のひとつである乾いた血のように赤黒い月は、その不吉な印象ゆえにミファル神話では死の世界、聖戦黙示録では邪神の象徴とされた。
全く不定期に突如現れ、陽が差すころに跡形もなく消える――その様子があたかも夜の闇に融けゆくようであるということからこの名がついたと言われている。
だが暗融月が融けた翌日の空は、世界中の影を連れ去った後のように美しくなるのが恒例だった。
ユウィルは雲一つ無い空を睨む。
今頃は世界中の誰もがこの晴れ渡った空を眩しそうに見上げているに違いない。
単なる朝のちょっとした良い出来事として、その意味も知らずに。
今はどこに存在するかも解らない魔界の月に唇を噛み締め、ユウィルは空から視線をはずした。
身支度を整え、大切そうに壁に飾られたダークブラウンのレザージャケットを羽織る。
丈が短く、あちこちが傷と泥にまみれた古い上着は明らかに戦闘用のそれだ。
染みついた硝煙の匂いと所々に空いた弾痕が戦場の気配を重苦しく漂わせている。
ジャケットの中では二本の銃帯が胸の前で交差するように掛けられている。ホルスター部分が背中側にまわっているために、銃そのものを確認することはできない。
髪をかき上げようとしたユウィルの白い手が上着の襟首についたバッヂに触れた。
朽ち果てた剣を護る、炎を纏った不死鳥をかたどっている。
それすなわち、世界で最も強大な組織のひとつ――《古刃連盟》加盟者の証。
連盟内での階級を表す剣は、そのバッヂには最高級階位『覇』を示す六本が描かれている。
「父上――私は、必ず」
力強くバッヂを握りしめた少女の瞳の深い闇に、冷たい怒りの感情が滲んでいた。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
一面に背の低い夏草が広がり、地平線で空と交わる未開の地・『サトロ』。
草の匂いを運ぶそよ風と麗らかな陽射しが一年にわたって続く、温暖な気候の土地である。
まるで人間という存在を完全に切り離したかのような、自然のみによって構成された領域。
ある種の楽園に対する憧憬すら感じさせるが、その自然には異常な特性があった。
――動物が住まない。
住めないのではない。
実際、《政府》の研究者たちが地質から草の種類まで徹底的に調べた事があったが、結果は全くと言っていいほどに問題なかった。
彼らはこの結論に首をひねり、研究報告書をこう締めくくるのだ。
『野生の草食動物や鳥類が生息するのには最適の場所と言えるはずだ』と。
(……違う)
サトロの唯一の住人である深い蒼色の瞳の少女はかぶりを振る。
(生命を寄せ付けない確固たる意志が必ず存在する)
彼女は広大な面積を誇るサトロといえども、自身以外には動物たちが住んでいないことを知っていた。
それはこれまでの十八年間をこの地で過ごしてきた彼女の経験であり、喜びであり、憂鬱だった。
(なのに――)
故に、ユウィルはその事実にただ慄然とするしかない。
(なのにこの匂いは……何?)
夏草の海に細波をつくる風にのった、鼻孔にまとわりつくような匂い。
大量の血液の匂いだった。