【 iii 】 木霊。
《帽子屋》はまた気取ったように指を鳴らす。
乾いた音が響くと同時に、例によって今度は桃色の可愛らしい皿が現れた。
チョコレートソースからマーマレードジャム、更にはフルーツの盛りつけられたものまで、実に多種多様のクッキーがずらりと並び、小麦の焼けた良い匂いを漂わせている。
逆にいえばクッキーしかなかった。
アリスを茶会に招いた陽気な帽子屋に、クッキーが大好きという設定があったかどうか考えてみたが、特に思い当たる節はない。
これは彼の純粋な好みのようだ。
彼はパイナップルが載っている一枚を取って、その香ばしさを感じさせる音を立てて囓った。
「とりあえずお茶にしてはいかがですか? 紅茶も冷めてしまいますし」
《帽子屋》がクッキーを咀嚼しながら言う。どこか声も弾んでいた。
「いえ、パイナップルのを狙っていたのでもう結構です」
嘘だけど。
それよりも元の世界に、と僕が言いかけたところで、
「なんと……! これは失礼を致しました!」
《帽子屋》が素っ頓狂な声をあげた。
クッキーが出てきてから無意味にテンションが高い。
乾いた音と同時に、無の空間からパイナップルクッキーが大量に載った皿が僕の目の前に構築される。
甘ったるいシロップの香りで目眩がしそうだ。
ここまでされれば断るのも悪い、のかな……?
試しに一枚食べてみる。
「…………」
これは、何とも。
パイナップルから腐敗した魚のような匂いがする。
シルクハットの下から覗く、僕が喜ぶ場面を心待ちにするかのような視線がただ辛い。
「微妙だったのか」
令嗣が正面を向いたまま小声で囁く。
「いやいや令嗣、これすごく美味しいよ。一枚といわず全部食べていいよ」
「……沈黙ってのはお喋りだな。それに俺は一枚たりとも食べないぞ」
令嗣がメープルクッキーを咥えながら鼻で笑う。
この令嗣の嘲笑を、僕は決して忘れないだろう。
「ところで、話を誤魔化そうとしても無駄ですよ」
紅茶で口直し――いや、喉の渇きを潤したところで《帽子屋》に向き直る。
「その通りだ。さっさと元の世界に戻して貰おうか」
令嗣がクッキーの半分を右手に持ったまま言う。
少し味が悪いくらいの程度ならば残さず食べる奴なので、おそらくメープルの方も相当な不味さであったであろう事がうかがえた。
何だこの不味いクッキーシリーズ。
「あー……、あのですね。ひとつ伺ってもよろしいですか?」
《帽子屋》が目を伏せたままぼそりと呟いた。
「何ですか」
「お二方はこう、異常なほどに冷静……といいますか、動揺などが感じられませんので……」
あぁ、と同時に頷く僕達。視線を横目で交錯させて、自嘲気味に笑い合う。
「ま……色々、あったからね」
「ああ。異世界に飛ばされました、くらいなら許容範囲だ」
「そ、そうですか。《蒼》もしばらく行かない内に、様変わりしましたね……」
こころなしかうなだれたようにする《帽子屋》。
僕達の方が変わってるって事は考えないらしい。
《蒼》というのが僕達の世界を示す言葉だとすると、なんだかその代表として申し訳ない気もする。
……いや、僕はごく普通だけど。
「さて……元の世界に戻せ、というお話でしたね」
手袋の白で一層細長く見える指をティーカップに絡ませ、静かにこの世界の主は語りだす。
「そうですね、結論から言いますと――」
《帽子屋》は勿体ぶるように一呼吸置いて、
「可能です」
と誇らしげに言った。
何か流れで『そんなの無理ですよ』なんて言いそうだったから、少し拍子抜けする。
「しかし……そうですね。まずこの世界について、知って頂く必要があります」
「《那由他路》、だったか?」
「ええ。那由他は多量の数を意味し、路は数多の世界に繋がる道を意味する……つまり、ここは中継所のようなものなのです」
世界と世界とを繋ぐ――中継所。
にわかには信じがたい。しかし、この《那由他路》自体が人知の遠く及ばない事を証明している。
……やれやれ、勘弁して欲しいね。
「私はこの《那由他路》の主人であり従僕。無限の世界の王にして奴隷」
《帽子屋》の声は低く世界中に巡り、響いて木霊する。
「《那由他路》が貴方達を呼び寄せた場合、直ぐにでも戻して差し上げることが出来ます。……しかし此度はそうではない」
…………。
何のことかさっぱりだ。
隣を盗み見ると、背筋が一直線に伸びている令嗣と目があった。
「令嗣。この人が何を言っているのか、よく分からないんだけど」
「『私は皆様の従僕かつ奴隷です』――と言っている」
「違います! 都合の良いように解釈しないで頂きたい!」
冗談だ、と令嗣は無表情のまま断ち切る。
自分で放った冗談を、これほどまでに無慈悲に回収する男はそういない。
「つまり。今回は俺達がこの世界と繋がれているわけではなく……別の世界と繋がれているから、パイプの役割を果たすことしか出来ない、と。そういう事だな?」
「……その通りです」
「元の世界に戻すことについて可能ですと言ったのも、お前の力によってではなく、結局はその別の世界についてからの話であると」
「…………はい」
困窮する《帽子屋》。令嗣の空気に飲み込まれて完全に萎縮していた。
先程感じた圧力は何だったのか、ふと疑問になる。ただの過剰反応だったのではないか、と。
……いや、それは僕の願望か。僕だけならともかく、令嗣もそれを感じて身を強ばらせたのだから。
あれは本物の――圧倒的な死の威圧感。
今は奇妙な帽子屋を気取ってはいるが……能ある鷹は爪を隠す、ね。
令嗣に目配せをする。彼も同じ事を考えていたらしい、少し肩を竦めてみせた。
Gown、Gown……。
突然、鐘の音が響き渡った。
壊れたテープレコーダーから流れ出るように、少し掠れた音が延々と繰り返される。
「おや……時間のようですね」
「これは一体何の――」
何の合図ですか、と僕が問うつもりだった相手は、既にその席を離れていた。
……いや、どこを見渡しても、シルクハットの男の姿はない。
湯気の立ち上るティーカップはそのままに。
鐘の音と入れ替わりのように。
《帽子屋》は消えた。
「茶会は終わりって事か……?」
クッキーの残りを口に投げ入れ、それを紅茶で飲み下してから、令嗣は不敵な笑いを浮かべた。