【 iV 】 崩壊。
《帽子屋》の消失は、《那由他路》の存在をより一層不気味にさせた。
無秩序と混沌――。
それは主を失った従者のように、あるいは兵士を亡くした王のように。
幼い子供のものと思われる笑い声、泣き声、叫び声が混ざり合い、陽気ながらもどこか気味の悪いクラシックがそれを包む。鳴り続く鐘の音は、全ての雑音を打ち砕いて突き抜け、ただ孤独に響き渡った。
「劫。……これは」
「うん。ここ、多分もうすぐ崩れるね」
《那由他路》自体の存在の揺らぎ。それを僕達は感じ取っていた。
『空間の崩壊』は、普通はまず感じることが出来ない。
何故なら、三次元の存在にとって『空間の崩壊』は自身の消滅に直結するために、それを感覚として捉えることに何の意味もないからだ。一定以上の痛みが感じられなくなることに少し似ている。
だけど……一度『空間の崩壊』を経験することで、否が応でも感じるようになる。
とある知り合いの連続殺人犯は、この感覚を『メタ・センス』と呼んでいた。
少し前に起こった災難な事件に巻き込まれた僕と令嗣は、それを身につけてしまっていた。
しかし何度も言うように、三次元の僕達がそれを身につけていてもどうしようもないわけで。
このままでは跡形もなく消え去ることは確定済みなのだ。
「令嗣、とりあえず何か手掛かりがないか探そう」
「あぁ。俺は床の方を調べる。お前はそこらに散らばったやつを頼む」
「OK」
席を立ち、くまなく《那由他路》中を歩き回る。
滑車の中をぐるぐる駆けるハムスターにでもなった気分だけど、こっちは回るのが滑車ではなくて僕達の方なのだ。重力は常に足下に向かってはたらいてくれるので、頭に血が溜まったりしないのが唯一の救いかも知れない。
Gown-Gown...
鐘の音はまだ鳴り続けている。これは脱出と何か関係あるのだろうか。
しばらく音源を特定しようと歩き回ってみるが、結局どことは特定できない。
世界の外側から響いてきていた。
何かの位置を教えてくれるものでないとすれば……おおかた空間消滅の警鐘といったところか。
「……使えないな、おいっ!」
拳銃を突きつけてきた相手が『君、撃たれるよ』と言ってくれたような感じだ。
オルガン、トランプ、ティーセット……色々と調べてみたが、どれも脱出には役立ちそうにない。
的を絞らなくては、時間切れになるほうが早いだろう。
せめて《帽子屋》のように瞬間的に移動が出来れば話は早いんだけど……。
「――瞬間移動?」
《那由他路》から別の世界への――瞬間移動。
あれは《帽子屋》の特権のような感じがしていたけど……。
いや、そもそも。
《那由他路》の住人だからといって、別の世界へワープできる能力はあるのか――?
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
「まずいな……崩れるまであと三分ってとこか」
丁度僕の頭上の辺りに立っている令嗣がぼやいた。
地震のような揺れに加え、床のタイルがバラバラと剥がれ始めている。
空間の消滅の時が刻一刻と迫っていることを強く感じていた。
《那由他路》が世界規模として考えれば狭いにしても、床をめくるには広すぎる。
令嗣もかなりの数のタイルを引きはがしてきたのだろうが、顕わになったフローリングの床はまだ全体の三分の一程度だった。今までのところ、それらも手掛かりになりそうはない。
……やれやれだ。
すっかり冷め切った紅茶を一口飲み、僕は溜息をつく。
「劫……? 貴様何をしてるんだ……?」
鷲名令嗣の殺意の波動は背筋を凍らせる。
「まっ、まぁまぁ令嗣、パイナップルクッキー、食べない?」
先程まで茶会が開かれていたテーブルに腰掛けながら、令嗣に笑いかける。
しかし令嗣は懐の短刀《夜》のように鋭利な視線で僕を射貫き、静かに佇んだまま動かない。
……まずい。このままでは《那由他路》崩壊より先に、令嗣に殺られかねないな。
《帽子屋》を真似て、咳払いをしてみる。
「令嗣。《帽子屋》はこのテーブルに突然現れたよね。そしてここで……消えた」
「……? 何を言って――」
「ある世界の一住人に過ぎない彼が、《那由他路》の中でならともかく――他の世界にまで瞬間移動できるとは思えない。何らかの移動手段、つまり媒体を使ったと考える方が自然だと思わないかい?」
「…………」
顎に手を当てて俯きがちに僕の話を聞いていた令嗣が、やがてはっとしたように顔を上げた。
「……手伝ってくれる? ひとりじゃ厳しいみたいでさ」
僕は手の甲でテーブルを叩いてみせた。
こちらに駆け寄ってくる令嗣は、すでに激動と言ってもいい地面の揺れに少しも危うくなる様子はない。床に所々開き始めた穴の向こうには、漆黒の闇だけが冷たく広がっていた。
そろそろ空間崩壊も最高潮だ。
「OK、準備は良いかい。いくよ、せぇ……」
go-GOTON...
令嗣がテーブルに手をかけた時を見計らって僕が放った掛け声は呆気なく無視された。
重低音を響かせながら、木製の厚いテーブルが令嗣ひとりの力で引っ繰り返る。
いや、事が済めば別にいいんだけど……何か泣けてきた。
「フッ……馬鹿かと思えば、肝心なときには頭が切れやがって。……やはり俺はお前が苦手だ」
「買い被りすぎだよ」
裏返しになったS字型のテーブルの、丁度《帽子屋》の席辺り。
見たこともないような鮮やかさで刳り貫かれている穴は兎の形で――その向こうには、明らかにテーブルの厚みを超える空間が広がっていた。中では七色の光がうねり、渦を巻きながらまばゆく輝いている。
空間と空間を繋げる、いわば転送装置。
――《白兎が賢しき者を更なる奇へと導かん》
「刻印がしてあるね」
「《帽子屋》の次の白兎か。順番が滅茶苦茶だ……だが、行くしかないようだな」
「うん、行こうか」
兎の形をした穴に手をかざすと、Fawnという柔らかい音がかすかに響いた。
警鐘は既に止み、世界は諦めたように終焉の時を迎えようとしている。
《那由他路》崩壊、約二十秒前。
僕達はコバルトブルーの風に包まれ――白兎に導かれていった。